白鷗バッシングに集合する、狭隘なる「縮み志向」のナショナリズム

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1  「モンゴルに帰れ!」という、レッドラインを越えた偏頗なナショナリズムが空気を席巻した
 
 
白鷗バッシングが度を超えている。
 
根柢にモンゴル人力士差別が読み取れるので、これだけは看過できない。
 
事件の全容も判然としないにも拘らず、「白鵬の目配せをきっかけに暴行が始まった」などと、事件が計画的であったと断じた「週刊文春」の記事に象徴されるように、「日馬富士引退問題」と同時に流布されるから、余計、厄介なのだ。
 
更に、「日馬富士引退問題」の背景に「横綱の品格」という厄介な問題があるので、未だ不分明な「日馬富士事件」と切れ、「大横綱だから何でもできると思い上がっているんじゃないか」と言い放った伊吹文明衆院議長のような政治家を巻き込む、異様な白鷗バッシングの問題が絡んでくるので、どうしても、反駁(はんばく)せざるを得なかった次第である。
 
貴ノ岩関にけがを負わせたことに対し、横綱としての責任を感じ、本日をもって引退をさせて頂きます。(略)横綱として皆の基本と見本になる、横綱としての名前を傷がつかないように一生懸命頑張りますと言いました。お客さんに楽しんでいただける相撲だけを考えて横綱としての責任を果たしました」
 
これは、引退会見での日馬富士の言葉である。
 
朝青龍と同様に、日馬富士もまた、「横綱の品格」によって引退を余儀なくされたのである。
 
―― ここでは、何よりも気になる、白鷗に対する「横綱の品格」との関連で、「モンゴル人差別」の問題から言及したい。
 
2013年11月14日目。
 
この日に起こったことは、決して忘れない。
 
十一月場所(九州場所)だった。
 
13連勝の東の正横綱白鵬と、11勝2敗の大関稀勢の里との対戦に、大入り満員の客席は興奮状態だった。
 
仕切り(土俵に上がった力士が相対し、立ち合いの身構えをすること)中に、仁王立ちしたまま、闘志を剥き出す激しい睨み合いがリピートされ、否が応でも、格闘技中心の多目的ホール・福岡国際センターの場内は湧き上がっていた。
 
そんな雰囲気で開かれた勝負は、激しい立ち合いで、がっぷり四つに組んだ真っ向勝負になり、土俵際で両者が投げを打ち合い、稀勢の里が上手投げで白鵬に勝つという堂々とした相撲だった。
 

取組後も観客の興奮さめやらず、福岡国際センターの其処彼処(そこかしこ)で万歳三唱が起こったのである。

 
全く予期せぬ出来事だった。
 

禁止されている「座布団の舞」(2007年9月場所から禁止の注意書きが印刷されるようになった)の代替行為なのだ。

 
それにしても、異様な光景だった。
 
前代未聞であると言っていい。
 
まるで、偏狭なナショナリズムが炸裂したかのようだった。
 
勝者に対する拍手喝采はOKだけど、あからさまな万歳三唱には大いに違和感を覚える。
2017年春場所(三月場所)のこと。
 
既に初場所(一月場所)で、大関での連続勝ち越し18場所を繋いでいた稀勢の里が、2敗を守っていた白鵬が初顔合わせの貴ノ岩に敗れ、3敗に後退したことで初優勝が決まっていた。
 
「日本人びいき」という批判がありながらも、横綱審議委員会において全会一致で横綱に推挙され、待望の横綱昇進が決まり、忽ちのうちに、日本中に歓喜の渦が広がっていた。新たに迎えた春場所(三月場所=大阪場所)である。
 
左手を胸の近くに当ててせり上がっていく雲龍型を選択した、「横綱土俵入り」を披露する稀勢の里
 
短期間で癒しきれない炎症を負って強行出場した横綱稀勢の里は、場所中にテーピングをして出場しながらも、ここでも奇跡の逆転優勝を果たす。
 
この強行出場には、初優勝がフロックと思われないための意地が垣間見えるが、明らかに、この強行出場は横綱稀勢の里の相撲生命が危ぶまれる怖さがあった。
 

横綱稀勢の里は、リスクオン(最大の利益を得るためにリスクを取ること)してまで、横綱としての矜持(きょうじ)の維持を守りたかったのだろう。

 

しかし、その稀勢の里の、横綱としての優勝を熱狂的に支援する空気の沸騰の陰で、応援倫理に背馳(はいち)する出来事が起こった。

 

横綱稀勢の里と優勝を争っていたモンゴル出身の大関照ノ富士に対して、信じがたいバッシングが出来したのである。

 
春場所14日目で、大関照ノ富士が福岡県出身の日本人関脇・琴奨菊に勝利した際、立ち合いで「変化」を見せたことで、一斉にブーイングの嵐。
 
「そこまでして勝ちたいんか!」
 

この程度の罵声なら、よくあることだが、この日はそれで済まなかった。

 

いつもながら、「荒れる春場所」と言われる大阪場所だけに、観客の辛辣なヤジが四方八方から飛び交った。

 
「モンゴルに帰れ!」
 
とうとう、こんなタブーの罵声が、照ノ富士に対して浴びせられたのだ。
 

予期していたとは言え、19年ぶりの「日本人横綱」の誕生によって、我が国の大相撲ファンはレッドラインを越えてしまったのである。

 

偏頗(へんぱ)なナショナリズムヘイトスピーチと化し、地上4階・地下2階で構成される鉄骨・鉄筋コンクリート造の、大阪府立体育会館のスポットを丸ごと包み込んでいるのだ。

 
照ノ富士 変化で王手も大ブーイング!『モンゴル帰れ』」
 

このスポーツ誌上の見出しが、我が国の多くのメディアの率直な反応である。

 
これが、メディア暴力の裸形の相貌なのだ。
 
この由々しき現実は、「一人横綱」を張っていた白鵬に対する、「横綱の品格」という、曖昧模糊(あいまいもこ)とした観念の押し付けで、目立ったバッシングが炸裂する〈状況性〉と同義である。
 
「勝つために手段を選ばない」
 

「勝負に徹する」というプロ魂の体現を、このように変換することで、横綱白鵬の取り口の殆ど全て、そして、彼の「倨傲」(きょごう)な態度の総体を襲い続けている。

だから、白鵬を襲い続けるのは、横綱の品格」と乖離すると断じる横審・相撲協会の終わりなき誹議(ひぎ)である。
 
白鵬に一番非があるという気がしています。次に日馬富士、人柄としてもいい男なんですが“下手人”でございますから。(3番目は)大もとであろう貴乃花親方」
 
これは、「日馬富士事件」の全容が判然としない、2017年12月3日での漫画家・やくみつるの誹議である。
 
アルゴリズムの理詰めの解決を蹴飛(けと)ばし、ヒューリスティックとバイアスに依拠し、因果関係ではなく、何もかも相関関係で決めつけてしまう、やくみつる流の簡便思考の典型例。
 
因みに、横綱審議委員会の「品格確認基準の内規」に、「横綱の品格」は、「相撲に精進する気迫」・「地位に対する責任感」・「社会に対する責任感」・「常識ある生活態度」という主観のオンパレードで、どのようにでも解釈可能な基準である。
 
また、NHKの刈屋富士雄解説委員は、以下のように定義している。
 
「人よりも自分に厳しいこと」・「人よりも努力をすること」・「人に対して優しくあること」 ―― この3点である。
 
観念的過ぎて、空いた口が塞がらない。
 
仮に、この定義を白鵬に当て嵌めれば、私の印象では、白鵬こそ、「横綱の品格」の充分な体現者であると言っていい。
 
白鵬の稽古は準備の長さに驚いた。土俵に降りてから相撲を取るまでが長い。四股やテッポウ、すり足などでたっぷり汗をかく。話には聞いていたが、これを毎日続けるのは並大抵のことではない。(略)白鵬は同じルーティンを若い頃から続けているというのだから、つくづく感心した」
 
この一文の主は、前述した野球評論家・山崎武司
 
白鵬の稽古を見学した際の、好角家山崎武司の感懐である。
 
大体、「横綱の品格」を押し付けている相撲協会自身が、「八百長問題」などで自浄能力の欠如を露呈した近年の振る舞いを見る限り、まさに、協会の理事長・理事・副理事・監事・役員らの「品格」が決定的に問われているのではないのか。
 
「かわいがり」の現実を野放しにしてきたのは、相撲協会ではなかったのか。
 
白鵬稀勢の里に敗れた際の万歳三唱と、照ノ富士に対する「モンゴルに帰れ!」という、レッドラインを越えた偏頗なナショナリズムを体現する、我が国の大相撲ファンにも問題があるとは思わないのか。
 
「モンゴルに帰れ!」という偏頗(へんぱ)なナショナリズムが空気を席巻したのだ。
 

時代の風景 「白鷗バッシングに集合する、狭隘なる「縮み志向」のナショナリズム」 より抜粋http://zilgg.blogspot.jp/2017/12/blog-post_7.html