「幕末」とは何だったのか


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1  「黒船」がやって来た
 
 
大老井伊直弼が暗殺され、明治維新へと猛(たけ)り立っていく激動の歴史の起点となった、世に言う「桜田門外の変」。
 
一切は、1853年に起こった「黒船来航」に淵源(えんげん)する。
 
アメリカ合衆国大統領国書」が幕府に渡され、翌年には、「日米和親条約」が締結された。
 
「幕末」が開かれた瞬間である。
 
ここで、歴史を遡及(そきゅう)していきたい。
 
18世紀後半、石炭燃料の利用によって活気を取り戻した英国のエネルギー革命は、農業文明社会から工業文明社会へと移行する産業革命(工業革命)の、その途轍(とてつ)もない烈風が、「清教徒革命」・「名誉革命」・「フランス革命」や、1815年の「ウィーン会議」で絶対王政を復活させたヨーロッパの国際秩序・「ウィーン体制」を崩壊させた、「ドイツ三月革命」・「フランス二月革命」・「イタリア統一運動」=「1848年革命」などの、激動の市民革命を経由した西欧に吹き荒れていて、生産における技術革新と急速な経済成長によって、従来の農業社会の構造を根柢的に覆(くつがえ)すに至った。
 
かくて、西欧各国は、大量生産(大量生産革命)した工業製品の輸出拡大と、原料確保の市場として、インドを中心にしたアジア諸国に目をつけたことから、熾烈(しれつ)を極める「植民地獲得競争」を展開する。
 
しかし、市民革命としての「アメリカ独立革命」(1776年)を成し遂げていながら、アジア諸国に市場拠点を持たないアメリカは、西欧各国の「植民地獲得競争」に参入できなかったが、灯火用の燃料油・機械用潤滑油の原料となる、マッコウクジラの鯨油(げいゆ・鯨肉から採れる鯨油)の採取(注1)と、長期航海用食料の捕鯨船の補給拠点として太平洋に進出し、1825年の「外国船打払令」(1837年の「モリソン号事件」で米国商船に砲撃)に象徴されるように、鎖国を延長させている日本との条約締結に、入念な準備を経て踏み込んでいく。
 
それを可能にしたのは、「米墨戦争」(べいぼくせんそう・メキシコとの戦争)でカリフォルニアを手に入れたアメリカが、太平洋ルートを確保したこと。
 
折しも、「1848年革命」の嵐が西欧で吹き荒れていた頃のことである。
 
そして、工業国家として、アメリカと競合するオランダによる来航の予告(長崎奉行所への書簡)を知っていた幕府(老中首座・阿部正弘)は、見物人で大混乱の中、工業製品交易のための大陸進出の寄港地と、捕鯨船の補給拠点を求めるミラード・フィルモア・米国大統領(13代)からの国書を、琉球王国を経由した「浦賀来航」のペリーから受領するが、12代将軍・家慶(いえよし)の疾病のため(来航直後に逝去)、開国の返答に1年の猶予を要請し、了承されるに至る。
 
折しも、「1848年革命」の嵐が西欧で吹き荒れていた頃のことである。
 
そして、工業国家として、アメリカと競合するオランダによる来航の予告(長崎奉行所への書簡)を知っていた幕府(老中首座・阿部正弘)は、見物人で大混乱の中、工業製品交易のための大陸進出の寄港地と、捕鯨船の補給拠点を求めるミラード・フィルモア・米国大統領(13代)からの国書を、琉球王国を経由した「浦賀来航」のペリーから受領するが、12代将軍・家慶(いえよし)の疾病のため(来航直後に逝去)、開国の返答に1年の猶予を要請し、了承されるに至る。
 
ペリーの「恫喝外交」に弱腰の幕府は、藩の垣根を越えて意見の具申(ぐしん)を求めたが、結論を出すことができず、狼狽(ろうばい)するばかりだった。
 
ここで想起すべきは、「阿片(アヘン)戦争」の衝撃である。
 
中国とモンゴルを支配した巨大な統一王朝・清国が英国に敗れ、香港を奪われ、不平等条約南京条約)を締結させられた「阿片戦争」(1840年)の情報は、長崎に入港するオランダや清の商人を通じて、幕末の日本に伝えられていた。(また、北京条約で終結する、英仏連合軍に屈服させられる1856年の「アロー戦争」は、「第二次阿片戦争」と言えるもの)
 
強国であった清国の軍事力を遥かに上回る、西洋諸国の圧倒的な近代的軍事力。
 
清国の決定的な敗北の衝撃は、東アジアに忍び寄る欧米列強の進出の、その第一歩の危機のシグナルとして、時の幕府を震撼(しんかん)させたであろう。
 
「ペリーの浦賀来航」は、欧米列強の魔の手が、我が国にひたひたと押し寄せてくる「約束された事態」が、遂に具現した大事件だったのだ。
 
この大事件を目の当たりにして、諸藩を軍事力・経済力で抑え込んでいた幕府が、為す術(すべ)もなく、怯(ひる)んでしまう。
 
時の幕府の浮き足立った姿勢が民衆にも届き、幕府の権威の失墜を招来する一因になっていく。
 
「ペリーの浦賀来航」がもたらした破壊力は、少しずつ、しかし確実に、ボディーブローのように効いてくるのだ。
 
一方、「ペリーの浦賀来航」を知ったロシア帝国ロマノフ朝)が、日本との条約締結による極東外交を進展させるため、時の皇帝・ニコライ1世の命で平和的交渉を任されたのは、海軍軍人・プチャーチン
 
そのプチャーチン率いるロシア艦隊が長崎に来航し、国書を渡すが、英仏とオスマン帝国の連合軍との大規模な戦争(クリミア戦争)を継続させていた母国への救援で、長崎を離れた間隙(かんげき)を縫って、ペリーは予定を変更し、半年後に浦賀に再来航する。
 
翻弄されるのは、今や、オランダと中国を例外にした対外封鎖政策・「鎖国」が形骸化した幕府と、開国・殖産興業を幕府に提言した薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)に代表される、危機意識を反転させて軍事強化していく外様大名の諸藩。
 
かくて幕府は、1ヶ月間の協議の末、開国の方針を定め、殆ど予約済みの「日米和親条約」(1854年3月)を締結する。
 
鎖国」は終焉し、下田・箱館の2港が開かれる。
 
思うに、老中首座・阿部正弘自身による「御出陣御行列役割写帳」には、最悪の事態を想定した軍事的対応の「有事マニュアル」が記されていたという発見が、2004年に広島県立博物館で発見されたが、それは、「回答延期」(ぶらかし戦術)という、究極の「その場凌ぎのリアリズム」が、激変する近代史の只中では全く通用しないというシビアな思考が、なお、優柔不断の幕府の中枢に生き残っていた証左でもあったと言える。
 
かくて、半年間、前倒しして再来航したペリーに遅れ、プチャーチンもまた、年来の望みであった「日露和親条約」(1855年2月)の締結に成功する。
 
時代は、刻々と動いていく。
 
歴史のリアリズムは、しばしば、人智を超えるのだ。
 
そして、4年後の1858年には、アメリカ全権の外交官・タウンゼント・ハリスとの間に、極めて厄介な「日米修好通商条約」が締結される。
 
極めて厄介なのは、言うまでもなく、この条約の骨子が、日本に「関税自主権」(輸入品への税金=「関税」を自主的に決められる権利)がなかったことと、領事(外国人)が日本で罪を犯しても、日本ではなく、その領事の国の法律で裁くという「領事裁判権」を認めさせられたこと。(「領事裁判権」は、裁判権からの免除特権としての「治外法権」の一種)
 
我が国が、この2つの不平等条約の撤廃に、如何に苦労し、そのエネルギーを消耗したかについて語るには、「領事裁判権」の撤廃が1894年(外務大臣陸奥宗光・むつむねみつ)、そして、最も厄介な「関税自主権」を確保し得たのが、日露戦争での実質的勝利を果たした1894年(外務大臣小村寿太郎・こむらじゅたろう)まで待たなければならなかったという、歴史的事実を想起するだけで充分だろう。
 
口惜しいのは、我が国は、この極めて厄介な不平等条約を、列強の英・仏・露・蘭とも締結(「安政五ヵ国条約」)させられたこと。
 
前述したように、開国反対の立場にあった明治天皇の父・孝明天皇の勅許(ちょっきょ)なしに、「日米修好通商条約」を締結し、開国近代化を断行したのが、時の大老(老中の上の最高職)・井伊直弼
 
当然ながら、井伊直弼の独断専行の政治姿勢は、朝廷と幕府の対立を招来(しょうらい)し、尊王攘夷運動(反幕・排外運動)の台頭を生み、幕末維新の激しい政争の最も重要な契機となっていく。
 
加えて、大老井伊直弼は、我が国の歴史には珍しく、強権を振るい、国内の反対勢力を弾圧・粛清するという大事件を惹起(じゃっき)する。
 
世に言う、「安政の大獄」である。
 
その背景には、第13代将軍・徳川家定の継嗣(けいし=あとつぎ)問題があった。
 
一橋慶喜(よしのぶ)を推す一橋派の徳川斉昭(なりあき)と対立し、確執(かくしつ)を深め、紀伊藩主の徳川慶福(よしとみ・のちの14代将軍・徳川家茂)=南紀派(なんきは)を推挙する井伊直弼大老に就任し、勅許を得られぬまま、日米修好通商条約を調印する。
 
しかし、日米修好通商条約への調印を難詰(なんきつ)し、攘夷推進の幕政改革を命じるという内容を含む、孝明天皇による水戸藩への勅書の下賜(かし=高貴の者が身分の低い者に物を与えること)、所謂(いわゆる)、「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく)によって露わになった朝廷の政治関与に対し、幕藩体制の危機を感じた井伊直弼が発動した強権の行使が「安政の大獄」だった。
 
「戊午の密勅」の首謀者・梅田雲浜(うめだうんぴん・儒学者・獄死)を初め、多くの尊皇攘夷派の志士(橋本左内吉田松陰頼三樹三郎・鵜飼吉左衛門・幸吉父子・茅根伊予之介・飯泉喜内)が捕縛され、斬首された。
 
井伊直弼の首をあげた「桜田門外の変」は、「安政の大獄」に対する歴史的反動である。
 
安政五ヵ国条約」によって地に落ちた幕府の威信を復元するために、辣腕(らつわん)を振るった井伊直弼の強権政治が現出したものである。
 
振れ幅の大きい時代状況下にあって、井伊直弼の一連の強引な手法の正しさが、のちの歴史で証明されるに至ったと私は考えているが、「桜田門外の変」が幕府の統治能力の脆弱さが露呈したことは、ここから開かれる、激動の「幕末」の〈状況性〉の風景を炙(あぶ)り出していく。
 
中でも、「安政の大獄」によって、水戸藩主・徳川斉昭は永蟄居(えいちっきょ=家の中に永遠に閉じこもる)処分となり、家老・安島帯刀(あじまたてわき・切腹)・鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)・幸吉(こうきち・斬首・獄門)父子・茅根伊予之介(ちのねいよのすけ・斬首)など、重い処分を受けた水戸藩は、幕府から命じられた「戊午の密勅」の返納を巡って藩内抗争を惹起し、尊王攘夷急進派の不満分子による直弼暗殺計画に雪崩(なだ)れ込んでいく。
 
首謀者は、高橋多一郎(たいちろう・事件後に自刃)と金子孫二郎(事件後に斬首)。
 
実行部隊の指揮者は、尊王攘夷水戸藩士・関鉄之介(せきてつのすけ・事件後に斬首)で、彼を主人公にした、映画「桜田門外の変」(佐藤純彌監督)でリアルに描かれている。
 
かくて、水戸藩士らと交流し、薩摩藩を脱藩した尊攘派志士・有村雄助(ありむらゆうすけ・藩命によって自刃)と、井伊直弼の首級をあげた脱藩志士・有村次左衛門(じざえもん・自刃)の兄弟が暗殺計画に参加した「桜田門外の変」が勃発する。
 
彦根藩邸から桜田門江戸城=現在の皇居)まで僅か600メートルの地点で、ホワイトアウト(雪で視界不良の状態)の中、60人ほどの彦根藩の行列が18人の尊攘派志士に襲撃される。
 
映画「柘榴坂の仇討」・「桜田門外の変」でも描かれていたように、不運にも、彦根藩の供侍(ともざむらい・供の侍)たちは雨合羽を羽織っていて、刀の柄(つか・刀を握る部位)と鞘(さや・刀身を包む筒)に袋をかけていたため、襲撃者らと対峙できない不利な状況下で(注2)、あろうことか、供回りの彦根藩士は錯乱状態に陥(おちい)って、遁走(とんそう)する始末だった。
 
因みに、生き残った供回りの藩士は、事件後、切腹・斬首・家名断絶という厳しい処分を受けた。(この処分を考えれば、映画「柘榴坂の仇討」で、主人公の金吾が負った苛酷な「下命」も、合点がいかなくもない)
 
肝心の駕籠(かご)の中の直弼は、矢庭(やにわ)に、短銃で撃たれて重傷を負い、駕籠から引き摺(ず)り出され、有村次左衛門に首を刎(は)ねられるに至った。
 
襲撃を密告する情報が届いていたにも拘らず、供揃(ともぞろ)えを厳重にしなかった男の、享年46歳(満44歳)の、一種、覚悟の死であった。
 
1860年3月24日のことである。
 
近江彦根藩主・井伊直中(なおなか)の14男だったため、自らを「埋もれ木」に例え、「埋木舎」(うもれぎのや)と名付けた屋敷で、隠者(いんじゃ)の如き、世捨て人のような半生を送っていた男を襲撃した凄惨な事件が、我が国の歴史を根柢的に変えていく。
 
僅か10数分の事件だったが、「井伊の赤鬼」と呼称された、日本史上、稀な「独裁者の暗殺」は、エクストリーム(過激なこと)に暴れる、「幕末」という名の激甚で、その後の目まぐるしい歴史的変換に繋がる、「グレート・リセット」(旧態依然とした仕組みの崩壊)の初発点だった。
 
 
 
時代の風景  「 『幕末』とは何だったのか」よりhttp://zilgg.blogspot.com/2018/07/blog-post.html