「バスキアのすべて」('10) 

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<「防衛体力」の欠如によって、最強の毒素に壊されていく>

1  「激情的習得欲求」の自由人 ―― その中枢を動かす推進力


「最初は拾ってきた窓に描いていた。窓枠を額縁に見立ててガラスの部分に描く。拾ったドアにも描いた」

ジャン=ミシェル・バスキアの言葉である。

「(絵の説明について)どう説明したらいいか、分らないよ…ほとんど自動的なんだから」
これもバスキアの言葉。

「ほとんど自動的なんだから」と言うアメリカの画家に、絵画のモチーフを問うことは意味がない。

「激情的習得欲求」の自由人 ―― それこそが、バスキアの中枢を動かす推進力になっている。

だから、彼の作品には「無題」が多いのだ。

そのジャン=ミシェル・バスキア

1960年に、ニューヨーク市ブルックリンで、二人の妹を持つ兄妹の長男として生まれ、スラムの臭気とは無縁だった。

ハイチ系移民の父親は裕福な会計士。

プエルトリコ系移民の母親マチルダは、精神を患っていたと言う。

聖書を絵にするほど美術好きの母親が、幼いジャンを美術館に連れて行った。

この恵まれた環境が、ジャン・バスキアを一代のアーティストを育む大きな要因になっていく。

既に6歳で、母の助力でブルックリン美術館の会員になっていたが、7歳のとき、車に撥(は)ねられ、入院中に、母から「グレイの解剖書」(「人体の解剖学」として知られる医学書)を贈られ、バスキアの絵画にその影響を留めている(「無題(頭蓋骨)」)。

翌年、両親が離婚するに至る。

詳細な事情は不分だが、離婚後、精神病院に入院するに至る母親マチルダ精神疾患と関与すると思われる。

父親に引き取られた17歳のバスキアが、「思春期スパート」の洗礼を受け、裕福な環境を自ら捨て去った。

ブルックリンの家を出たのだ。

その行き先は、「ロウワー・マンハッタン」。

マンハッタン島の最南端に位置するダウンタウンである。

多くのギャラリーが集中する「ソーホー」に「拠点」を持つが、殆ど根無し草だった。

このダウンタウンで、スザンヌ・マロックという名の恋人を持ち、彼女のアパートに転がり込み、アトリエとした。

「SAMO」(セイモ)というユニットを作ったバスキアの、天衣無縫な非合法なストリート・アートは、やがて、詩的なグラフィティの制作で名を馳せていく。

でも、なぜ、裕福な環境を捨ててまで、バスキア少年は、バンクシーより遥か以前に、「サブウェイ・ドローイング」(地下鉄の広告掲示板に絵を描く)で知られるキース・ヘリングのように、スプレーペインティングなどで壁に落書きする、ストリート・アートのグラフティの最前線に立ったのか。

恐らく、その性格も相似していたであろう、無名な「画家」でもあった母のDNAを継承したバスキア青年は、父親との折り合いの悪さを「自己解放」する。

多くの青少年がそうだったように、バスキア青年の「一念発起」のルーツは、この辺りにあるだろう。

そこに垣間見える、秀でた父親への承認欲求の情感濃度の高さ。

これは、「ドッグイア―」(変化の激しさ=犬の1年は人間の7年)の如き青春を、一気に駆け抜けた彼の「晩年」に、否が応でも検証されることになる。

しかし、バスキア青年を後押しした推進力が、当時の時代状況のうねりと無縁であったとは、とうてい考えられない。

「70年代後半のNYは不況で犯罪が溢れていた。クスリ中毒者に売春婦にポルノ・ショップ。
当時のNYは怪しい魅力を放っていた。マンハッタンのダウンタウンは、美大生や家出した若者を引きつけた。そうした状況が渾然一体となった暗くドラマティックに輝く世界は、想像とインスピレーションに満ちていた」

映画で語られた、ナレーション含みのブリーフィングである。

感受性豊かな青春が、この渾然(こんぜん)とした時代状況の一角で咆哮(ほうこう)し、目眩(めくるめ)く解放系のスポットを占有するのだ。

 

以下、人生論的映画評論・続: バスキアのすべて('10)   タムラ・デイヴィスより