生きちゃった('20)  石井裕也

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<友愛の結晶点を描き切って閉じていく>

 

 

 

1  「私の夢は、庭付きの家を建てることです。妻と娘のために。それと、犬も欲しい」

 

 

 

高校時代の友人、武田と奈津美(なつみ/登場人物名は全て公式ホームから)と3人で過ごした厚久(あつひさ)の回想シーンから、物語が開かれる。

 

厚久は奈津美と結婚し、5歳の娘・鈴を育み、今も、夢を共有する武田との友情を延長させていた。

 

プロのミュージシャンになること・起業すること ―― これが二人の夢だった。

 

その夢の実現のために、中国語と英語のレッスンを続けている。

 

「不思議だよな。英語だとすらすら本音を言える」

 

映像のコアとなる表現が、親友と心を通わす武田の口から吐露された。

 

レッスンの帰りに、武田は厚久の家に寄り、奈津美と鈴との団欒の中に溶け込んでいる何気ない風景が提示される。

 

しかし、この風景を大きく変容させる事態が出来(しゅったい)する。

 

本の配送会社に勤めている厚久が、勤務中に眩暈(めまい)がして早退して家に帰ると、妻の奈津美が見知らぬ男と情事に耽る現場に出くわしてしまうのだ。

 

目撃された妻と目を合わすが、衝撃を受けた厚久は、動転して言葉も発せずに、家から飛び出していく。

 

そのまま、自転車で娘・鈴の幼稚園に迎えに行く厚久の心には、抜けない棘が刺さっている。

 

「悪いんだけど、鈴に風邪移さないで」

 

娘と二人で食事をする奈津美は、具合の悪い厚久にそう言うだけで、昼間の情事の件に触れることなく、恥じる様子もない。

 

そればかりか、押し黙っているだけの厚久に対し、奈津美は言い放った。

 

「あなたからは、愛情感じないから、私はずっと苦しかった。あたしの気持ちは、あっちゃんには分からないと思うけど、苦しかった。この5年、ずっと」

「ずっと?」

「うん、ずっと」

 

妻の顔を呆然と見つめる厚久。

 

「あたしと付き合う前、あっちゃん、早智子(さちこ)さんという女の人と婚約していたでしょ。あっちゃん、婚約破棄してまで、私と付き合った。あのとき、早智子さんには悪いことしたよね。あの人のこと、相当傷つけたよね。私がバカだったって思うんだよね。早智子さん、今頃、どうしてるんだろう。可哀想」

 

そう言って、嗚咽を漏らす奈津美。

 

「何で今更、そんな話」

 

ここでマターを一転させ、奈津美はシビアな話に遷移させていく。

 

「鈴は、私が育てるから、お金のことは任せる。鈴が育てるのに必要な金額は、また改めて相談するってことでいいかな。今すぐには決められないし。それと、これは申し訳ないんだけど、鈴の幼稚園を変えるわけにいかないから、このまま、ここに住みたいと思ってる。意味分かるでしょ…何か、言って?私を全否定してもいいんだよ」

「…うん、全部分かった。でも、分からなくなっちゃったのは、じいちゃんがいたのかいなかったのか…」

 

タンスの上に飾ってある祖父と、二人の兄弟の写真を見ながら、そう答えるばかりの男が、そこに置き去りにされた。

 

夢の具現化から遠ざかる一歩 ―― これが、置き去りにされた男の最初の被弾だった。

 

「私の夢は、庭付きの家を建てることです。妻と娘のために。それと、犬も欲しい」

 

英語のレッスンを受ける男が、担当の女性教師に話した英語だが、最後の授業であるとも告げ、武田と共に帰路に就く。

 

月謝が払えなくなったからである。

 

言わずもがな、中国語のレッスンの途絶も同じ理由。

 

「いいんだよ、あんな嘘つかなくて。庭付きの家の話」

 

その帰路で、親友を思いやる武田の助言に対し、厚久は家を持つことも、武田と起業することも夢であることに変わりがないと答える。

 

まもなく、武田のもとに奈津美が訪ねて来た。

 

「奈津美、お前、ずるいよ」

 

武田の最初の一撃には、親友を裏切った女への感情が存分に込められていた。

 

「武ちゃんは、何を知ってるの?何も知らないで私を責めるのは、ずるいよ。あっちゃんも、ただ被害者面してるんだとしたら、それもずるい」

「…厚久は、お前が大変だった時に、婚約を破棄してまで、お前を救おうとしたんだ」

「知ってるよ。だから?だから、悲しいよね。私は救って欲しかったわけじゃない。愛して欲しかっただけなの。離婚の話してるときも、あっちゃんは、ずっと違うところ見てた。私の目なんて、見なかったよ。そういう夫婦だったの。分かる?じゃ、結局、どうするのが一番だったの?やっぱり、武ちゃんと結婚してれば、良かったんじゃないかな」

「冗談でも、やめろ」

「でも、私は好きだったよ。高校生のとき、ずっと」

「そういうことは、言うなよ。頼むから」

「あっちゃんは、婚約してた。早智子さんて人が、家にいた。ごめんなさい、ごめんなさいって何度も謝るの。あっちゃん、それから変わっちゃった。分かってたよ。私は結婚すべきじゃなかったの。でも、そのときもう鈴がお腹の中にいたし、頑張るしかなかったけど、やっぱり駄目だった。悔しいけど。あっちゃんが愛したのは、私じゃなかった。だから、この5年は、鈴だけのためにやってきた。でも、あたし。今、好きな人がいるの。人を好きになるっていう自分の気持ち、あたし、絶対否定しない。それが間違いだと思ったら、悪いけど、こんな理不尽な人生やってられないから。女でいるって、重要なの…」

「もういい、いい加減にしろ!男と女の話は、お前らでやってくれ!俺はそんなに暇じゃない…ごめん、嘘だ。何かあったら、電話しろ」

 

翌日、武田は厚久に会い、離婚の原因について問い質す。

 

「今、寂しいか。離婚して、泣いたか」

 

首を横に振る厚久。

 

「ムカつかないのか。何でだ。鈴ちゃんには会いたくないのか」

「どっちにしたって、言わない方がいい。言いたいよ。でも、言おうと思っても、何でだろ、声が出ないんだ。日本人だからかな。心の中では泣いてるよ。でも、実際、涙が出ないんだ」

「俺は、お前を信じてるけど、お前が悪かったのか?」

「ああ」

「何をした」

「彼女を悲しませた」

 

半年後、奈津美は同性相手が働かず、生活費に困っていた。

 

男は、デリヘルでも何でもできるだろと開き直るのだ。

 

「デリヘルなんて、簡単にできるよ。だって、大事な娘と、好きな人のためでしょ。できるよ。簡単な気持ちで、あなたといるわけじゃないの。私も、もうどこにも行けないからね。これだけは言っとくけど、絶対に別れない。覚悟決めてるの。当たり前でしょ」

 

奈津美は厚久に電話をかけ、少しだけ振り込んでくれと頼む。

 

分かったと答える厚久は、何かを言いかけるが、それ以上話せなかった。

 

「ごめんね、ごめんね」

 

奈津美は厚久に謝り、涙を流す。

 

お盆に実家へ単身で帰った厚久は、そこで初めて奈津美と離婚したことを家族に告げた。

 

大麻を吸い、引き籠りがちで仕事に就けない兄も、その話を又聞きし、驚いている。

 

その兄は、後日、弟が住んでいるであろう家に訪ねると、そこには、奈津美と鈴、そして、同棲相手の男が住んでいた。

 

外に出たその男を、厚久の兄は付け回し、あろうことか、殺してしまうのだ。

 

半年後、厚久と両親が徹が収監されている刑務所にやって来た。

 

ラーメン店で父親が客に頼んで、親子3人の家族写真を撮る。

 

「バカだな。くだらない奴ほど、のうのうと生き残る」

 

厚久の父親は、こんなことを平然と言ってのける男なのだ。

 

刑務所近くの公園へ行き、今度は、母親の提案で刑務所をバックに家族写真を撮る。

 

一方、殺された同棲相手の男の借金の返済を求めて、強面の3人が奈津美の家に上がり込んでいた。

 

切羽詰まった状況下に捕捉された奈津美は、逃れる術もなく、連帯保証人としてサインするに至る。

 

片や、厚久が元の自宅へ来たが、そこにはもう誰も住んでいなかった。

 

玄関のドアを叩き、「ごめん」と言いながら、早智子が厚久の元にやって来た時のことを回想する。

 

早智子は自分が子宮に問題があると分かり、子供が産めない体だったことを告げ、結婚しないで良かったんだと吐露するのだ。

 

「いいなあ、私も女の子が欲しかったから。可愛がってあげてよね」

 

厚久は、その言葉を受け、涙ながらに謝罪する。

 

「ごめん、奈津美を大切に思ってる」

「分かってるけど、そんなにはっきり言わないでよ。好きじゃないから、私にはそうやって、本音を言えるんだよね」

 

そこに、奈津美が帰って来たところで、回想シーンは閉じる。

 

譬(たと)え誤解であったとしても、厚久と早智子の睦み合う現場を、奈津美に目視されたという一件が負い目と化した男が、ここで決定的に沈み込んでいく。

 

全ては、この早智子に話した奈津美への思いを言語化しなかったこと ―― これに尽きるだろう。

 

鈴を実家に預け、デリヘルの仕事に就く奈津美。

 

これが、窮乏生活を強いられた奈津美の〈現在性〉だった。

 

 

人生論的映画評論・続: 生きちゃった('20)   石井裕也 より