自転車泥棒 ('48)  ヴィットリオ・デ・シーカ

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<父とぴったり、ラインを同じにして>

 

 

 

1  家族とは「パンと心の共同体」である

 

 

 

こんな時代があって、こんな人々がいた。

 

こんな風景があって、こんな家族がいた。

 

そして、そこに様々な人々の多様な繋がりがあって、良きにつけ悪しきにつけ、そこに一定の結束力があった。

 

それを今「邪悪なる共同体」と呼ぶのは容易だが、しかし、そのような繋がりの内で、何とか生活を繋いでいこうとする人々の懸命の思いが、そこには紛れもなくあった。

 

当時の自転車は、現在なら自動車一台と等価であると言っていいだろう。

 

だからこそ、乗用車を盗難された人々の悔しさは、父アントニオが愛用の自転車を盗まれた悔しさと均しい感情であると言い切れるのか。

 

悔しさの継続力において、当時と現代の落差は明らかである。

 

現代の人々は、災難に遭った悔しさを何ものかでカバーできる余裕を持ち得るが、アントニオの悔しさを癒すに足る何かが、果たして、当時どれ程存在したのであろうか。

 

自転車を盗まれることは生活を奪われることであり、ひいては、家族の暮らしを困窮させ、明日の保障のない人生を覚悟することを余儀なくされるのである。

 

アントニオの自転車奪回のあらゆるアクションは、まさに、四人家族の暮らしと生命を賭けた必死の闘い以外の何ものでもなかった。

 

翻(ひるがえ)って、現代社会を俯瞰(ふかん)するとき、私たちの多くは、「パン」の確保のテーマよりも、「心」の癒しの確保の方により強く振れているという印象が強い。

 

家族よりも個人であり、義務よりも権利であり、均質化よりも差別化であり、管理よりも解放であり、秩序よりも自由であり、自立よりも保護であり、「分」よりも「夢」であり、等量よりも過剰であり、昨日よりも今日であり、しばしば明日よりも今日であり、そして、愛することよりも愛されることである。

 

このような目眩(めくるめ)く現代の蜜の味を、この時代に生きる私たちが、果たして捨てる覚悟を持ち得るだろうか。

 

多分に懐古趣味に流れていく者たちは、本気で「共同体回帰」を望んでいる訳がない。

 

蜜の味の一切をかなぐり捨ててまで、その者たちが「古き良き時代」への原点回帰を志向しているとは到底考えられないのである。

 

偶(たま)さか甘いものを食べ過ぎて、それを摂取することを悔いたとしても、特段に命の別状がない限り、「決して甘いものは喰わない」と嗜好転換する決意を固めたつもりの、件(くだん)の者たちの観念の砦が、一片の感傷を入り込ませないという精神武装によって、時空を突き抜ける強靭さを持ち得るとは思えないのだ。

 

なぜなら、私たちは殆ど確信的に、「近代」が包摂(ほうせつ)する様々な利器や快楽を勝ち取ってきたのであり、そして、半ば暗黙裡(あんもくり)に「共同体社会」を破壊してきたのである

 

自らが壊してきたものの中に、単に、ノスタルジックな喪失感覚を蘇生させるような離れ難さを覚える何かが含まれていたとしても、せいぜい、そこで私たちが為し得るのは、その上辺だけの装飾を自分たちの暮らしや観念に接木(つぎき)することでしかないだろう。

 

それは恐らく、自己欺瞞以外の何ものでもないのだ。

 

甘いものを散々摂取してきた私たちができ得るのは、明日に繋がる「今日」という時間を、どれほど丁寧に生きていけるかというその一点のみであって、それ以外ではない。

 

私たちは、そこに辿り着きたいとどこかで思っていた場所に遂に到達したのであり、その辿り着いた場所を壊してまで戻りたい場所があるはずがないのである。

 

仮に、そのような者がいたとしたならば、その者は決して、私たちが辿り着いたこの場所で心地良く共存している訳がないのだ。

 

だから、奇麗事で塗りたくった中身のない言辞を吐き散らすのは、もう止めた方がいい。

 

私たちは、常にどこかで愚かであり、醜悪であり、あまりに不完全なるホモサピエンスでしかないのである。

 

―― 「自転車泥棒」という映画から学ぶものがあるとすれば、それは「肉親の絆の大切さ」であり、「勤労することの有り難さと辛さ」であり、「失ってはならないものを守り抜くことの大切さ」であり、そして、「失ってはならないものを失ったときの、自我の崩れを最小限に留めていくことの強さ」であるだろう。

 

それらが、この作品から、私たちが学ぶべきものの全てである。

 

少なくとも、私はそう信じて止まないのである。

 

家族の絆。

 

それは、失業問題が慢性化している時代の厳しい状況下において、何よりも「パンの共同体」だった。

 

父が働き、母がそれをサポートし、同時に、育児に専念する。

 

子供は就学間近にあって、自分の可能な限りの役割を家族の中で担っている。

 

その状態が堅調に推移すれば、家族は少しずつ、「パン」の問題を克服していくことになるであろう。

 

決して、物質的豊かさを手に入れた訳ではないが、それでも、苛酷な労働環境の中で、相対的な豊かさの実感を手に入れるに違いない。

 

人々が均しく貧しい時代の中では、自分たちの暮らしだけが特段に厳しい状態に置かれていない限り、人々は、「貧しさの中の豊かさ」を実感することが充分に可能なのである。

 

それは広義に言えば、「心の豊かさ」の範疇に入る豊かさである。

 

均しく貧しい時代には、このような豊かさの獲得が可能なのである。

 

なぜなら家族の絆は、単に「パンの共同体」の枠内に留まらないからだ。

 

家族とは何より「心の共同体」である。

 

家族内の情緒的結合の確かさが、家族の絆を間違いなく強化するであろう。

 

家族とは、「パンと心の共同体」なのである。

 

しかし、働くべきはずの父親が失業状態に陥ったら、家族の暮らしは直接的な危機に瀕するであろう。

 

そのとき、家族は何によってその絆を守り、それを崩されないようにして固めていくのか。果たして、「心の共同体」のみで、家族の絆を堅持することが可能なのか。

 

それが問われているのだ。

 

以下、人生論的映画評論・続: 「自転車泥棒」('48)  ヴィットリオ・デ・シーカより