人生はどんな状況でも意味がある



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1  「言語を絶する感動に震える名著」と出会った衝撃が人生を変える
 
 
「私ち同じ人間が、同じ人間に対してこんなにも残酷になれるのか!」
 
 
某ブロガー氏文章の一部である
 
「ある日、何かのきっかけで何気なく読み始めた」某ブロガー氏は、続けて書いている。
 
「大の男が、泣き出すその過酷な状況の中でも、『生きる意味』を見出、こんなにも崇高に生きることができるのか!」
 
某ブロガー氏が経験した異様な感動は、「崇高に生きる」者の実録と遭遇した情感に起因する。
 
「言語を絶する感動に震える名著」と出会った衝撃が某ブロガー氏の読後感を占有しているのである。
 
この率直な反応に、私も共感する。
 
「『人生でただ一冊、ただ一冊しか、誰かに伝えることができない』のなら、僕は、迷わずこの本を選びます」
 
私は「崇高」という言葉を嫌うが、某ブロガー氏のエモーションを、ここま揺さぶって止まない著書の名は、「夜と霧」みすず書房 原題は「心理学者収容所を体験する」)
 
アンネの日記」と共に、今も世界中の読者に読み継がれている「夜と霧」は、「言語を絶する感動」と評される名著である。
 
自らの強制収容所での非日常な時間を、実在のユダヤオーストリア人の心理学者が体験する。
 
著者は、ウィーン生まれのヴィクトール・フランクル
 
実存主義的精神療法として知られる、「ロゴセラピー」(実存分析)の創始者である。
 
僅かな期間だったが、「非日常の日常」の時間を繋ぐ強制収容所の「囚人」に対して、レーゾンデートル(存在価値)=「生の意味」を感受させるための援助をすること
 
これが、「無力・恐怖・狂気」と最近接する異常なスポットに拘禁されたフランクルの、運命に身を委ねる外にない「人生の使命だった。
 
この使命感が、「ロゴセラピー」を遂行する心理学者の「人生時間」に継続力を与え、その「人生時間」を内化することで、拘禁状態の過大な縛りを解き放つ。
 
「人間が人生の意味は何か問う前人生の方が人間に対し問いを発してきているから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」
 
これは、「死と愛」(みすず書房)と題する文章の一文であ。(Wikipediaから引用)
 
この解釈には議論の余地があるが、私はこう考える。
 
「人生の方が問いを発してきている」人間が負っている、次々に発生する難儀な問題に対して、主体的且つ、具体的反応することが求められている。
 
それは、「人生の意味」を、アポステリオリ(後天的・経験的)に問う以前から求められるので、逃亡不可の人間的現象と化す。
 
「人生」とは、無限に続く「問い」の連鎖の集積なのだ。
 
「発する問い」と「答える問い」。
 
これは、本質的に同義である。
 
私たちは、この類いの内面の漂動(ひょうどう)を巧みに繋いで生きている。
 
メルロ=ポンティ流に言えば、「問いは、世界に適応しようとする仕方である」(「見えるものと見えないもの」)。
 
当たり前のことだが、私たちは、「問い」を発することで「世界への適応」を果たすのだ。
 
ここで、私は勘考する。
 
自己の「軌跡」の総体である「人生時間」が紡いできた結晶こそ、「人生の使命」と同義になる。
 
だから、欲望系が手に入れた「経済的所得」の上昇が、必ずしも、「ウェルビーイング」(良好な状態)に昇華しないのだ。
 
人間の欲望系の膨張が「ウェルビーイング」の確保を難しくするという、「幸福のパラドックス」の心的行程の味気なさ・寒々しさ。
 
人間が本質的に抱える問題だからこそ、「幸福のパラドックス」のリアリティの強度が増していく現象が厄介なのである。
 
所得が増えても、ユーフォリオ(「幸福感」)を体感できないのである。
 
自己の「軌跡」の総体である「人生時間」が、内面から湧き出す自然な発現の集合力に収斂され、溶融していく。
 
「幸福のパラドックス」に陥ることなく、「人生時間」が紡いできた結晶の中枢を包摂し、〈私の時間〉に繋いでいかねばならない。
 
それは、「人生の方が問いを発してきている」人間の、主体的且つ、具体的で、逃亡不可の内面的な人間的現象である。
 
そういうことではないだろうか。
 


心の風景「人生はどんな状況でも意味がある」よりhttps://www.freezilx2g.com/2019/05/blog-post_27.html