裁かれるは善人のみ('14) アンドレイ・ズビャンギンツェフ

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<「聖」と「俗」が共生すれば最強の「正義」になり、頑固な抵抗者を完全解体する>


1  途轍もなく、観る者に迫ってくる映像の峻厳さ


寒風吹きすさぶ、バレンツ海に面する、ロシア北部の入り江のある小さな港町。

自動車修理工場を営むコーリャは、若い妻リリア、亡妻との間に生まれた息子ロマと共に、住み慣れた家で質素に暮らしている。

一方、1年後に選挙を控えた権力的な市長ヴァディムは、大規模な土地開発計画のため、自らが掌握する力を誇示し、ごり押し手法で、コーリャの土地を廉価(れんか)で買収しようと画策し、プレッシャーをかけていく。

「自分の人生のすべてだ」

そう吐露し、土地買収のための取り壊しを厳(げん)として拒絶する、コーリャの中枢にある感情の強さは、祖父の代から継いでいる住処(すみか)が、都市での生活を望むリリアと切れて、彼のアイデンティティそのものだったからである。

そんなコーリャが、行政に対する強硬な態度に抵抗し、軍人時代の後輩・ディーマを頼り、モスクワから呼び寄せる。

裁判に持ち込むための援助行動に踏み入っていくディーマの存在は、法的抵抗力を持ち得ないコーリャ一家にとって、誰よりも頼り甲斐がある男だった。

ディーマの戦略は、過去に犯した市長の悪事の情報を世論に公開するという、古典的な恫喝手法。

この恫喝に怯(おび)え切ったヴァディム市長が全人格的に頼るのは、ロシア正教会の司祭のみ。

この関係は、行政(権力)と宗教(権威)の癒着(ゆちゃく)の構図を端的に示している。

これが巨大なパワーに膨張するモメンタムは、法的抵抗力を持ち得ない弱者にとって、威圧的なモンスター以外ではなかった。

だから、このモンスターとの闘いの澱んだ風景は、絶望的に振れていくネガティブな情態を露わにするばかり。

人間の脆弱性・非力さ・邪知深さ・そこに依拠するしかない「聖なるもの」の不在、そして、生きとし生けるものを威圧するほどに映像提示された、圧倒的な自然の凄み。

それらを、ここまで描き切った映画の根源的メッセージに触れ、脱帽した。

肥大化した権力と闘う圧倒的弱者・コーリャと、その家族・友人らの運命の苛酷さ。

全知全能の唯一神によって、峻烈(しゅんれつ)な試練を被弾し続けて復元したヨブのように、映画の主人公もまた、サタンに唆(そそのか)されて、未知のゾーンに放擲(ほうてき)され、課せられた「試練」に如何に向き合い、膨れ上がった煩悶を解き放つことが、どこまで可能であったか。

途轍もなく、観る者に迫ってくる映像の峻厳(しゅんげん)さ。

言葉を失うほどだ。

 

以下、人生論的映画評論・続: 裁かれるは善人のみ('14)   アンドレイ・ズビャンギンツェフより