心身を腑分けされた悲哀を生きた男 ―― モーリス・ユトリロの世界

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1  「私生児」という絶対記号を負って、青春期の渦中に立ち至る、母子関係の脆弱性


アンドレ・ジルという、19世紀に活躍した風刺画家がいる。

波乱の人生を生き、最後は精神病院に収容され、45歳で没したフランス人である。

似顔絵を得意にし、30代の元気横溢(おういつ)な頃、酒場の店主の依頼で、店の看板の絵を描いたという由来で知られる画家だが、この酒場こそ、フランスの近代芸術史に、その名を残す「ラパン・アジル」である。

モンマルトルにある「ラパン・アジル」の名が知られるのは、ボヘミアン的(自由奔放な)な画家・作家、或いは、社会の周辺に生きる人々らが集合し、深夜まで、喧噪(けんそう)のスポットと化していたからだ。

そこに蝟集(いしゅう)した画家の中には、後世に名を残すピカソゴッホロートレックモディリアーニ、エミール・ベルナール、ブラックなどが集(つど)い、熱気が充満する前衛芸術家の、その矜持(きょうじ)が全開する、白熱した議論が沸騰していた。

だから、「ラパン・アジル」のイメージは、「侃侃諤諤」(かんかんがくがく)・「喧喧囂囂」(けんけんごうごう)という四字熟語が相応しい。

その「ラパン・アジル」の絵を何枚も描いた画家がいる。

モーリス・ユトリロである。

ところが、ユトリロが描く「ラパン・アジル」の絵から、先の四字熟語の喧噪感が全く伝わってこない。

それどころか、19世紀末から第一次世界大戦勃発までの、「ベル・エポック」の特殊な時代状況下にあって、ムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールといった酒場がが軒(のき)を連ね、頽廃(たいはい)と華麗が共存するような盛り場を懐(ふところ)に抱える、モンマルトルの丘=「芸術家の街」=安アパート「洗濯船」(キュービズム誕生の地)を鮮烈に印象づける空気と無縁な、「静寂」と「孤独」が漂動(ひょうどう)する寂寞(せきばく)に包まれて、思わず、「侵入不可」の記号と思(おぼ)しき、幽微(ゆうび)なる閉鎖系のゾーンから弾かれてしまうのだ。

モンマルトル、モンパルナスに集合していた画家たち、即ち、「エコール・ド・パリ」の前衛芸術家の誰も描くことがなかった「ラパン・アジル」を、決して短くもない生涯を通して、点景ではなく、その本体を、繰り返し、執拗に描き続けたユトリロとは、一体、何者だったのか。

ゴッホに始まり、フェルメールを経て、最後に辿り着いた私の絵画散策は、このモーリス・ユトリロだった。

昔から好きだったが、余韻の深い「静寂」と、哀しみに満ちた「孤独」の相貌性(そうぼうせい)の底層に、何とも名状(めいじょう)し難い「苦悩」が張り付く、ユトリロ絵画の小宇宙は、年輪を経て、一貫して変わらないドストエフスキーの「実存」と共に、私の脳裏に深く灼(や)きついて離れない。

なぜなのか。

彼の人生遍歴が、あまりにも「悲哀」に満ちているからだ。

実母・シュザンヌ・ヴァラドンによる「我が子」・ユトリロ肖像画が残っているが、肝心の本人の肖像画が一枚もないことで分るように、ユトリロが、「肖像画のモデル」に相応しい、「特定他者」のウオッチャー(観察者)になることを、暗黙裡(あんもくり)に自己否定していたのではないか。

それは、モデル時代の母のような、「美貌の人気モデル」へのアンチテーゼとも考えられるが、仮にそうだとしても、意識的行為ではないだろう。

だから、風景画ばかりを描き続ける。

それも、何の変哲もない、身近な風景を題材にしたものだ。

無口で、人付き合いが苦手なユトリロは、「人間」に関心がなかったのか。

それ故に、人間関係に悩まない。

そういうことなのか。

―― ここで、彼の履歴をフォローしていこう。

モンマルトルで〈生〉を受けた、生粋(きっすい)のフランス人であるユトリロは、1883年12月に、シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれたのは、よく知られている事実。

要するに、ユトリロは実父を知らないで育ったのである。

だから、「私生児」という絶対記号を負って、71年の生涯を生きることを余儀なくされる。
因みに、パリのサーカス団で曲芸師を演じていた、シュザンヌ・ヴァラドンもまた私生児だった。

私生児が私生児を生んだのである。

それでもバイタリティー溢れるヴァラドンと異なり、〈生〉の初発点からハンディを負ったユトリロが、発作時に、激しい全身痙攣(けいれん)を惹起する、癲癇(てんかん)という神経疾患に罹患(りかん)したのが、わずか2歳のとき。

憑き物(つきもの)が憑依(ひょうい)したと誤認され、今でも差別の対象になる癲癇を、私もまた、児童期に罹患したから経験的に理解できるが、発作時に見た「悪夢」(夢の中に「悪魔」のような「人物」が出現する)の恐怖に魘(うな)され続け、不眠症になったという、思い出したくない嫌な過去がある。

ユトリロが、癲癇の後遺症に悩ませられたと言われるが、手記の類(たぐ)いをも残さなかったので、詳細は不明である。

絶対記号を負った少年が、学校に馴染めなかったのは不可避だったかも知れない。

ここで、無視できない重要な事実がある。

自らも、洗濯女の私生児として生まれたユトリロの母・シュザンヌ・ヴァラドンは、当時、著名な画家(ルノワールロートレックドガ、シャヴァンヌ、スタンランなど)のモデルだったが、ロートレックの評価を得て、本来の素質を活かして画家に転じ、相応の成功を収めていたので、我が子の養育を実母に任せていた。

と言うよりも、18歳で生んだ我が子の養育に顧慮(こりょ)するなく、「音楽界の異端児」エリック・サティを大失恋させたエピソードに象徴されるように、次々に男を代え、「恋多き女」の人生を存分にトレースしていくのだ。

その状態が続いていたらネグレクト(育児放棄)になるが、シュザンヌ・ヴァラドンは、そこまで堕ち切ってなかった。

実母のマドレーヌに、ユトリロの養育を委ねたのである。

これが、「大誤算」だった。

シュザンヌ・ヴァラドンの母、即ち、ユトリロの祖母マドレーヌは、情緒不安定で、アルコール依存症だったから、孫の自我形成を健全に保障することなど、無理な相談だった。

児童期初期の時から、癲癇の発作を落ち着かせるために、少量のワインを飲ませ続けていた祖母マドレーヌの犯した道徳的罪の重さは、取り返しがつかないほどの破壊力に満ちている。

覆水盆に返らず(ふくすいぼんにかえらず)という諺(ことわざ)は、こういう事態を説明するのに相応しい。

誹議(ひぎ)されて当然のことである。

当時にあっても、弁明不能な、段違いに重い罪深い行為である。

そんな事態にも無頓着(むとんちゃく)だったのか、相変わらず、男関係が緩(ゆる)い状態下で、シュザンヌ・ヴァラドンは、息子・ユトリロの精神状態に不安を持ち、自ら病院に連れて行く。

8歳のときだった。

児童期少年の自我の唯一の絶対基盤であった、母を想う息子の強い気持ちがあっても、本人にその気がなくても、ファム・ファタール的な行動に振れる母にとって、自分を求める息子の思慕に対し、間断なく反応していく心理的・物理的余裕など、持ち合わせていないのだろう。

この母子関係の脆弱性は、ユトリロの青春期の渦中に立ち至るのだ。

心の風景「 心身を腑分けされた悲哀を生きた男 ―― モーリス・ユトリロの世界」より