「黒人は人間ではない」 ―― 南部白人の対黒人観のスタートライン
ここで、1840年時点で、最大の奴隷輸入港であったニューオリンズについて書いておく。
「本領土内のニグロ、ムラート(白人と黒人との混血者)、及び、インディアンの奴隷はすべて(略)不動産と見なされるものとする」
ここでの「不動産」が、「物的財産」を意味するのは、言うまでもない。
一切は、ここから開かれていく。
生産効率性が悪いという理由のみで、黒人奴隷制への反対を標榜し、1854年に結成された共和党に結集する、当時の北部資本家たちが奴隷制度を採用しなかったのに対して、アメリカ南部が奴隷制を堅持したのは、広大な農地に大量の資本を投入し、亜熱帯地域に耐え得る綿花プランテーションという生産形態が、奴隷制という生産様式に最も好都合だったからである。
因みに、奴隷にされた人々の多くは、アメリカに近い大西洋側である西アフリカ出身であることを考えれば、「アメリカ植民地協会」(アメリカホイッグ党の創設者・ヘンリー・クレイらによって作られ、植民地・リベリアを設立した組織)が、西アフリカ海岸の植民地をリベリアに作ったのは、地理学的視点から言って必然的であるだろう。
アメリカという大国が抱え込んだ闇の歴史は、「ネイティブ殺し」と「黒人抑圧」によって典型化された欺瞞なる構造的矛盾である。
それは、「デモクラシー」をセールスして止まない国が、その内側に抱えた、最もアンタッチャブルな歴史的現実そのものである。
「ネイティブ殺し」の歴史的隠蔽化は、先住民族としてのインディアンの各部族の古典的叛乱を完全制圧し、その後、彼らに「定着民」としての最低限の生活権を強制的に保障することによって、「西部開拓史の輝くべき栄光」の歴史に掏り替えることに成就したかに見えた。
しかし、「黒人抑圧」の歴史の闇の隠蔽化については、現代史に入っても、なお根深く残る南部の諸事件の連鎖や、北部諸都市での黒人犯罪、ロス暴動等で、決してそれが、過去完了した問題でないことを浮き彫りさせているのである。
黒人と白人の結婚を形式的に禁止する「異人種間結婚禁止法」が、この国で厳然と存在(アラバマ州で2000年になって撤廃することで、ようやく終止符)していたという歴史的事実の持つ重みは圧倒的なのである。
思えば、奴隷解放宣言(1863年)に至るまで、この国には「ワン・ドロップ・ルール」(黒人の血が一滴でも混じっている者=黒人)という観念が形成されていたことで、その一滴の血の「汚れ」に対する意識は過剰に膨らまされていったに違いない。
思うに、綿花の広大なプランテーションが生まれ、その労働力として、アフリカから大量に黒人奴隷が組織的に移入されてくるようになって、南部の社会風景は、19世紀半ばには400万人にも及ぶ数の奴隷労働者たちの存在を無視できないものに変貌する。
約60年間で、300万人以上の黒人奴隷が増強されてしまったのだ。
その理由は、産業革命を経たイギリスの綿花の需要が飛躍的に拡大したためである。
しかし、奴隷としての黒人と、彼らを使役する白人との近接度は決定的に乖離していたから、白人プランターの意識裡に、黒人の存在は、殆ど、動物的価値以上の何ものも持ち得なかった。
まさに黒人の存在は、納屋で藁(わら)を集めて寄食するだけの待遇で充分な何者かであった。
ここで重要なのは、アメリカ黒人の存在価値は、一介の奴隷としての価値以上のものではない現実の認知からスタートしたということである。
「黒人は人間ではない」 ―― この「黒人の家畜化」という発想が、南部白人の対黒人観のスタートラインにあった。
この認識を持たない限り、黒人差別の核心に肉薄することなど叶わないだろう。
このラインが恒常的に維持される限り、そこに白人と黒人の対立など成立しようがないし、ましてや、両者の近接度が深まるなどという事態が生まれようがないのである。
しかし、歴史が動いた。
南北戦争と、この国の、その後の激烈な展開が、黒人差別を拡大する結果を招き、そのことで耐えかねた黒人の度重なる暴動が頻発したのである。
時代の風景 西瓜を盗んだだけで首を吊るされた黒人たちの闘いの歴史http://zilgg.blogspot.jp/2017/05/blog-post_5.html