1 イラン革命とは何だったのか
まるで、それは〈天〉と〈地〉がひっくり返ったような世界だった。
外部環境の劇的な体制転換=「レジームチェンジ」によって生まれた新体制は、多様化し、様々な差異を見せながら発展・進化してきたヨーロッパやアメリカ文化のエキスを根柢的に否定した。
それは、ムハンマド(マホメット)の女婿・第4代カリフ(最高権威者)のアリーの血統を重視する「シーア派」の、「ウラマー」(イスラム法学者)による統治を支柱とし、ヘジャブ(イランで言えば、全身を覆うチャドルか簡易なスカーフ)の着用の義務化に象徴されるように、抑圧的な政治の恐怖そのものだった。
たとえ、脱イスラム化と世俗主義による近代化政策を基調とする、親欧米路線(王の命令による強引な手法・「白色革命」と称される)を突き進むパーレビ王朝を支えるアメリカのプロパガンダが恣意的に流布されていたとしても、コーランとムハンマドの言行録を絶対化する、「シャリーア」(イスラム法)を規範として統治される「イスラム共和制政体」という、イスラム原理主義を基本理念とした〈正義〉に基づいた統治をすれば、「イラン・イスラム共和国」に呼吸を繋ぐ人々の心と生活の安定が保証されると、共和国の元首である最高指導者・ホメイニ師は確信していた。
「イラン・イスラム革命」と呼ばれるようになる「イラン革命」は、飽和点に達した民衆の情動が一気に炸裂したような自立性が、アナーキーな空気の渦の中から立ち昇っていく原始的臭気を振り撒(ま)いていたようだった。
一方、英国石油資本と結びついた西欧的なパーレビ国王が、アメリカによる経済援助を梃子(てこ)に、秘密警察・サヴァク(SAVAK)による反体制派への弾圧を加え、脱イスラムの政教分離原則化が進められ、イランの近代化・西欧化を提唱して発動した広範囲にわたる改革(「白色革命」)の結果、上からの工業化を推進する途上国の強権政治体制である「開発独裁」を確立する。
国際石油資本に従属し、国民生活に犠牲を強いる「開発独裁」の強権政治体制は、1979年のイラン革命で崩壊するに至るが、その大きな要因は、第4次中東戦争(1973年)の勃発によって、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)が生産削減を宣言すると共に、原油価格の引き上げを断行し、石油価格が高騰するに至り、第1次(1973年)オイルショックが惹起したこと。
これが引き金になって、先進諸国の経済を混乱し、欧米諸国との石油外交を経済基盤にした近代化政策が、先進諸国の石油需要を大幅に減退させ、産油国の脆弱さが露呈されたこと。
経済基盤の脆弱さが露呈されたイランでは、国民の間での経済格差が急速に拡大し、それがパーレビ王朝への不満を膨張させていく。
この流れは、構造的に言えば、「開発独裁」の政体が崩れていく、一つの劣悪な範型(はんけい)でもある。
例えば、スハルトのインドネシア、マルコスのフィリピン、人民行動党のシンガポール、ニヤゾフのトルクメニスタン、全斗煥(ぜんとかん)の韓国、ピノチェトのチリ、チャベスのベネズエラ、バシールのスーダン、ズマの南ア、アリー・サーレハのイエメン、ルカシェンコのベラルーシ、ナザルバエフのカザフスタン、等々、現在進行形の例もあって限りがないが、一切は経済発展という名目で独裁を正当化する「開発独裁」のパターンとして指摘することができる。
この「レジームチェンジ」への流れで最も重要な知覚的現象は、「アメリカ大使館人質事件」(1979年11月)である。
しかし、シーア派の原理主義者のコントロール下にあった「イスラム法学校」の学生(占拠グループの一員に、貧困層を出自とする技術者・アフマディネジャドもいる)らが反発し、アメリカ大使館を囲繞(いにょう)し、激しいデモンストレーションに打って出た。
時のカーター政権は国交の断絶・経済制裁を発動し、日を経ずして、人質となった大使館員及び、その家族ら53名の救出作戦(「イーグルクロー作戦」)に踏み切っていくが、救出作戦でヘリコプターの空中衝突事故を起こし、米兵8名を喪ったことで作戦が頓挫(とんざ)する。
当然ながら、退陣後の「人権外交」で本領を発揮する、牧師出身のジミー・カーター大統領の人気は凋落(ちょうらく)し、「強いアメリカ」の復活を主唱する共和党・ロナルド・レーガン大統領が就任のその日、イラン側の要求をほぼ受け入れる妥協策で事件は解決するが、この事件によってアメリカの威信が決定的に傷ついた事実の重みは、その後の、「イラン・イスラム革命」への変容に大きな影響を与えていくことになる。
トルコ⇒イラク(シーア派の聖地・ナジャフ・長男の暗殺)⇒フランスから、15年ぶりのホメイニ師帰国直前から、イラン革命遂行の中心的役割を担った、「イスラム革命評議会」による政権掌握と、「ウラマー」(イスラム法学者)や保守層が権力強化の過程で、非イスラム共和党諸派の排斥が遂行され、例外なく、「革命」の必至の産物として、政敵への弾圧が行われていくのだ。
ホメイニ師と共に亡命先から帰国し、師と親密だった、「イラン・イスラム共和国」の初代大統領・バニサドルは、「イスラム革命評議会」と「二重政府」の状態にあったが、暫定外相として、「アメリカ大使館人質事件」でアメリカ政府との仲介役を担ったこともあり、保守派の反発を買い、総辞職に追い込まれ、且つ、リベラル色が強く、「ウラマー」でなかったが故に、「革命評議会」に追い詰められた結果、フランスに逃亡するに至る。
そして、もう一人。
「アメリカ大使館人質事件」によってバーザルガーン内閣は総辞職するが、この事実は、バーザルガーンが希求する「イスラム民主共和国」の具現が不可能であり、アメリカとの和解が不可能である現実を露わにするものだった。
但し、「イラン・イスラム共和国」という国名が示すように、国民を政治の主体とする「共和制」を統治形態にし、行政・立法・司法の三権分立の制度と、選挙による政権交代が実施されているのは周知の事実。
その意味で、欧米の政治的所産を形式的に摂取していると言える。
これは、イランの中産階級の男女のバカンスで起こった事件を描いた、イラン人のアスガー・ファルハディ監督の「彼女が消えた浜辺」や、一組の夫婦の別離に至る過程を、「善」と「善」の内的葛藤の物語として、複層的に描き切った「別離」という大傑作を観る限り、私たちがイメージする、戒律違反を取り締まる弾圧組織・「道徳警察」の怖さ・「宗教国家・イラン」という決めつけが、相当のバイアスに満ちた偏見であると言えなくもない。
しかし、ホメイニ師の弟子であり、「イラン・イスラム共和国」の第2代最高指導者・アリー・ハメネイ師の存在の大きさを考える時、政治のフィールドにおいて、イスラム法学者が絶大な影響力を駆使し、君臨している現実は、同時に、私たちがイメージする、「愚行権」という自由権をも保証する「民主主義」の理念と明らかに乖離(かいり)している。
特に、12名で構成される「監督者評議会」(イスラム法学者6名と一般法学者6名)と、宗教界によって構成される「専門家会議」という名の組織の権力機構は、三権を優越する機関として機能し、イランの民度の低さの象徴になっている。
また、イスラム教徒の社会生活の普遍的規範を定めた「シャリーア」であるイスラム法に基づき、女性の結婚最低年齢が9歳となったため、あろうことか、女児への児童性的虐待が「ハラール」(合法の意味。違法は「ハラーム」)となり、旧体制の支持者と断罪された自由主義者の多くが処刑されるに至るのだ。
以上のイランの政体を考える時、「レジームチェンジ」によって、「イスラム民主共和国」を希求するバーザルガーンや、初代大統領・バニサドルは、「開発独裁」のパーレビの「白色革命」を弾劾(だんがい)し、亡命に追い遣(や)っても、ホメイニ師の影響下で、急進的宗教指導者らとの意見の相違を埋められず、衝突する運命を回避できなかったということだろう。
要するに、この「レジームチェンジ」は、「開発独裁」の「白色革命」を倒す「市民革命」ではなく、欧米の価値観を否定する、シーア派の原理主義による、「イスラム革命」という名の、第三世界的な鮮度を有する「20世紀型宗教革命」への大胆な変容であった。
一切は、「法学者の統治論」に基づき、「イラン・イスラム革命」のエキスを「イスラム共和制」のうちに濃縮し、終身任期の最高指導者(国家元首)となった「絶対聖者」・ホメイニ師の思想に収斂されていくことで決着がついたということである。
かくて、シーア派の宗教活動は、「イスラム革命評議会」の政府の統制下に置かれ、1980年8月、イラン革命の成就によって、その役割を終えるまで、旧体制の支持者と断罪された多くの人々が処刑されたのは言うまでもない。
その典型例は、ガルシア・マルケスの「百年の孤独」で有名な、現実と非現実の融合の作風・「マジックリアリズム」の手法で、ムハンマドを題材に書いた小説「悪魔の詩」の著者・サルマン・ラシュディ(インド出身の英国の作家)と、その関係者に、ホメイニ師が死刑宣告を下した一件である。
残念ながら、公訴時効が成立し、「悪魔の詩訳者殺人事件」が未解決事件となり、世界各国から強い反発を招いた事実はよく知られている。
時代の風景 「 『生者』は『死者』となり、移ろい過ぎ去ることなく、『永遠の詩人』として蘇る ―― イラン革命とは何だったのか」よりhttp://zilgg.blogspot.com/2018/06/blog-post_11.html