町田くんの世界('19)   石井裕也

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<余りある利他心が、「健全な個人主義」に収斂されていく>

 

 

 

1  必死に走り続ける「町田くん」の青春譚

 

 

 

「善」の記号性を被(かぶ)せたような高校生が、スクールカーストが常態化しているスポットで、心弾む気持を捨てることなく呼吸を繋いでいる。

 

件(くだん)の高校生・「町田くん」は、「善」の絶対記号のようだった。

 

「キリスト」などと揶揄され、その存在の異様性が際立っているのだ。

 

バスで席を譲ったり、子供の風船を追いかけて疎水に落ちたり、束ねて運ぶ本を書架に戻してあげたり、元気のない女子を励ましたり、部活でレギュラーになった男子に声をかけ、喜びを分かち合ったり、等々。

 

そこに「善行」という意識が微塵も拾えず、これらのアクトを、いつでも率先して起こすから驚くのである。

 

「人間好き」を体現する、そんな「町田くん」が、「人間嫌い」を公言する同級生の猪原に興味を持ち、いつもと同じように、普通の利他的行為に振れていく。

 

ハンカチを借り、そのお礼を言うために走って追いかけたり、凛として、「これは何か違う。彼女、大切な人なんです」と言い切って、同じ学校の生徒にナンパされている彼女を連れ戻したり、等々。

 

さながら、ムイシュキン(「白痴」の主人公)を彷彿させるような、ただの世間知らずで、洞察力欠如の印象を与える「町田くん」にとって、特定・非特定を問わない他者の「困った状態」に無関心ではいられないのである。

 

「雨だと、家に閉じこもっていても許されるから。ここにいていいよって言ってくれてる気がするんだ」

 

孤独の本質を射抜くような猪原の言辞である。

 

そんな猪原が「町田くん」に好意を抱くようになる。

 

「町田くん」は、その好意の意味が理解できない。

 

同学年の西野との会話が面白い。

 

「恋って、どういう気持ち?他の好きと、どう違うの?」

 

恋を知らない「町田くん」の言葉に驚きながら、真剣に説明する西野。

 

「他の好きと、根っこは一緒だと思うよ。それがちょっとしたきっかけで、爆発するみたいに、魔法みたいに恋になる」

 

今度は、それを猪原に聞くのだ。

 

「どんなことがきっかけになるんだろう。好きな気持ちが爆発するみたいに恋になるきっかけって何?」

 

問われた猪原の方が狼狽(ろうばい)する。

 

「分かんないよ、そんなこと」

 

そう、反応するだけだった。

 

しかし、異性に対する恋愛感情を持ち得ない「町田くん」に翻弄される猪原は、もう、ギブアップ。

 

父の言葉が推進力になって、猪原に対する感情が異性愛であることを実感する「町田くん」は、ギブアップした猪原を、「生まれるんだ!新しい町田!」と叫びながら追い駆けるのだ。

 

しかし、もう手遅れだった。

 

ロンドンに留学する意志を固めた猪原に対する「町田くん」は、意気消沈するばかりだった。

 

珍しく落ち込んでいる「町田くん」を励ます高校生たち。

 

その高校生の中に氷室もいた。

 

「町田くん」をバカにしていた彼は今や、「一生懸命」に生きる「町田くん」に感化された一人だった。

 

以下、それを印象づけるような二人の会話。

 

氷室は、付き合っていたサクラから贈られた時計を投げ捨てた。

 

その時計を拾う「町田くん」。

 

「ダメだよ、氷室君。君はもっと、人の気持ちを大事にしなきゃ、ダメだ。これはゴミなんかじゃない」

「何?偉そうに説教?人の気持ちを大事にしろ?あはは、そんなの聞き飽きたし、何百回も言われたわ」

「それだけじゃない。君は自分の気持ちを考えないから、人の気持ちも分からないんだ。もっと自分を大事にしたほうがいい」

「はぁ?何だよ、じゃ、お前分かんのかよ。え?その気持ちとやらを」

「分からないから、言ってんだ!どうするんだ、俺」

「知らねえよ。てか、やっぱ、お前、変だ」

「そんなの聞き飽きた。今まで、何百万回も言われたよ!」

 

「町田くん」に近づいて、胸倉を掴む氷室。

 

「おい、何でお前は、いつもそんな一生懸命なんだよ。あぁ、ムカつくな。言っとくけどな。そんな、必死に一生懸命生きても、いいことないぞ!」

「でも、氷室君、今、一生懸命な顔をしてる。難しいけど、頑張って想像してみないと…これには、さくらさんの一生懸命な気持ちがこもってる。想像しないと」

「想像…」

 

そんな会話だったが、氷室の表情から怒気が消えていた。

 

物語をフォローしていく。

 

仲間に尻を押され、再び動き出す「町田くん」。

 

サカエの自転車を借り、必死に走り続ける「町田くん」の前に、風船を飛ばされた子供が現れたので、自転車を降り、風船を取ろうとするが、猪原のことが忘れられない「町田くん」は子供に自分の思いを率直に伝え、そのまま、風船に導かれ、大空を飛翔していく。

 

そんな折、猪原が空港へ行くための電車に乗り合わせた雑誌ライターの吉高は、没になった原稿を猪原に渡し、読んでもらうことになる。

 

そこには、「町田くん」のことが記述されていた。

 

「この世界は悪意に満ちている。弱い者をいじめ、自分のことしか考えない。命を簡単に踏みにじり、他人の不幸を喜ぶ。思いやりなんて存在しない。この世界は悪意に満ちていて、まるで救いようがない。長い間、そう思いながら暮らしてきた。でもある日、私の前に一人の青年が現れた…世界は悪意に満ちている。本当に、そうだろうか…彼が、町田君という名の青年が見る世界は、きっと美しいに違いない」

 

その文章を読み、感銘を受け、目を潤ませる猪原。

 

「町田君に会いたくなりました」

 

そう言うや、車窓から空を飛ぶ「町田くん」を目視した猪原と吉高は降車し、「町田くん」が気づくまで、彼の名を呼び続けるのだ。

 

猪原に気づいた「町田くん」は、ジャンプする彼女の手を掴み、抱き上げ、二人で大空を飛翔していく。

 

その光景を見て驚く氷室とさくら、西野とサカエ、そして「町田くん」の家族。

 

「これから、どうすればいいんだろう」と「町田くん」。

「分からない。けど、ゆっくり行こう」と猪原。

 

ところが、カモが近づき、風船を割ってしまうのだ。

 

地上に落下する二人が落ちたのは、自校のプールだった。

 

「何でだろ。分かんないけど、まだ生きてる!」と「町田くん」。

「何でだろう。生きてるね!きれい!ねえ、町田君。町田君には、何が見えてるの?優しい人ばっかり?醜くて、どうしようもないような人間は、町田くんには、見えてないの?」

 

猪原は「町田くん」に問いかける。

 

「町田くん」は、明瞭に言い切った。

 

「今は、猪原さんが見える。猪原さんしか見えない。他のものは、見えなくなってしまいそうなんだ。それって、いいことなんだよね?猪原さん、君が好きだ」

「私も!」

 

ラストシーンである。

 

 

人生論的映画評論・続: 町田くんの世界('19)   石井裕也 より