あん(’15) 河瀬直美<抑制力を欠き、「全身自然派系」にシフトしていく物語が失ったもの>

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1  子を産めなかった女と、母を喪った男との「疑似母子」の物語
 
  
 
前半は、文句なく素晴らしい。
 
自分の顔を傍に近づけながら、小豆(あずき)と対話する76歳の徳江。
 
手の甲に皮膚疾患(結節)の目立つ徳江の穏やかな表情が、50年間、「あん」作りに魂を同化させてきた一人の女性の、「超克の人生」の片鱗を鮮やかに映し出していた。
 
徳江の人生それ自身が、畑から自分の元にやって来た小豆(あずき)を愛(め)でながら、おいしい「あん」に、丹精込めて仕立てあげることの喜びに満たされているので、十分すぎるほどの時間の集積だった。
 
それは、畑からの豊穣なる贈り物に対して、育て上げる思いを有する彼女の至福の境地そのものなのだ。
 
「柊(ひいらぎ)の垣根の外の世界」で、一度でも働いてみたかったという徳江の願いが、今、自分の大好きな「あん」作りによって手に入れられたのである。
 
一方、「甘党」ではない、雇われ店長の千太郎は、徳江の秘めた強い思いを知ることなく、その「あん」作りの超絶的手腕に感服する。
 
「こんなの初めてです。やっと自分が食べられるどら焼きに出会った感じです」
 
桜が散った陽春から、二人は二人三脚の「どら焼き屋」を切り盛りし、予想だにしない盛況を具現する。
 
その二人に、貧しい母子家庭で、高校へ行けるかどうかも分らない女子中学生・ワカナが絡んでくる。
 
この三人を中心とした物語が、ハンセン病という重いテーマを軸に展開していくのだ。
 
この重いテーマを「どら焼き屋」に持ち込んだのは、女性オーナーだった。
 
「知り合いが言うにはね、癩じゃないかって。今は、ハンセン病とかって言ってるんだよね…あんた、知ってる?癩病ってさ、ひどい人になると、指が落ちたりすんのよ。鼻とかも溶けちゃったりして…よく分んないけど、昔はさ、一生、監禁ものの病気だったんだよ、癩病って。あたし昔見たよ、お寺の境内とかにさ、あの人たちがいて、そういう人たちが通った後、保健所が消毒しに来んのよ」
 
唐突な爆弾の投下だった。
 
「この店は、徳江さんのあんで繁盛したんですよ」
 
反駁(はんばく)する千太郎。
 
「それは分ってるけど、知り合いが周りの人なんかに喋っちゃったら、この店、もう終りよ!とにかく、辞めてもらないと」
 
その直後、両手を消毒する女性オーナー。
 
この偏見の極みに満ちたオーナーの言辞に、千太郎が女性オーナーの指示に沈黙を守ったのは、かつて、自らが起こした事件の被害者への慰謝料の肩代わりをしてもらっていたからである。
 
物語の風景が一気に広がりを持つこの辺りから、映画のトーンが、「社会派」のくすんだ色彩に変色していく。
 
本作の中枢的なテーマが、物語を動かしていくのだ。
 
然るに、ごく普通の人々が持つだろう、偏見のレベルの極点とも言うべきオーナーの前近代的で、差別的な言辞は、本篇の中で、絶対に回収されなければならない。
 
回収されなければ、「今でも、癩は怖い」というイメージを観る者に情報感染させてしまうからである。
 
後半の展開は、この一点に凝縮される映像構成が、切に求められる所以であった。
 
但し、殊更、前近代的な差別感情を煽るような、このオーナーのセリフの挿入には、世間一般に流布される差別意識を基準にした作り手の意図がフルオープンし、至りて、映画的仮構の誇張が全開している。
 
作り手の意図は必ずしも間違っていないが故に、この重要な伏線描写は絶対に回収されなければならないのである。
 
物語を続ける。
 
既に、徳江のことが世間の噂になっていた。
 
その噂を聞き、ワカナは学校の先輩と共に図書館に行き、ハンセン病について調べていた。
 
「舌で点字を読んでる」とワカナ。
 
これを「舌読」と言う。
 
ハンセン病の写真の中に、目が見えず、手も不自由なために、舌を駆使して本を読む患者の姿があり、驚くワカナ。
 
「らい予防法が廃止されたのは、1996年で、それまで強制隔離されてきたんだけど、手とか足がもげちゃったり、曲がっちゃったりとか、鼻がもげて、顔に変形が出ちゃったりとか、そういうのを恐れられてたんだと思う」
 
先輩の高校生がハンセン病の本を読みながら、ワカナに説明する。
 
「私たちも陽のあたる社会で生きたい」
 
これは、その写真集の中にある言葉だった。
 
このシーンで気になるのは、折角、図書館に行ってハンセン病について調べている二人の思春期後期の少年少女の会話が、「今でも、癩は怖い」というフリークス(異形)の現実を拾っただけで、先のオーナーの差別的言辞を回収する描写になっていなかったという点である。
 
秋になった。
 
閑散とする「どら焼き屋」。
 
「どうしちゃったのかねぇ」と徳江。

「冷えてきたからですかねぇ」と千太郎。
「冷えてきたら、食べたくなるけど…」

徳江は、そう言いながら、店頭に招き猫を置く。
 
「徳江さん、今日はもう、この辺で」
 
商売にならない現実を目の当たりにし、オーナーの指示通りに、解雇の話をできない千太郎の言葉の意味を察知し、徳江は挨拶をして店を去る。
 
遣り切れない気持ちで、徳江の後姿を見送る千太郎。
 
「店長さん、その後の『どら春』はどうでしょう。ひょっとしたら店長さん、元気なくされているのではないですか。あんを焚(た)いているときの私は、いつも小豆の言葉に耳を澄ましていました。それは、小豆が見てきた雨の日や、晴れの日を想像することです。どんな風に吹かれて、小豆がここまでやって来たのか。旅の話を聞いてあげるんです。この世にあるものは、すべて言葉を持っていると、私は信じています。日差しや風に対してでさえ、耳を澄ますことができるのではないかと思うのです。そのせいでしょうか。夕べは、柊の垣根を越えてやってくる風が、店長さんに声をかけた方がいいって、言っているように感じられたのです。こちらに非はないつもりで生きていても、世間の無理解に押し潰されてしまうことがあります。知恵を働かさなければいけないときもあります。そうしたことも、伝えるべきでした。店長さんはいずれ、店長さんらしいアイディアで、ご自分のどら焼きを完成させる人だと思います。どうぞ、ご自分の道を歩まれて下さい。店長さんには、それがきっとできます」
 
店長に宛てた徳江の手紙の全文である。
 
「社会派系」の映画が、この作り手特有のコアメッセージである「自然派系」の物語に変容し、収斂されていく決定的な一文である。

 

人生論的映画評論・続/ あん(’15) 河瀬直美<抑制力を欠き、「全身自然派系」にシフトしていく物語が失ったもの>より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2017/03/15.html