「失敗のリピーター」を止められない日本軍の度し難き生態

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1  「戦争というのは勝ち目があるからやる、ないから止めるというものではない」
  
 
 
よく言われるように 、日本軍の失敗の原因を追究する歴史研究の中で、真っ先に挙げられるのは、1939年(昭和14年)5月から9月にかけて出来したノモンハン事件(モンゴルと中国はハルハ河戦争と呼称)である。
 
モンゴル高原の北東部を流れるハルハ川を、満洲国が境界と主張したことで国境係争地となったことで、冬の気温が氷点下46.1度を観測するほどのフルンボイル草原のノモンハン周辺で、モンゴル軍と満州国軍の国境警備隊の交戦を契機に、日本軍とソ連軍の大規模な戦闘に発展するに至った「事件」(本質的には「戦争」である)である。
 
ウィキによれば、この「事件」による日本軍の損害は、以下の通り。
 
戦死者・8440人 戦傷者・8864人 戦車・約30輌 航空機 約160機。
 
また、ソ連軍軍の損害は、以下の通り。
 
戦死者・9703人 戦傷者・15952人 戦車及び装甲車輌・約400輌 航空機・約360機。
 
そして、モンゴル軍の損害は、戦死者・280人 戦傷者 710人。
 
このデータを見る限り、損害の大きさを単純に数値で表せば、勝敗の帰趨は互角の印象を受けるが、戦争は殺傷した相手の人数で決まるものではないという、軍事の初歩的な常識を再確認しておきたい。
 
「戦争というのは、殺した相手の数を競うものではなく、どちらが目的を達成したのかによって勝敗が決まるわけです。ノモンハン事件ソ連国境の策定をめぐって争い、ソ連の主張した通りに国境が定まった。このことを理解しないといけません。現在でも何のために戦争をするのか認識していない人が多いようです」(「昭和陸海軍の失敗 -彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか」半藤一利、泰郁彦他 文春新書)
 
以上の説明で事足りるだろう。
 
また、「丸メカニック29 マニュアル特集 九七式重爆撃機 世界軍用機解剖シリーズ」(潮書房/ウィキ)によると、「地上戦闘は戦車火砲の力の差が甚だしく、敗戦に近い結果に終わった」と言われる要素を加えれば、前掲書の指摘は、一層、説得力を増すに違いない。
 
ここでは、ノモンハン事件の背景から、稿を起こしていきたい。
 
一言で言うと、一切は満州事変(1931年9月18日)に起因する。
 
「北伐」(華北軍閥政府を倒した戦争)を断行し、欧米勢力との連合に成功した国民党(蒋介石)を支援するアメリカが提示した、「満州中華民国の領土である」という「九カ国条約」(中国権益の保護を図った欧米諸国と中華民国間の条約)に反発した日本の中で、当時、満州地域を支配していた奉天軍閥の指導者で、馬賊出身の張作霖(ちょうさくりん)を、関東軍参謀の独断専行で爆殺した事件(柳条湖事件)に端を発して、関東軍(日本の大陸政策の先兵となった満州の陸軍部隊)は満洲(現・中国東北部)全土を占領するに至る。
 

満州事変は明確な軍規違反であり、昭和天皇の許可なしの軍事行動のために、死刑に処される重罪だったが、首謀者達(関東軍作戦主任参謀・石原莞爾と、関東軍高級参謀・板垣征四郎関東軍高級参謀・河本大作)が処罰される対象にすらならなかったという厄介な歴史的現実は、日本軍部の独走が開かれていくことで、日本の満州進出を警戒していた欧米列強を敵に回す事態を惹起する。

ポイント・オブ・ノー・リターンの底なし沼に嵌ってしまう起点になっていくのだ。

 
中央との意思疎通が決定的に欠けていたという一点において、関東軍の暴走による誤謬の本質が、そこに垣間見える。
 
では、満州事変のポイント・オブ・ノー・リターンとは、一体、どこにあったのか。
 
以下、メディアとの関連を重視する、半藤一利の「戦う石橋湛山」(東洋経済新潮社)を参考にして言及したい。
 
関東軍の今次の行動は、ことごとくその任務に鑑(かんが)み、機宜に適したものである」
 
これは、後に、東條英機の後継として内閣総理大臣に就任し、中華民国との単独和平交渉を頓挫させた、陸軍省軍務局長・小磯國昭の言辞である。
 
そんな中にあって、当時、奉天の総領事であった外交官・林久治郎は、「事件は全く軍部の計画的行動に出たるものと想像せらる」と、幣原喜重郎外相に第一報を打電したりするなど、軍部の行動を批判していた。
 
事件の本質を見抜き、軍部の行動を批判し、事態の平和的解決に努めた外交官も存在したのである。
 
なお、事態は流動的だった。
 
天皇も不拡大を望んでいる。
 
政府も、閣議一致で、それを決めた。
 
この状況下にあって、不拡大方針を決定した閣議への参謀本部の失望は大きかった。
 
関東軍の参謀たちの意気は削がれ、全員は沈み込んだ。
 
満州事変を起こした張本人の石原莞爾もまた、失意の念深く、「我がこと成らずか」と嘆息を漏らしたと言う。  
 
「歴史を逆転させるチャンスがあったとすれば、おそらく、19日夜を起点とする24時間にあったかと思われる」  
 
作家・半藤一利の分析である。  
 
「19日」とは、満州事変の翌日にあたる9月19日のこと。
 
日本本土の世論の動向が全てということ ―― これに尽きる。
 
事態の「不拡大」を国民が望んだならば、軟着し得たのではないか。
 
そう言うのだ。
 
ところが、その日、朝日は論説委員会を開き、「日露戦争以来の日本の建て前と正当な権益の擁護」が、早々と確認されていた。
 
「ついに日支開戦を見るにいたったもので、明らかに支那側の計画的行動であることが明瞭になった」
 
午前7時の号外の内容である。
 
以降、朝日と毎日(当時・東京日日新聞)が群を抜き、火蓋を切ったような報道合戦が、両社の「号外戦」となって膨張していく。
 
朝日は、社の飛行機を京城(けいじょう/現在のソウル特別市)へ飛ばし、19日夜に、奉天(ほうてん/現在の瀋陽市)特派員の撮った写真を京城着の列車で受け取り、広島まで空輸するという加熱ぶり。
 

世論を動かす力を持つメディアが率先して、軍部寄りの記事を連射していくのである。  

満州に交戦状態 日本は正当防衛」  

 
20日の朝刊での、毎日の社説である。  
 
支那は当然、我が国の復報に価する」
 

「わが出先軍隊の応酬をもって、むしろ支那のためにも大いなる教訓であると信ずる」  

こんな記事が連射されるのだ。

 
「事件は極めて簡単明瞭である。暴戻(ぼうれい)なる支那側軍隊の一部が、満鉄線路のぶっ壊しをやったから、日本軍が敢然として起ち、自衛権を発動させたというまでである。・・・事件は右のごとくはなはだ簡明であり、したがって、その非とその責任が支那側にあることは、少しの疑いの余地はないのである」
 
「権益擁護は厳粛」と題した朝日の社説である。
 
以降、放送を含むメディアは戦争報道一色で、国民の熱狂を煽り続けていく。
 
朝日・毎日の大新聞を先頭に、メディアは争って、世論の先取りに狂奔していったのである。
 
大衆的支持を受け、世論を味方につけたい軍部にとって、まさに追い風が吹いたのである。
 
思うに、石原や板垣が起こした満州事変は、明らかに、大日本帝国憲法第11条の統帥権天皇大権の一つで、陸海軍への統帥の権能を指す)の侵犯にあたる蛮行なので、制限があれども、立憲君主国家の中にあって、大手メディアがそれを批判する論陣を継続的に張っていたならば、関東軍の暴走に対して、付和雷同しやすい世論が諸手を挙げて賛成し、沸騰した状況の渦中に雪崩れ込んでいく空気を作りにくかったと考えられる。
 
然るに、メディアは正反対の方向に走ってしまったのである。
 
この国を不幸な戦争に導く、重大な発火点であった満州事変における、「メディアの加害性」は看過し難いと言わざるを得ないのだ。
 
現地参謀の独断専行と、それを煽るメディアの常軌を逸した「共犯性」。
 
この問題意識を持たなければ、私たちは、単純に、「一切が軍部の暴走」というあまりにも分りやす過ぎて、殆ど反論の余地がないラベリングから解放されないだろう。
 
時には、「竹槍では間に合はぬ。飛行機だ、海洋航空機だ」と書いて、東條英機首相の逆鱗に触れ、二等兵として陸軍に懲罰召集された、海軍御用記者の新名丈夫(しんみょうたけお/東京日日新聞)のような度が過ぎたケース(竹槍事件)もあったが、本質的には、「共犯性」の逸脱に過ぎないと言える。
 
現地参謀の独断専行が暴走し、「アジア太平洋戦争」の起点となった満州事変に垣間見える旧日本軍の構造は、開発中から、開発終了しても採算が取れないことが分っていたにも拘らず、それまで投資した金額が膨大だったため、そのまま開発が継続され、赤字を膨らませたという有名な史実・「コンコルドの誤謬」をトレースしていくに足る、非合理の極点である「失敗の本質」の膨張への始発点だったということだ。
 
「戦争というのは勝ち目があるからやる、ないから止めるというものではない」
 
後述するが、関東軍作戦主任参謀・服部卓四郎と共に、ノモンハン事件の最大の責任者である作戦参謀・辻政信の、この露骨な言辞に凝縮される、非合理の極点である「失敗は失敗のもと」という陰惨な風景。
 
もう、そこには、アイロニーの欠片(かけら)も拾えない。
  

心の風景 「失敗のリピーター」を止められない日本軍の度し難き生態 より抜粋http://www.freezilx2g.com/2017/03/blog-post_80.html