湯を沸かすほどの熱い愛('16) 中野量太

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<「スーパーウーマン」の魔法にかかれば、すべてが変わる>


1  「極論の渦」となって、観る者に押し寄せてくる


登場人物のすべてが、相当程度の「訳ありの事情」を抱えていて、特化された彼らの「事情」が自己完結的に軟着させるエピソードを、「完成させた地図」を予約するかのように、読解容易なジグソーパズルに嵌め込んで、そこだけが特段に抜きん出た、「スーパーウーマンの死」=「最終到達点」という、「物語」の中枢に収斂させていく。

そのために多くの伏線を張り、その回収のトラップを駆使していく。

「驚かしの技巧」こそ、伏線回収のトラップの武器だった。

この姑息(こそく)な武器が、観る者が赤面するほどに、「不幸」の洪水の連鎖を惜しげもなく繰り出す、「基本・シリアスドラマ」の内実のリアリティの極端な欠如を希釈化する。

「スーパーウーマン」の魔法に仮託された、トリッキーな作り手のナルシズム全開の物語に、最後まで終わりが見えなかった。

殆ど全ての登場人物を、ヘビーなシチュエーションに押し込んで、「スーパーウーマン」の魔法の吸引力によって、次々に押し寄せていく「不幸」の洪水の連鎖を、カタストロフィーの水際(みずぎわ)で食い止めていくのだ。

かくて、彼らの「純化・再生」が約束されるのである。

本作を極端に要約すれば、私には、こんなアイロニカルな感懐しか持ち得なかった。

―― 私見を言えば、映画の質の生命線は「映像構築力」にあると考えている。

「主題提起力」・「構成力」・「映像表現力」などによって成る「映像構築力」は、それらの均衡ラインの微妙な攻防の中で、完成度の高い、良質な映画が生まれると考えているからである。

その意味で、最近、観た「幼子われらに生まれ」は、度肝を抜かれるほどに完成度の高い、良質な作品だった。

「幼子われらに生まれ」と比較することに、どれほどの意味があるか分らないが、両作品とも、「家族」をテーマにした映画なので敢えて書くが、その「映像構築力」において、あまりに落差が目立つのだ。

「スーパーウーマン」のみに支えられて、「主題提起力」を全面に押し出した本作の、その「構成力」・「映像表現力」の信じ難いほどの暴走ぶりに、殆どお手上げだった。

「血縁家族&血縁を超える家族愛」という基本理念をコアに、「地続きなる生と死」という死生観を絡ませて構成されたと思われる「物語」は、観る者の感動を存分に意識させた、エピソード繋ぎの「横滑り」の情態の組成に終始してしまって、全く「深堀り」されていないから、深度を増すことがない。

―― その典型例を、物語の流れに沿って書いていく。

「不幸」という記号の、その不文律の初発点。

それは、言うまでもなく、ヒロイン双葉が決定的に被弾した末期癌の告知である。

この設定それ自身に、記号化された「不幸」の外延(がいえん)が凝縮されている。

物語は、ヒロイン双葉の内面に潜り込み、そこに仮託された作り手の理念系が炸裂する。

因みに、「癌の王様」と呼ばれる膵癌(すいがん)のように進行が早く、予後不良な癌に罹患したクランケにとっては、苦痛を和らげるための「緩和ケア」は非常に重要な役割を持つ。

ところが、双葉にとって、「遂行すべき残された仕事」の履行こそが、「緩和ケア」そのものだった。

「少しの延命のために、自分の生きる意味を見失うのは、絶対に嫌だ」

負の記号を最も詰め込んだ夫の一浩に、毅然(きぜん)と言い放った双葉の意思表示である。

驚くような「説明台詞」に引いてしまうが、この作り手には、「映画作家」という自負がないのだろう。

斯(か)くして、「地続きなる生と死」を体現するレッドラインの際(きわ)で、「遂行すべき残された仕事」に挺身(ていしん)していく。

私立探偵に依頼し、1年前に失踪した夫の一浩を連れ戻し、レトロな雰囲気を有する薪焚き銭湯を再開すること。

これは簡単に成就する。

それにしても、オダギリジョー演じる、心理描写を捨てた、一浩という非主体的な男。

失踪し、失踪され、2人の子供だけ(安澄と鮎子)が残されたという、「訳ありの事情」のキングとも言っていい。

次に、本気で取り組んだのは、苛めで不登校寸前に陥っている安澄(あずみ)を精神的に自立させること。

これは、困難を極めた。

苛めグループに制服が盗まれて、学校に行き渋る安澄の布団を引き剥(は)がした双葉は、叱りつけるのだ。

「起きなさい、安澄。学校に行くの!」
「やだ、絶対やだ!」
「今日、諦めたら二度と行けなくなる!」
「じゃ、行かない!二度と行かない!」

この当然過ぎる反応に、体を張って学校に行かせようとする双葉。

「逃げちゃダメ!立ち向かわないと!今、自分の力で何とかしないと、この先!」
「何にも分ってない!」
「分ってる!」
「分ってないよ、お母ちゃん!」

沈黙のあと、安澄は嗚咽の中から、言葉を吐き出していく。

「私には、立ち向かう勇気なんてないの。私は最下層の人間だから…お母ちゃんとは全然違うから」

ここまで言われて、言葉を失う双葉が、沈黙の後、静かに語り出す。

「何にも変わらないよ。お母ちゃんと安澄は…」

これ以上、言葉が出てこなかった。

納得し得る絵柄として提示された、双葉の沈黙の重みの構図。

「地続きなる生と死」という死生観を抱懐(ほうかい)する双葉にとって、「遂行すべき残された仕事」の履行なしに、昇天の向こうにある「絶対観念」(〈死〉は絶対的に観念である)のゾーンで安堵できないということなのか。

然るに、母娘の激しいバトルの後に開いたシーンには、驚きを禁じ得なかった。

体育着で学校に現れ、苛めグループの嘲笑を受けたあと、体育着を盗まれた一件を生徒たちの前で問う担任の教諭の前で、体育着をすべて脱ぎ、下着姿になった安澄が、苛めグループを告発する描写である。

特化したスポットと化した教室を占有する、このシーンを見せられて、思わず絶句する。

「制服、返してください」

体育着を着ることを促す担任の言葉に、嗚咽含みで強く反発する安澄。

「嫌です。…今は、体育の授業じゃないから」

この抵抗の結果、安澄が休む保健室の入り口に、制服が放り投げられていた。

明らかに、女子苛めグループの行動である。

このシーンは、完全にアウト。

双葉の人格の内面に潜入して、物語を繋いでいく作り手は、16歳の「思春期中期」(高2)の女子の心理と、苛めの問題の深刻さが分っていないのではないか。

苛めの問題の難易度の高さを客観的に理解できないのか、正直、苛めのシークエンスの描写に頗(すこぶ)る、違和感を抱いてしまった。

「苛められたら、やり返せ」と言う大人が、今でも我が国に多く散見されるが、誰も助けてくれる級友がいないクラスで、やり返すことは殆ど困難である。

―― 以下、「いじめ防止対策推進法」(2013年6月28日公布)より。

「いじめとは、子どもが、ある子どもを心理的、物理的に攻撃することで、いじめられている子の心や体が傷ついたり、被害を受けて苦しんだりすることです」(第2条)

「学校と先生方教職員は、関係者と協力しながら、いじめの防止と早期発見に取り組んで、そしていじめが起きていることがわかったら、すぐに動く責任があります」(第8条)

「自分の子どもがいじめられたときには、親は子どもを保護します」(第9条)

論なく、重要な条文である。

私の定義によると、苛めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的・継続的な「対自我暴力」のこと。

最悪の苛めは、相手の自我の「否定的自己像」に襲いかかり、「物語」の修復の条件を砕いてしまうことにある。

その心理的な甚振(いたぶ)りは、対象自我の時間の殺害をもって止(とど)めとする。

時間の殺害の中に苛めの犯罪性があると、私は考えている。

まさに、安澄への苛めは、「自分は苛められる弱い人間」という、彼女の「否定的自己像」に襲いかかり、その繊細な自我への継続的暴力性によって、「再生的立ち上げ」の時間を破壊し、「物語」の修復の条件を砕いてしまう風景を曝していた。

問題解決能力の欠片(かけら)を持ち得ない安澄に可能だったのは、「親は子どもを保護」(第9条)するという条文のように、一時(いっとき)、「乳母日傘」(おんばひがさ)に入り込んで、「対自我暴力」から身を守り、親を経由して、「すぐに動く責任」(第8条)を持つ学校関係者に救済を求める以外にない。

それもまた勇気のいる行動だが、敢えて社会問題化しない限り、苛めの被害者の自我を壊すことのない手立てを確保することは難しいだろう。

このような勇気のいる行動への振れ具合が、「自分は苛められる弱い人間」という「否定的自己像」を希釈化し、青年期の最も重要な発達課題としての、自我の確立運動に架橋していくことが可能になると、私は考える。

私たちは、「苛めの犯罪性」を認知すべきである。

このように考えれば、苛めの問題に対応する「スクールソーシャルワーカー」の増員が切実な状況下にあって、双葉の言葉を思い起こしながら、下着姿になる安澄の行為は、作り手の理念系の暴走であると言う外にない。

その後、「安澄の下着姿のレジスタンス」が学校中に噂が広まり、「変人」とラベリングされ、忌み嫌われ、「苛められて当然」という暗黙の了解が生じる危険性すらある。

大体、親の叱咤によって、自らの壁を破り、こうした大胆な行動に振れるくらいなら、安澄が恒常的な苛めを被弾する事態にはならなかったであろう。

但し、人間の奇怪な行動の多くがゼロであると言い切れないように、安澄の行動もまた、「殆ど困難」だが、ゼロではない。

そこに極論が生まれる。

これが、人間社会の現実である。

だから、この映画は「極論の渦」となる。

「極論の渦」となって、観る者に押し寄せてくるから厄介だった。

ともあれ、この一件で提示された伏線は、物語展開の中で全く回収されることがなかった。

既に、「制服、返してください」という雄々しき啖呵(たんか)それ自身が、安澄が負う「不幸」という記号の自己完結点だったという訳である。

本篇は、登場人物が抱える記号化された「不幸」が、「スーパーウーマン」の魔法によって、すべてフィードバックされ、その「スーパーウーマン」の懐(ふところ)に収斂されていく。

「スーパーウーマン」の昇天が自給した「湯を沸かすほどの熱い愛」によって、それぞれの〈生〉のスポットの生命の滾(たぎ)りの中で「純化・再生」していくのだ。

【後述するが、安澄が負った「不幸」という記号の重大な伏線は、物語の後半に回収されることになる】

 以下、人生論的映画評論・続「 湯を沸かすほどの熱い愛」('16)より