淵に立つ(’16)深田晃司 <「視界不良の冥闇の広がり」と「絶対孤独」〉

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1  「彼のような人こそ、神様から愛されなければならないのに」
 
 
 
「視界不良の冥闇(めいあん)の広がり」と「絶対孤独」いう、人間の〈存在性〉の懐深(ふところふか)くに潜り込んでいる風景が、「異物」の侵入によって、寸断された時間の際(きわ)に押し込まれた者たちの〈迷妄〉と〈渾沌〉のうちに露わにされ、そして、その〈状況性〉が分娩する〈不条理〉を、一見、縮こまって呼吸を繋ぐ平凡な一家族が被弾する、無秩序と非日常の日々の渦中に描き切った傑作
 
その〈不条理〉が生み出す〈絶望〉と〈罪悪性〉を突き抜けようとしても、突き抜けられない〈状況性〉の酷薄さを、邦画界で衰退している作家主義の精神で、「理想の家族像」とは縁遠いように見える核家族の崩壊という、ミニマムでありながら普遍性を有する物語として再現される。
 
―― 物語をフォローしていく。
 
侵入者としての「異物」の唐突の破壊力によって、寸断された時間の際(きわ)に押し込まれた、平凡な一家族の〈迷妄〉と〈渾沌〉が露わにされ、救いようのない物語が一気に開かれていくが、それは、映像の序章から前半までの落ち着いた風景を決定的に裏切るものだった。
 
11年ぶりに県の施設を経由して出所したその男・八坂は、一緒に働くことになった知人の住む山形に行く3週間限定で、友人であり、小さな金属加工工場を営む鈴岡利雄の自宅兼職場に厄介になる。
 
「家族は死んだ」と言う八坂は、僅かな期間で、鈴岡利雄の妻・章江(あきえ)、10歳になる娘の蛍と懇意になる。
 
「何卒よろしくお願いします。迷惑はかけませんから」
 
常に、敬語で話す礼儀正しい八坂の温厚な態度に、敬虔なプロテスタントである章江は深い興味を持ち、好感を抱くようになるが、それが異性感情に遷移していくのも早かった。
 
オルガンを習う蛍に近づき、そのオルガンを親切に教示する八坂。
 
「腐れ縁ですね」
 
章江に、夫・利雄との関係を聞かれた八坂の反応である。
 
「あんまり甘やかすなよ、俺を」
 
これは、利雄が八坂に放った一言。
 
利雄と八坂の関係の曖昧さを示すこの伏線描写は、終盤で回収される。
 
家族団欒に他人が入り込んでも、違和感が薄れてきたそんなある日、八坂は章江に、自分が殺人犯であった事実を正直に告白する。
 
以下、存分の感情を込めた八坂の、計算されたかのような「間」を保持しながらの長い告白。
 
「私は独善的な人間でした。幼い頃から、約束は命がけで守れと教えられてきて、それをできる限り正しく、私は実践して生きてきたつもりでした。私の犯した過ちというのは、四つあります。
 
一つは、約束を守ることが、命よりも法律よりも優るという歪んだ価値観を持ってしまったこと。二つ目は、当然、他人もそのように生きていると思い込んでしまったこと。三つ目は、私は間違いないと、自分自身の“正しさ”を頑なに信じてしまったこと。そして最後は、そういった、私自身の歪んだ価値観を根拠に人を殺めてしまったことです。
 
…刑務所に入る覚悟はありました。しかしそれは、反省の気持ちからではなく、何かこう、自分は逃げも隠れもしないという、男らしさへの子供じみた憧れからでした。だから、法廷でも、自分が不利になる証言を包み隠さずしました。死刑になる覚悟もありました。私は自分自身で身勝手に作った“正しさ”という枠から逃げることができなかったのです。
 
…しかし、それは突然、本当に一瞬の出来事でした。
 
私は法廷で、遺族の方から、罵声を浴びせられることを覚悟していたのですが、傍聴席を見ると、母親は全く泣いておらず、能面のような表情を浮かべて、しかし最後には、彼女は自分自身の頬を、二度三度と彼女の右手で打ったのです」
 
ここで、自分の頬を強く叩いて見せる八坂。
 
「彼女は私ではなく、自分の頬を打ったのです。それから堰を切ったように泣き出しました。どうしてそんなことをしたのか、私には咄嗟に分りませんでした。本当のことは今でも分かりません。ただ私は、何て取り返しのつかないことをしてしまったのかと、本気で自分を悔いました。一人の人間の命を奪うことの重大さを被害者と遺族の方の深い絶望を思い実感しました。私は死刑になるべきでした。しかし、こうして生かされています。ですから、私のこれからの人生というのは、遺族の方に預けられたものだと思っています」
 
驚くべき告白だが、それを傾聴するプロテスタントである相手の女性が、より深く、自分に好意を寄せることを確信する者の弁舌だった。
 
案の定、話を聞きながら涙ぐむ章江。
 
この告白の真偽のほどは定かではないが、あまりに理路整然とした告白の内実に驚きを隠せない。
 
それでも、被害者の遺族に八坂が手紙を書いていて、その手紙を、章江が自ら求めて読ませてもらうシーンがある事実から、遺族への贖罪という告白の内実の核心が、あながち作り話であると言い切れないのも事実である。
 
或いは、自分に好意を寄せることを確信する八坂の思いが、このような場面の設定を予想した上での打算的行為であったとも考えられなくもない。
 
この作品は、「視界不良の冥闇(めいあん=闇)の広がり」を随所に映像提示しつつも、最後まで、心理描写を希薄化させた作家性の強い映像なので、観る者一人一人が、「システム2」(より多くの時間をかけて、頭を使う「熟慮思考」)を駆使して、限定的なシチュエーションでの、限定的な登場人物の内面の搖動にアプローチする行為が要請されるのである。
 
そういう映像なのだ。
 
「彼のような人こそ、神様から愛されなければならないのに」
 
殆ど約束された章江の反応だが、八坂の狙いは完璧なまでに成就したと言うべきか。


人生論的映画評論・続/ 淵に立つ(’16)深田晃司 <「視界不良の冥闇の広がり」と「絶対孤独」〉より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2017/11/blog-post.html