マルタのことづけ(‘13) クラウディア・セント=ルース<「『母性代行者』=マルタ」との出会いと別れの物語>

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1  メキシコの海で、存分に弾け回る「5人プラス1人」の疑似家族
 
 
 
メキシコにある中米屈指の世界都市・グアダラハラ
 
スーパーに勤務するクラウディアが、4人の子を持つマルタと運命的な出会いを果たしたのは、彼女が虫垂炎で入院するに至ったことが契機だった。
 
「盲腸は不要な臓器よ。一人なの?ご家族は?」とクラウディア。
「外にいる」とマルタ。
「あなたは何の手術?」
「できないの」
「じゃ、何の病気?」
 
この質問に答えない臨床のマルタは、ここで自己紹介し合うのみ。
 
まもなく、退院したクラウディアが、術後の重い体を引き摺るようにして帰途に就く。
 
「体に障るわ、送るから乗りなさい」
 
車の中からクラウディアを見つけたマルタがやさしく声をかけたことで、子供連れのコンパクトカーに同乗するクラウディア。
 
迎えがないクラウディアには、身寄りが遠く離れていて、独りで暮らす独身女性であることを話すが、それ以上のプライバシーの自己開示はなかった。
 
「僕のパパは死んだ」
 
これは、4人姉弟の末っ子・アルマンドの言葉。
 
この一言で、マルタがシングルマザーである事実が判然とする。
 
自宅に招待したクラウディアに、マルタは4人姉弟の我が子を紹介する。
 
長女はライターとして働いているアレハンドラ(以下、アレ)、肉好きで肥満気味のフリーターの二女・ウェンディ、自分の母をマルタと呼ぶ思春期盛りの三女・マリアナ、そして末っ子・アルマンド
 
マルタとアレの指示で、てきぱきと動く姉弟の性格は母に似て、極めてオープンで陽気である。
 
だから、姉妹喧嘩も絶えず、狭い家でのマルタ家の活気だけが目立っていた。
 
明らかに、寡黙なクラウディアとの性格の対比が際立っている現実を、この賑やかな食事の一つのシーンで見せていく。
 
そのクラウディアが、マルタがHIV患者である事実を知るのは、マリアナアルマンドの学校の送り迎えをした際に、母・マルタの病院への付き添いに随行したときだった。
 
交代で母の付き添いをする姉弟たちと共に、そこにクラウディアが加わることになる。
 
「母はケチな人よ。レストランで砂糖やナプキンをくすねる。父はいないも同然」
 
病床のマルタに、両親がいても、全く交流がないその天涯孤独の身を告白するクラウディア。
 
「私が死んだら、ウェンディに渡して。夫はホメオパシー信奉者だった。だからウェンディに」
 
そう言って、クラウディアにホメオパシーの療法で調合する瓶を渡すマルタ。
 
因みに、ホメオパシーとは、同様の症状を起こす薬剤を使用することで、病気を治療しようとする民間療法(同種療法=毒をもって毒を制す)のこと。
 
天涯孤独の身を告白したクラウディアの思いを受け、マルタも複雑な事情を告白する。
 
「長女・アレの父とはパーティーで知り合い、良い仲になったら失踪した。ウェンディの父とは結婚した。4年間続いて別れた。その後、アルマンドと知り合った。マリアナアルマンドの父親。私が夫と言うときは彼のことよ。病気は彼からうつった。うつされた当初は、顔を見るのも嫌だった。しかし、彼の最期を看取った」
 
このマルタの告白から判然としたのは、アレの父、ウェンディの父、マリアナアルマンドの父が異なるということ。
 
そして、メキシコのHIV感染率が25.6%というデータがある中で、男性間の性的接触である肛門性交の割合が最も高いと言われるラテンアメリカにあって、マリアナアルマンドの父からHIVをうつされたという事情である。
 
且つ、マルタが感染から抗体検査を受けても陰性になる、「ウインドウ期(ウインドウピリオド)」と呼ばれるHIVの初期症状をとうに通過し、今や末期症状にある事実が明らかにされる。
 
まもなく、スーパーの仕事に復職したクラウディアは、マルタの入院に付き添い、留守中のマルタの子供たちの相談に乗ったり、自分の職場に案内したりして、彼らの面倒を見るようになる。
 
そんな中での、マルタとクラウディアの会話。
 
「いつから一人なの?」とマルタ。
「2歳から。母が死んで」とクラウディア。
「お父様は?」
「知らない」
 
あっさりとした会話だが、幼少時から生い立ちの不幸を背負って生きてきたクラウディアが、「思い出」となるような記憶を持ち得ない、その孤独の様態を示唆する何ものでもなかった。
 
しかし、クラウディアの生い立ちに同情するマルタ自身の命が消えつつあった。
 
「時々、死ぬのが怖くなる」
 
付き添いに立ち会うクラウディアに吐露するマルタの言葉である。
 
海に行きたいと言うマルタの思いを汲み取って、長女のアレは、クラウディアを含む家族全員を乗せたコンパクトカーで「大移動」を敢行する。
 
クラウディアから遠く離れたメキシコの海で、存分に弾け回る「5人プラス1人」の疑似家族。
 
ハンモックに揺られて、笑顔が絶えないマルタ。
 
しかし、マルタの笑顔は続かない。
 
夜になって、吐き下してしまうマルタの苦痛が映像提示される。
 
心配して、母を介護するアレ。
 
マルタの症状の急変が、疑似家族のほんのひとときの睦みの時間を奪ってしまうのだ。
 
マルタの入院によって、明るく開かれたメキシコの海と訣別するに至る。
 
「書けるようになるには、8年は長かったけど、演じるには足りなかった。私を家に置いてたら、最後は迷惑をかける。納骨堂はお代がかかるし、忘れられそう。ずっと映画みたいに、海に灰をまいて欲しいと思ってた。でも、この旅をしてみたら、気が変わった。できれば、町中に私の灰をまいて欲しい。どこででも私を思い出すように」
 
マルタの遺言である。
 
その遺言通り、マルタの灰を町中に車から撒いていく家族。
 
残された家族一人一人へのマルタのメッセージが紹介された後、最後は、クラウディアへの心のこもった「マルタのことづけ」が語られていく。
 
「ため息は、呼吸だけでは空気が足りていない証拠よ。過去は何も知らないけど、いい男と一緒だったはず。いつまでも一緒にいて。私たちの人生に現れてくれてありがとう」
 
ラストシーンである。
 

人生論的映画評論・続/ マルタのことづけ(‘13) クラウディア・セント=ルース<「『母性代行者』=マルタ」との出会いと別れの物語> )より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2016/12/13.html