国連機関の勧告に抗し、我が国の死刑制度を迷いなく支持する

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1  犯罪は、どこまで「親の責任」なのか
 
 
赤堀雅秋監督の「葛城事件」という凄い傑作を観ていたら、どうしても、死刑存廃問題について言及せずにはいられなかったので、「葛城事件」の自らの批評を援用し、改めて書くことにした。
 
「俺が一体、何をした!奴を裁けるのはだけだ。国があいつを殺すん。国だけじゃない。そういう仕組みを容認する国民すべてが、俺の息子を殺すんだ。それで、勘弁してくれねぇ
 
この鬼気迫るセリフを放ったのは三浦友和
 
主人公・葛城演じて、映画賞レースのトップ飾る「報知映画賞」で主演男優賞を受賞した私好みの俳優だ、こういう役を演じさせたら天下一品
 
駅の地下構内で、刃渡り30cmほどのナイフを唯一の武器にして、無差別殺傷事件を引き起こした犯人・葛城稔の父親を演じ切って、観る者を圧倒した。
 
この鬼気迫るセリフに収斂は、以下のように要約できるだろう。
 
死刑制度を容認する日本国民死刑という刑罰を受けるに値する犯罪者の死の執行を国家に委託しているで、刑が執行された時点で国民の憎悪も何もかも、一切が自己完結する。
 
だから、一々、「親責任」まで問うことはないではないか。
 
そう言いたいのだろう。
 
因みに英国では、「子育て命令法」(1997年施行)という法律すらあり、子供の不登校、遅刻などの「問題行動」を生活管理できない親に対して、罰金を滞納すれば禁錮 刑に処され、子供が更生するまで1年間の講習を義務付けていると言われてい
 
また、米国・カリフォルニアやシアトルでは、子供が学校を休む3千円の罰金を払うか、或いは、奉仕活動を行うかを義務化しているということ。
 
もっと凄い記事もある。
 
ニューヨーク州ノーストナワンダでは、いじめ防止対策の一環として、いじめ加害者の親を処罰するという条例が施行されたというのだ。
 
具体的には、その子供の両親は250ドル(約2万8000円)の罰金を払うか、もしくは、最大15日間刑務所で過ごすか、または、その両方が科されるとなっているという、極めてドラスティックな刑罰である。
 
更に、フランスでは義務教育を放棄すると2年間の禁錮刑、350万の罰金の他に、月に4回以上、無断欠席すれば9万円の罰金を科していると言われ、義務教育それ自身に対し相当に高いハードルがあると聞いている。
 
以上の例が示すのは、「子育て」に対する「親の責任」へのシビアな問題提示である。
 
ここで、死刑選択のベースになっている「永山基準」(1968年に4人を射殺した、19歳の永山則夫元死刑囚の裁判での死刑適用基準)に言及すれば、例の有名な9項目(注1)が重要視されているが、この9項目には、「悲惨な生い立ち」を綴り、「鑑定日数は異例の278日、182ページを超える史上希」(弁護士ドットコムHP)な「精神鑑定書」(「石川鑑定」)が生かされず、永山基準の中に「悲惨な生い立ち」特段に考慮されいないという事実は、「親の責任」問題の軽視であと言えるだろう。
 
因みに、この石川鑑定」では、父母のネグレクト(育児放棄)、母親代わりの長女の精神疾患、4歳の冬に極寒の網走で生ゴミを漁るようにして生き延びた凄惨な現実、そして、青森の学校でのいじめや兄からの暴力、等々、永山則夫の「悲惨な生い立ち」の程度が尋常ではなかった事実を明らかにした。
 
また、永山則夫に象徴される「悲惨な生い立ち」とは無縁で、「親の責任」軽視の典型例に、犯罪人類学の創始者チェーザレロンブローゾ(「イタリア学派」)による「生来的犯罪人説」がある。
 
読んで字の如く、「生来的犯罪人」(犯罪者の約70%)が犯罪を犯すという単純な仮説で、犯罪者の頭蓋骨解剖などの研究によって明らかにしたが、看過できないのは、こロンブローゾ思想が死刑の正当性の根拠にされたという由々しき事実である
 
ハーバート・スペンサーの思想を起点にし、チャールズ・ダーウィンの考え大きく逸脱する「社会進化論」など、進化研究に関わる概念ダーウィニズム」と呼称されて、人間の手による、人間「人為淘汰」の一環である「障害者不要論」の優生思想にまで歪曲されていく。
 
ロンブローゾもまた、遺伝的に決定された「生来的犯罪人」の人口淘汰よる除去を主張し、現代に至ってもなお、一定の影響力を有している現象それ自身が厄介な
 
遺伝的に決定された「生来的犯罪人」である故に、犯罪者の「親の責任」の問題を超越するという思考も可笑しな話だが、ここまで書いてきて、私は改めて思う。
 
―― いつの時代でも、どこの国でも、犯罪者の犯罪に「親の責任」の問題が普遍的に関与するのか
 
欝陶(うつとう)しいほど重くこの派生的テーマが、いつの世でも私たちが呼吸を繋ぐ小宇宙の只中で倦(あぐ)ね、限りなく広がりを見せながら無秩序徘徊している。
 
 
全てを失い、壊れ切ってしまった葛城家と、被膜一枚で隣接しているように見えなくもない私たち世俗の住人には、「インビジブルファミリー」(身近にいて助け合う家族)という時代の風景が垣間見えても、どうしても、安易に「家族」を捨てられないが故に、葛城清の孤独と絶望への覚悟に架橋せねばならないのか。
 
赤堀雅秋監督の「葛城事件」を観て、つくづく、そんな気分を味わった次第である。
 
些か飛躍したが、ここでは、私たち世俗の住人は、「犯罪者の死刑の執行を国家に委託している」という問題提起を重く受け止め、心の奥底で消化し切れない辺りを払拭できるように軟着させつつ、以下、死刑存廃問題について言及したい。
 
(注1)「犯行の性質」「動機」・「結果の重大性(特に被害者の数が重視」・犯行態様(特に殺害方法の残虐性)」・「遺族の被害感情」・「社会的影響」・「犯人の年齢」・「前科の有無・「犯行後の情状」。これらを総合的に考慮し、「やむを得ない」のときに死刑選択が許容されるというも
 
現在、「永山基準」に変化が生まれてきている例として、「岡山元同僚殺害事件」(2011年)がある。
 
犯人の住田紘一(すみだこういち)は、被害者が1人でも、3人の女性の強姦と殺害を計画していたなどとして、その悪質さが強調され、裁判員裁判において求刑通り死刑になり、2017年7月に死刑が執行された。
 
加えて言えば、よく知られていることだが、「光市母子殺害事件」の最高裁による差し戻し判決では、「特に酌量すべき事情がない限り、死刑の選択をするほかない」とされ、犯行時の年齢を重視しなかった特筆すべき裁判だった。
 
この事件については、本稿の肝でもあるので後述する。
 

時代の風景 「国連機関の勧告に抗し、我が国の死刑制度を迷いなく支持する」 より抜粋http://zilgg.blogspot.jp/2017/12/blog-post.html