珈琲時光(’03) ホウ・シャオシェン <「日常性」は、ほんの少し更新されていくことで、自在に変形を遂げていく>

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私の大好きな「珈琲時光」。
 
肩ひじ張らず、ゆったりとした時間が流れる映画が切り取った、「日常性」の静のリズムの心地良さ。
 
上京して来た父のために、アパートの向かいの大家さんの家に、一青窈が酒とグラスを借りに行くシーンは、ヒロインのおおらかな性格と生活風景が凝縮されていて、最高にいい。
 
ヒロインが住む、巨大繁華街・池袋の一角にある雑司が谷は、法華経の守護神・鬼子母神の存在によって、下町情緒あふれる風景を醸し出している。
 
浅野忠信は、いつもいい。
 
―― 以下、梗概と批評。 
 
 
 
1  趣味・仕事・世界を持って自由に生きる二人の若者の、緩やかで、ぬくもりのある心的交流の物語 
 
 
 
台湾から帰って来たばかりのフリーライターの陽子が、洗濯物を干している所に、電車の録音を趣味にする鉄道マニアで、神田神保町にある古書店主の主人・肇から、携帯電話がかかってきた。
 
高崎に帰郷する前に、肇の古書店に立ち寄るつもりであることを伝えた後、変な夢を見た話をする陽子。
 
古書店への立ち寄りの目的は、彼女が調べている、江文也(こうぶんや/台湾の音楽家で1983年に逝去)についての資料が見つかったという連絡を受けたからである。
 
因みに、陽子の夢の内容は、取り換えられた赤ちゃんの顔が老人ぽくって、体がドロドロに溶け、体は氷でできているという怖い話。
 
その直接、陽子は都電荒川線に乗り、大塚で山手線に乗り換える。
 
そこから、いつものように、神保町の古書店に行く。

江文也について知り得た情報を話す陽子に、肇はヨーロッパの民間伝承である「ゴブリン」(邪悪な精霊)の中に、彼女が見た夢の話が挿入されていることを説明する。
 
そこには、「チェンジリング」という、「嬰児交換の民話」が収められていると言うのだ。
 
古書店を後にして、陽子は高崎に向かう。

最寄駅の上信電鉄の吉井駅で、父が迎えに来ていた。
 
父がテレビでナイターを観ている傍らで、自宅の座敷で横になり、リラックスして、羽を伸ばす陽子。
 
「妊娠しているの」
 
唐突だった。
 
夜食を食べながら、義母に告白する陽子。
 
「誰?」

「台湾の彼」
「彼って?」
「うん。よく帰るでしょ、私。でも、結婚しないよ」
「親御さんは?知ってるの?」
「うん。でも、自分でちゃんと育てるし…」

それだけの会話だが、両親に衝撃を与える内容だった。
 
翌日、墓参りの後、3人はそば屋で食事をする。

妻から娘の一件を知らされ、その動揺する思いを、全く言葉に結べない父。
 
東京に戻った陽子は、肇から「ゴブリン」の絵本を渡され、それを読んでいくうちに、自分が4歳の時に家を出ていった実母のことを鮮明に想起する。
 
引き続き、江文也の取材を続けていく陽子。
 
お茶の水の駅で肇と待ち合わせていた陽子は、車内で気分が悪くなり、新宿で途中下車する。
 
プラットホームで座り込んでしまうのだ。
 
肇と会い、有楽町に行くが、再び気分が悪くなり、心配する肇に、「妊娠しているから」と、路上で直截(ちょくさい)に言い放ってしまうのである。
 
二人は喫茶店に入るが、江文也の取材を手伝う肇の言葉には、感情の失速感が感じられた。

雑司ヶ谷に住んでいる陽子が、自宅のアパートに戻ると、高崎の母親から、父が会社の上司の葬儀に参列するために、東京に訪ねて来るという電話が入る。
 
今度は、肇が陽子のアパートに訪ねて来る。
 
具合の悪そうな陽子を心配し、食事の世話をするのだ。
 
独特のセンスを持つ肇が、コンピュータで描いた電車の絵を見せるのだが、その目的が、妊娠を告白した陽子に元気を与えるためであるのは自明だった。
 
肇の訪問で元気が出たのか、陽子は江文也の奥さん(江乃ぶ夫人)と会い、若き日のアルバムの写真を見せてもらいながら話を聞く。

洗足池に出た陽子は、その足で山手線に乗り換え、向かいの京浜東北線に乗車している肇に気づかず、雑司ヶ谷に戻って来た。
 
都電荒川線の駅で、父が陽子を待っていた。
 
母は鬼子母神に寄っていると言う。
 
両親と共にアパートに戻り、母に大好物の肉じゃがを作ってもらい、「おいしい」と言って、一気に口に頬張る陽子。
 
アパートの向かいの大家さんの家に訪ね、菓子折りを持って挨拶する母。
 
陽子は、父のために、お酒とグラスを借りに来たのである。
 
それを恥ずかしがる母。
 
醤油まで借りるという陽子にとって、それが日常的な付き合い方だった。
 
食卓を囲んで、母は娘に、最も聞きたいことを尋ねていく。
 
「何か月なの?」

「3か月?」
「病院行ったの?」
「うん。心配しないでいいよ…でも、結婚はしない。だって、お母さん、べったりなんだもん。一家で傘の製造やってて、絶対、私、結婚なんかしたら、手伝わされるし、そんなの無理…もともと彼は、私が台湾で日本語教えているときの学生なんだけど、彼はアメリカンスクールに通って、卒業してアメリカに行って、お母さんもね、ついて行っちゃうくらいにマザコンでね…でも今、タイで、お姉さんと一緒に工場の管理している」
「連絡とってるの?」
「うん、電話くるよ。タイに来い、タイに来いって」

この言葉で、もう、母は何も言えなくなった。
 
一貫して、沈黙している父。

両親が帰郷し、今、陽子は都電荒川線に乗り、山手線に乗り換えた車内で眠り込んでしまう。
 
そこに、駅のアナウンスや電車の音声を録音している、鉄道マニアの肇が乗車し、眠り込んでいる陽子の前に立ち、起こさないで静かに見守っている。
 
肇は今、陽子と共に御茶ノ水駅に降り立ち、引き続き、音声の録音をとっている。

中央線・総武線・地下鉄丸の内線の車輌が交差する、見事な風景の構図がラストシーンとなって、印象深い映画が閉じていく。
 
―― この映画は、自分の趣味・仕事・世界を持って自由に生きる二人の若者の、緩やかで、ぬくもりのある心的交流の物語であると言えるだろう。
 
それが、二人の適切な距離感なのである。
 
だから、お互いに干渉し合わない。
 
そのように考えると、本作は、自由な東京での暮らし方の一端が、鮮明に見えてくる映画として読み取ることも充分に可能である。
清々しい映画である。
 

人生論的映画評論・続/ 珈琲時光(’03) ホウ・シャオシェン <「日常性」は、ほんの少し更新されていくことで、自在に変形を遂げていく> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/11/03.html