「自然災害多発国・日本」 ―― 「降伏と祈念」という、日本人の自然観の本質が揺らぎ始めている

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1  「恨み」を超え、無常観に大きく振れて、諦念する


日本が「自然災害の多い国」という認識を持っていない人は、決して少なくないだろう。

台風・大雨・大雪・洪水・土砂災害・地震津波・火山噴火などに及ぶ自然災害を、繰り返し被弾し続け、時には恨み、怒りを噴き上げるが、多くの場合、「どうしようもない」、「手に負えない」と嘆息(たんそく)し、諦念(ていねん)する。

自然の猛威に太刀打ちできず、無力感にため息をつき、存分に悲しんだ後、諦念してしまう。
諦めなければ、日常生活を繋げないのだ。

だから、忘れる。

上手に忘れる。

「辛いのは、自分だけでない」

そう、言い聞かせて忘れるのだ。

その代わり、年中行事として残す。

全国の神社で執り行われる日本の年中行事の多くが、厄除けの神事(節分祭)を含め、「豊作祈願」(注)と、「宮中祭祀」の「新嘗祭」(にいなめさい)に象徴される「収穫を感謝する祭り」に収斂されるということ ―― これが、何より至要(しよう)たる事実である。

従って、国家と国民の安寧・繁栄を天皇が祈願する「宮中祭祀」もまた、この文脈で理解することが可能である。

日本人が年中行事として残すと行為それ自身が、自然に対する畏敬(いけい)の念の表現であり、罷(まか)り間違っても、欧米のように、「人間が自然を支配する」という発想など、起こりようがない。

このことは、「環境倫理学」の論争テーマになっている、自然環境を保護・管理するという人間中心の「保全主義」よりも、自然環境をそのままの状態で保持するという、自然中心の「保存主義」が、なお、我が国で影響力を有するのは、以上の言及で判然とするだろう。

自然に対する畏敬の念を保持しつつ、年中行事を繋いでいっても、私たちは、「津波が来たら、各自てんでんばらばらに高台へと逃げろ」という「津波てんでんこ」のように、三陸地方で昔から言い伝えられていた自然災害の教訓を、得てして忘れてしまうのである。

「天災は忘れた頃にやってくる」

だから、この名言が、私たちの国に存在する。

この名言は、漱石門下の物理学者・寺田寅彦の言葉とされることが多いが、その真相は不明。

「こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう」(寺田寅彦 「津浪と人間」所収 Wikipedia

とても直截(ちょくさい)なディスクールだが、そこまでしなければ忘却を防げないほどに、私たちの被災記憶は風化していくのか。

―― ここで、否が応でも想起せざるを得ないのは、台風19号(2019・10)による堤防決壊によって、濁流が凄まじい勢いで住宅を襲った、千曲川氾濫の際の住民の避難行動の遅れである。

「大雨特別警報はもっと早く出さなければ意味がない」(冷泉彰彦)という批判もあるが、気象庁が大雨特別警報を発令し、最高レベルの5段階の「警戒レベル」を設定したにも拘らず、逃げ遅れた住民の多くが、「2階に逃げれば大丈夫」などと気楽に考えていたこと。

これは大きかった。

だから、対応が後手後手(ごてごて)に回ってしまった。

事態の異様さを目の当たりにして、「冷静に考えれば早く避難すべきだった」と口を揃えるが、避難しなかった人が続出し、多くの犠牲者を出してしまったのである。

少なくないストレスを感受していながらも、緊急事態に適正に対処できず、「ストレスコービング」(上手にストレスに対処する方法)に頓挫(とんざ)したと言える。

「自分だけは大丈夫」と考える、「正常性バイアス」の心理が独り歩きしてしまったのだ。

例えば、台風19号で氾濫した多摩川

「こんなことは初めて」

常に聞かれるのは、この類(たぐ)いのコメント。

然るに、歴史を遡及(そきゅう)すれば、多摩川は繰り返し氾濫を起こしているのだ。

多摩川決壊の碑」 ―― 1974年9月の多摩川水害の際に、決壊した堤防の跡(狛江市)に建てられた碑である。

1974年9月、台風16号がもたらした激流が堤防を崩壊させ、首都圏の閑静な住宅地に建てたマイホームが、濁流へ無残に飲み込まれていく光景の衝撃の大きさは、日本中に水害の恐ろしさを、まざまざと見せつけたことで充分だった。

幸いにも、地域住民が避難したので死傷者は出なかったが、この「狛江水害」によって、狛江市の民家19戸が流出するに至り、秀逸なテレビドラマ「岸辺のアルバム」のモデルとなったことは、よく知られている。

「ここに、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性を銘記するものです」

裏面の碑文に刻まれている言葉である。

「暴れ川」の異名を持つ多摩川の氾濫は、2度に及ぶ「関東大水害」に尽きると言っていい。

まず、「明治43年の大水害」(1910年)は、2つの台風が重なったことで河川が氾濫し、死者769人、行方不明者78人、家屋全壊・流出が5000戸、150万人の被災者を記録する大惨事となった。

そして、「大正6年の高潮災害」(大正六年の大津波)。

東京湾接近時に、満潮の時刻と重なった不運もあって、死者・行方不明者数1300人以上、全壊家屋4800戸以上、流出家屋は約2400戸、床上浸水に至っては20万戸に迫る大災害で、日本経済が大打撃を被ることとなった。

諦め、忘れなければ、日常生活を繋げないと言っても、これほどの大水害の破壊力を、私たちは何某(なにがし)かの形で語り継ぐべきではないだろうか。

東京が本質的に水害に対して脆弱であるのは、江戸初期の人工的に造成された低湿地帯の埋め立てに起因するので、「寛保二年江戸洪水」(1742年)の大水害によって、軒まで水没した家屋が続出し、1000名にも及ぶ溺死者を出したと言われるが、以上の水害は、「首都・東京」が歴史的に負う宿命であったと言える。

普段から危機意識を共有することの重要性を、私たちは肝に銘じるべきである。

―― 思うに、豊かになればなるほど、人はその豊かさに馴染(なじ)んでしまうから、被災記憶を自我の底層に押し込んでしまう観念傾向を否定できないのだろう。

恐怖記憶の消去に関係する、扁桃体(へんとうたい/情動反応の処理と記憶)にある「ITCニューロン」の発現によって、非日常の自然災害への過剰な反応を抑え込んでしまうのである。

私たちは、常に、「今、ここにある、自分サイズの普通の日常」の継続性にのみ、心を砕く。

地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑に染み渡っている」

これも、寺田寅彦の言葉である。

だから、「忘れた頃にやってくる」天災に対する日本人の観念傾向が「恨み」を超え、無常観に大きく振れて、「諦めの心理」に捕捉されてしまうのは是非もないのか。

この無常観が、「日本人の自然観」の根柢にあるのか。

また、人文地理学者・西川治(にしかわおさむ)によると、「日本観と自然環境-風土ロジーへの道」で、以下のようなディスクールを提示している。

「日本の農民は寒暑の別なく田畑を耕し、風水・干ばつ・氷害・河川の氾濫・海の波浪・火山灰・雑草・鳥獣・病虫害など、自然との苦闘の歴史を通して自然観を身につけた」

「普段は慈母のように優しく、時には厳父のような自然との共生の結果、荒ぶる神を畏怖する姿勢と、和御魂(にきみたま)には甘える心がともに培(つちか)われ、マナイズムとアニミズムとの共存を許す、矛盾にも寛大な精神的風土が生まれた」

ここで言う「マナイズム」とは、「マナ」という超自然的呪力を信仰する宗教的観念で、太平洋の島嶼(とうしょ)で見られる原始的宗教とされる。

この「マナイズム」と、生物・無機物を問わず、全ての「もの」の中に霊が宿る「アニミズム」が共存する「寛大な精神的風土」 ―― これが日本人の自然観であると説く。

柔和な徳を備えた「和御魂」(にきみたま)⇔荒ぶる魂=「荒魂」(あらたま)との矛盾と共生することで、自然に対する「畏怖」と「甘え」の感情が形成されてきたと言うのである。

自然に対する「畏怖」と「甘え」。

これは、日本人の自然観を的確に把握した表現である。

私流の解釈をすれば、「畏怖」とは、「荒ぶる魂」を以ってしても勝てない超自然的呪力への全面降伏であり、「甘え」とは、「和御魂」を以て(もって)年中行事で祈念する、災厄免訴への懇望(こんもう)である。

「降伏と祈念」 ―― これが日本人の自然観の本質であると、私は考えている。

【因みに、「日本人の自然観」と題するサイトには、西川治の他に、寺田寅彦や農業経済学者・福島要一、英文学者・野中涼(のなかりょう)、昆虫学研究者で、石川県立大学名誉教授・上田哲行(うえだてつゆき)、マクロ経済学者・中谷巌(なかたにいわお)などのディスクールが紹介されているが、興味のある方は参照されたし】

(注)「志摩の御田植祭」(おたうえまつり)・「阿蘇の農耕祭事」・「神の田んぼの米作り 伊勢神宮のコメ」・「漁師の守り神 対馬の赤米さま」など。(「豊作祈願! NHK」)より

「時代の風景:「自然災害多発国・日本」 ―― 「降伏と祈念」という、日本人の自然観の本質が揺らぎ始めている より