ひとよ('19)   白石和彌

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<「自由の使い方」に困惑し、自尊感情の形成・強化の時間を奪われた、三兄妹の再生の可能性>

 

 

1  家族4人が久々に揃った朝餉の風景は、団欒と呼ぶには程遠かった

 

 

 

「皆聞いて。お母さん、話があるから…お母さん、さっき、お父さんを殺しました。車で刎ねてね、殺した。本当は、やっちゃいけない。だからね。お父さんのおじいちゃんとおばあちゃん、死んで誰も悲しまないとこまで、ずっと待った。あんたたちを傷つけるお父さんだから、お母さん、殺ってやった!だから、これから、お母さん、警察へ行きます。学校や生活のこと、会社のこと、丸井のおじちゃんが引き受けてくれるから、大丈夫。どれくらい、刑務所に入るのか分からない。刑期が終わっても、すぐには帰れないと思う。ほとぼり冷めるの考えると、10年、ううん、15年、15年経ったら、必ず戻って来ますから…母さん、そろそろ、行きますね」

 

弾丸の雨の夜の、母親こはるの衝撃的な告白から、家族の紐帯(ちゅうたい)をテーマにする峻烈(しゅんれつ)な物語が開かれていく。

 

置き去りにされた3人の子供たち。

 

長男は、後天的な、吃音という発達障害をハンディにする高校生の大樹(だいき)。

 

次男は、小説家を志す、思春期スパートの渦中にある中学生の雄二。

 

そして妹は、美容師を夢見る小学生の園子。

 

家を出ようとする母の腕を掴む園子に対して、母は思いを込めて最後の言葉を残す。

 

「だあれも、あんたたちを殴ったりしない。これからは、好きなように暮らせる。自由に生きていける。何にだって、なれる。だから、お母さん、今すごっく、誇らしいんだ!」

 

予想だにできない事態に遭遇して、呆気に取られるだけの三兄妹。

 

言葉が出てこないのだ。

 

かくて、こはるの甥である丸井進の軽トラックに乗って、母は「15年の旅」に発っていく。

 

降りしきる雨の中、雄二の運転で、三兄妹は父親を轢き殺した車に乗って軽トラックを追いかけるが、徒労に終わった。

 

15年後。

 

長男の大樹は、電気屋で働く一家の主になっており、美容師を夢見ていた園子は、スナックで働いていた。

 

一方、次男の雄二は、風俗雑誌のフリーランスのライターになっているが、兄妹との関係は疎遠になっていた。

 

だから、父親の墓参りに行くのは大樹と園子のみ。

 

その父のタクシー会社を継いだのは丸井進。

 

その名も稲丸タクシー。

 

墓参りの夜、いつものように酔いつぶれた園子を迎えに行ったのは、新人運転手の堂下(どうした)だった。

 

自宅に戻り、大樹と園子は、母こはるの最後に残した言葉について語り合っていた。

 

こはるが家に帰って来たのは、そんな折だった。

 

「約束したから、母さん、戻って来た」

 

大樹は弟の雄二に、母が帰って来たことを携帯で知らせるが、その態度は素っ気ない。

 

翌日、タクシー会社のスタッフに、温かく出所と帰還のお祝いを受けるこはる。

 

出所後、沖縄から北海道まで、各地を転々と仕事をして、ほとぼりが冷める15年を期して帰還を果たした思いを話す、母こはるの晴れ晴れとした様子を視認する大樹と園子は戸惑いを隠せなかった。

 

次男の雄二が実家に戻って来たのは、その只中であった。

 

一貫して、素っ気ない態度を崩さない。

 

かつて暮らしていた家の中に入るや、父親の激しい暴力に晒されていた負の情景がフラッシュバックされる。

 

翌朝、家族4人が久々に揃った朝餉(あさげ)の風景は、団欒と呼ぶには程遠かった。

 

「ちょっと、皆いい?お母さんね、時間かけてゆっくり帰って来た。帰っちゃダメだと思ったこともある。このまま、会わずにって。でも、お母さんね…」

 

その言葉を遮断するように、雄二が口を挟む。

 

「皆がいいって、思ってんだったら、いいんじゃない」

 

黙って頷くこはる。

 

「進ちゃん、私が帰って来るまで、ちゃんと会社守ってくれて。稲村の稲に、丸井の丸で稲丸タクシー。ここは、一つの家族だって。それ聞いて、お母さん、痺れたな」

 

その母の話を、上の空で聞き流す大樹と雄二。

 

「雄ちゃんの書いた記事、雑誌に載ってるって、昨日、歌ちゃん(稲丸タクシー所属の運転手)に聞いた。立派な記者になったんだね」

 

嬉しそうに語る母に、園子は笑みを返すが、雄二は完全に白け切った表情で反応する。

 

「あの事件で居づらくしてくれたからね。お陰様で、東京に出て頑張れたよ」

「そうか」

 

一言、返すと、居づらくなった母は、その場を外した。

 

ぎこちない態度を取り続ける大樹と、反感が強い雄二。

 

その間に立って、気遣いする園子。

 

母こはるは、31歳の大樹が結婚し、娘がいる家庭を築いていた事実を知らなった。

 

しかし、妻・二三子(ふみこ)とは別居状態で、離婚問題の真っ只中にあり、離婚するつもりがない大樹の日常性はダッチロールしている。

 

また、こはるの帰還は、事件以降、頻発していたタクシー会社への悪質な誹謗中傷ビラや落書きの横行を引き起こすに至る。

 

母に知られないように、そのビラを剥がしていく大樹と園子。

 

大樹と園子の行動と切れ、誹謗中傷ビラを携帯で写真を撮る雄二。

 

「あの人に見せてやろうと思って。あなたのせいで、ずっとこんなこと、されてますよって」

 

雄二の物言いである。

 

一方、新人運転手の堂下は、17歳の息子と再会し、食事やバッティングセンターで親子の触れ合いを愉悦していた。

 

大樹の妻・二三子が会社を訪れたのは、そんな折だった。

 

初めて、長男の嫁と会うこはる。

 

しかし、大樹から母親の存在を知らされていなかった二三子は、夫への不信感を募らせ、離婚への固い決意を表出する。

 

大樹に離婚届を突きつけ、追ってくる大樹を振り払い、逃げるようにタクシーに乗り込む二三子。

 

こはるはタクシー無線を通して、二人で会話させる段取りをするが、話は全く噛み合わない。

 

折しも、園子は、雄二のパソコンファイルに信じ難い記事を見つける。

 

『空白の15年 聖母が狂わせた家族』。

 

これが記事のタイトル。

 

大樹と園子は雄二をスナックに呼び出し、その件を問い詰め、言い争いになるのは必至だった。

 

雄二は、母の事件をネタに週刊誌に記事を提供し、それを踏み台にして、小説家になると言うのだ。

 

「聖母は殺人者だった」という雑誌記事が二三子に知られ、その憤りを勤務中の夫に炸裂させる。

 

しかし、二三子の炸裂は反転してしまう。

 

穏やかな大樹が、奥深くに隠し込んでいた暴力性を惹起させてしまうのだ。

 

「話したら、結婚なんか、しなかったのにってか。子供なんか、産まなかったか!そういうことなら、別れてやるよ」

 

そこまで怒号する大樹は、別人のようだった。

 

そんな渦中で惹起した、悪意の集中的な攻勢の被弾。

 

稲丸タクシーの全てのタイヤがパンクさせられるという、悪意の集合的連鎖が暴れ捲っていくのだ。

 

いよいよ、こはるには、隠していた雑誌のコピーを見せざるを得なくなった。

 

「私のせいか」とこはる。

「全部、雄ちゃんのせいだよ。この記事書いたの、雄ちゃんだから」と園子。

 

その場にいた雄二は、黙って立ち去っていく。

 

急いで自宅に戻った大樹が、二三子が置いていった離婚届にサインしたのは、その時だった。

 

追って来た二三子は、それを制止し、「殺人者の孫」と言われるであろう、娘の将来について話すべきと大樹に訴える。

 

その二三子に、思わず手を上げてしまう大樹。

 

顔を伏せ、震えながら、大樹はテーブルを強打した。

 

「二度と来るな!これは稲村家の問題なんだ!」

 

「あなたに悩みがあるんだったら、それはあたしとミヨの問題でもあるでしょ。あたしだって、あなたの家族なのよ。だから、あたしたちのことも、ちゃんと見てよ」

 

一部始終を見ていたこはるが、ここで口を開く。

 

「あんた、今何やったのか、分かるの?こんなことして、こんな、あんた、まるで…」

「父さんみたい」

「そうだよ!」

「だったら、何だよ。父さんみたいだったら、母さん俺を、殺すか。母さんは、立派だから、ダメな俺を、殺すか?いつも、立派だから!」

 

母は、それ以上応えられず、嗚咽し、外へ出ていく。

 

「お母さん、ねえ、母さん」

 

園子だけは、こういう時、母に近接し、思いを寄せていく。

 

「ほっとけよ。兄ちゃんの家族に口出せる立場かよ」と雄二。

「何でよ。何で、お母さんを責めんの。お母さんは、あの人から、私たちを助けてくれたんじゃん!」

「その結果、俺たち、どうなった」と大樹。

「結局、兄ちゃんも、憎んでんじゃん」

「違うだろ…」

「もう、やめろ!」

 

風景の色彩が退色し、くすんでしまっていた。

 

以下、「人生論的映画評論・続: ひとよ('19)   白石和彌」より