セールスマン(’16)  アスガー・ファルハディ

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「報復権」を解体できない男の最終的焼尽点 ―― その内的風景の痛ましさ

1  事件の破壊的トラウマが関係を食い潰していく ―― その1


「皆逃げて!」
「アパートが壊れるよ!」

大声が飛んだ。

アパートの倒壊危機の状況下で、「何があったんです?」と尋ねても、埒(らち)が明かなかった。

エマッドは妻のラナを呼び、逃げることを促し、アパートの住民は性急に避難する。

アパート住民が、逃げ場を求めてパニックになっている、この冒頭のシーンの混乱は、ショベルカーの映像提示によって、都市を再開発し、高級化する「ジェントリフィケーション」の様態と切れ、高い経済成長を実現しつつある「中進国」にあって、近代化の急速な膨張による、杜撰(ずさん)な工事の悪しき所産であることが判然とする。

エマッドの怒りは、近代化と、北部中心に進む歪(いびつ)さを見せる都市化が急速に進むイランの現状を炙(あぶ)り出していた。

イランの首都テヘランは、1400万弱の人口を抱える同国最大の都市である。

イスラム教の第4代正統カリフマホメットムハンマド死後の国家指導者)のアリ―(ムハンマドの父方の従弟)の子孫のみが、「ウンマ」(イスラム共同体)の指導者とするシーア派の拠点国家であり、「中進国」イランのテヘランは、このシーア派住民の文化的中心地でもある。(イラン人は、サウジアラビアのようなアラブ民族ではなく、ペルシア人であり、言語も、ユーラシアから西アジア、南アジアに広く分布する、インド・ヨーロッパ語族のペルシア語である)

その文化的中心地として急成長を続けている、イラン北西部・テヘランに、国語教師のエマッドと妻のラナが住み、共に、小劇団に所属して、今、アーサー・ミラーの代表的戯曲「セールスマンの死」の舞台稽古で、老いた主人公夫婦を演じ、精を尽くしている。

そんな渦中で惹起したアパートの倒壊事故によって、居住スポットを奪われた夫婦は、同劇団のババクが紹介してくれたアパートに移住する。

「最低な街だな。全部壊して、やり直した方がいい」とエマッド。

「やり直した結果がこれだ」とババク。

管理人のいない、移住先のアパートでの会話である。

ところが、この移住先がとんでもない代物(しろもの)だった。

そこに住んでいた、前の住人所有の多くの荷物が無造作に残っていたからである。

アパートの住人の話では、前の住人(ラナとの電話のやり取りがあるが、基本的にマクガフィン)は、引きも切らず、異なる男が訪ねて来て、「ふしだらな商売」をしていた女性であると言うから、余計、厄介だった。

そして迎えた、「セールスマンの死」の公演。

事件が起こったのは、その夜だった。

夫より先に帰宅したラナが何者かに襲われ、浴室でレイプの被害に遭ったのだ。

相手の顔を見る余裕すらないパニック状態の只中で意識を失い、事件を知った隣人のサポートを得て、浴室から病院に連れて行かれ、ERで治療を受けていた。

夫の帰宅と誤って、玄関の扉を開けてしまったラナの行為に全く落ち度がない。

だから、事件を知ったエマッドが、ラナを誹議(ひぎ)することはない。

それでも、この理不尽な事件を悲憤慷慨(ひふんこうがい)する、エマッドの怒りの感情は収まらない。

それは、事件の破壊的トラウマによって、「男性恐怖症」(恐怖対象が男性である対人恐怖症)に陥り、身動きが取れないラナと、そのラナを襲った男に対する感情が膨張し、復讐的暴力の忿怒(ふんぬ)を抑えられないエマッド。

まさに、瞋恚之炎(しんいのほむら)である。

そんな二人の会話。

「一人は怖いの」とラナ。
「警察に行こう。告発すれば、犯人が見つかる」とエマッド。
「どういう風に?」
「奴のトラックがあるから。携帯もあったが解約されていた」
「誰なの?」
「前の住民は、ふしだらな女だったそうだ。犯人は彼女の客らしい」
顔に傷を受け、記憶を失っているラナの内側では、極度に「男」を怖れる感情だけが漂動(ひょうどう)していた。
「髪を触られ…あなただと思って、あとは何も覚えていない…」

嗚咽しながら、必死に、それだけを話すラナ。
セールスマンの死」を演じるラナは、もう、リアルな演技を演じ切れない。
だから、代役を立てられる。

「一人が怖いの」
「しばらく実家に帰るか?」
「この顔で?」
「今朝、決心した。警察に行くか、忘れるか、どっちかに」
「すべて忘れて引っ越しを」
「分った。だが、その前に。君がしっかりしてくれ」
「私のせい?」
「きちんと薬を飲んで、夜はちゃんと寝てくれ」

一貫して、自室の浴室でシャワーを浴びることを拒むラナに対して、苛立(いらだ)つエマッド。

「君が分らない。夜は、そばに寄るな。昼は、そばを離れるな。どうすればいい?」
「死ねばよかった…」

一人で仕事に向かおうとするエマッドは、部屋の隅で項垂(うなだ)れているラナに気づき、傍(かたわ)らに座り、「よせ」と一言。

エマッドにとって、強姦された妻への復讐の情動を抑え、事態の収束を警察に委ねようとするが、その合法的選択肢をも拒絶するラナを目の当たりにして、もう、何も言えなかった。

責めているのではない。

気持ちも分らなくない。

それでも、内側に累加されたストレスを処理できず、思わず、不満を洩(も)らしてしまうのだ。

思うに、エマッドの行動原理のうちに、被害者遺族の「報復権」という、暴力的な観念が張り付いていて、これが彼の復讐的暴力の忿怒の心理的推進力になっていた。

教師でありながら、授業中に居眠りをしてしまうほど疲弊し切っていくエマッドの心身は、妻ラナと異なる次元で、ウエルビーイングの状態から完全に乖離(かいり)していた。

まるで、事件の破壊的トラウマが、二人の関係を食い潰していくようだった。

人生論的映画評論・続「セールスマン」(’16)より

https://zilgz.blogspot.com/2019/08/blog-post_27.html