<死への恐怖、欺瞞・偽善と葛藤する時間を累加させた果てに、究極の風景を炙り出す>
1 クリスマスイブの夜、粛然と聖歌を唄う修道士たち
時代は、「暗黒の10年」と呼ばれるアルジェリア内戦の渦中にある1990年代。
この国の村の丘に建つ厳律シトー会(後述)の修道院。
そこには、9人(ブリュノ修道士は別院で修道)のフランス人修道士が祈りの日々の中、手ずから牧羊・農耕に励み、イスラム教徒の多い村人たちと深く馴染み、穏やかな交流を続けつつ、自給自足の共同生活を繋いでいた。
中でも、高齢の修道士リュックは、院内にある村で唯一の診療所の医師として、分け隔てなく診察し、村人たちの様々な相談に乗っていた。
ある日、修道院長クリスチャンは、18歳の孫娘が殺されたという初老の男の相談を受けていた。
「バスの中で刺された。ナイフで心臓を一突き。犬のように投げ捨てられた。スカーフで髪を隠してなかったから…兄弟を殺す者は地獄へ行くと、コーランに書かれている」
「その男たちは信心深いふりをしながら、コーランも読んでない」と一緒に来た友人。
「フランスを見ろ。小学校がスカーフ問題で揺れている。世界はおかしくなった」(これは後に、サルコジ政権によって、顔の全てを覆うベールの着用を公共の場で禁じる「ブルカ禁止法」として施行された)
「彼らは指導者(イマーム)まで殺した」
「昨日、イマームが殺された。この先は?誰の仕業か、アッラーだけがご存じだ」
「もはや理解できない。誰が誰を殺す?」
その話を聞いたクリスチャンは、家族のために祈りを捧げようと答えるのみ。
イスラム教徒が唱える「インシャラー」(神の御心のままに)である。
ここで言う「その男たち」とは、1996年当時、アルジェリアの政府軍と内戦を続けていた武装イスラム集団(GIA)のこと。
そして遂に、カトリック教徒である12人のクロアチア人労働者たちが、GIAによって無残に虐殺される事件が起きた。
1993年12月のことである。
その事件で騒然とする村人たち。
クリスチャンの元にも、村人たちによって、その情報がもたらされた。
「喉をかき切られて、全員が」
戦慄するクリスチャン。
「修道院は軍に警備させる」
「それはいけない」
「ここは殺害現場から、わずか20キロ。残虐行為はまた起こる」
「確かに、よく考えてみないと。ここには家族も住んでる」
地元自治体の首長と修道士たちの会話である。
しかし、クリスチャンはその申し出を一蹴する。
「結論は出てる。断る…19時半以降は門を閉めて、人を入れない」
「それで十分か?君は奴らを知らない」
クリスチャンは答えないまま、その場を去っていく。
かくて、修道士たちは聖歌を歌う。
“暴力の時にも 主は私たちと共にあるから
いたる所に主を 夢見るのはやめよう
急いで行こう 忍耐をあの御方へ向けよう
苦しむ御方の元へ行こう…復活の日の暁のように
私たちと共にあるから…”
祈りのあと、修道士たち全員が一同に会し、今回の件について議論を戦わせる。
セレスタン:「なぜ私たちに相談せずに決める?皆の命が危ないのに」
クリスチャン:「君ならどうする?」
セレスタン:「皆で話し合って、各自の意見を聞きたい」
クリスチャン:「何を答えるために?」
ジャン=ピエール:「答えは重要じゃない。君の態度によって共同体の原則が曲げられる」
クリスチャン:「では、今夜ここに軍隊を入れたい者は?」
ジャン=ピエール:「君は分かろうとしてない」
クリスチャン:「分かってる。我々の誰一人、軍隊に守られて生活したいとは思ってない」
ジャン=ピエール:「君一人に決定権はない」
クリストフ:「テロリストが来たら?黙って殺される?」
クリスチャン:「確かに危険だ。だが我々はここに遣わされた。この国の人々と生き、恐怖を共にする。この不可解な状況で生きるのだ」
クリストフ:「私は集団自殺しに来たのじゃない」
リュック:「テロリストが来たらどうするか、それぞれが決めればどうだ?」
収拾がつかない最初の議論だった。
しかし、事態は混乱を極めていた。
危険が修道会にも迫っていたのだ。
そんな中、突然、GIAが敷地内に押し入り、歩いていたセレスタンに迫る。
GIAは修道会のトップであるクリスチャンの名を叫び、呼び出す。
「何の用だ。ここは平和の家だ。武器は持ち込めない。話があるなら置いてきてくれ」
「絶対に手放さない」
「では、外で話そう」
外に出たGIAのリーダーは、重症者がいるので医者を連れて行くと強要する。
「それはできない。リュック修道士は高齢で喘息がある。彼は診療所を訪れた人をいつも誰でも、分け隔てなく診察する」
「それなら、薬をよこせ」
「薬が足りない。毎日100人の村人を診てる」
「うるさい!選択の余地はない!」
「ある。私は選択する。無いものは与えられない。私たちは慎ましく暮らしている。大地で取れるものだけだ」
クリスチャンは、コーランの一節を唱え、私達は隣人であると伝える。
それを聞くと、GIAのリーダーは仲間を連れ、引き揚げて行く。
「今日は特別な日なんだ」
背後からそう語りかけると、GIAのメンバーは足を止め、振り返る。
「なぜだ?」
「今日はクリスマス。平和の王子の誕生を祝う日」
「平和の王子?」
「〈シドナ・アイサ〉」(ムハンマドも認める再臨したキリストのこと)
「イエスか」
リーダーがクリスチャンの元にやって来て、握手を求めた。
「すまん。知らなかった」
クリスチャンは握手で応えた。
クリスマスイブの夜、粛然と聖歌を唄う修道士たち。
以下、その直後の議論。
セレスタン:「ここに留まれば、日々、命の危険がある。生きるために修道士になった。殺されるためではない」
クリスチャン:「そのとおりだ。殉教するつもりはない」
セレスタン:「去るべきでは?せめて、もっと安全な場所に」
アメデ:「セレスタンは、よい事を言った。彼らはまたすぐにやって来る。要求を全て、はね付けたことは、宣戦布告と取られかねない。クロアチア人は殺された」
クリスチャン:「殺す気ならもう、とっくに殺されている」
ポール:「ファヤティア(GIAのこと)が引き揚げても、明日また別の者が来る。別の解決法がある。発つことだ。各自の良心に従って、決めるべきだと思う。フランスに帰るか。アフリカ内の安全な修道院に移るか」
ジャン=ピエール:「発つことは逃げること。この村を見捨てることだ」
セレスタン:「村人を不安にさせないよう、徐々に発つ」
ジャン=ピエール:「結局は変わらない。よき羊飼い狼が来ても、群れを見捨てない」
クリストフ:「各自の気持ちを述べよう」
ジャン=ピエール:「留まるべきだ。暴力には屈しない」
ポール:「発つべきだと思う。段階的に」
セレスタン:「私は病気だ。発ちたい」
リュック:「発つことは死ぬこと。私は残る」
ミシェル:「私を待つ人はいない。私は残る」
アメデ:「まだ分からない。もっと考える。そして共に祈ろう」
クリストフ:「私は発つべきだと思う」
クリスチャン:「アメデに賛成。結論を出すのは早い。助けは主の内に」
全員:「天地を創りし御方の内に」
最後に聖歌を唱和し、解散するに至る。
こうして、2度目の議論もまた、結論を持ち越すことになった。
人生論的映画評論・続: 神々と男たち(’10) グザヴィエ・ボーヴォワ
より