「コスモポリタン」を無化した女の情愛が、地の果てまで追い駆けていく 映画「スパイの妻」('20)の表現力の凄み  黒沢清

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1  「私が怖いのは、あなたと離れることです。私の望みは、ただ、あなたといることなんです」

 

 

 

一九四〇年 神戸生糸検査所

 

英国人のドラモンドが、軍機法(軍機保護法)違反で憲兵たちに連行された。

 

貿易会社を経営する優作の元に、取引先の友人でもあるドラモンドがスパイ容疑で逮捕されたと、優作の幼馴染の泰治が報告にやって来た。

 

神戸憲兵分隊長である泰治は、外国人を相手に仕事をする優作と、共通の幼馴染の妻・聡子の先行きを心配し、警告する。

 

神戸の豪邸に住む優作は、趣味である8mmフィルムの映画を製作し、妻・聡子にスパイ役を演じさせていた。

 

優作が多額の罰金を払い釈放されたドラモンドが、自宅を訪れ上海に発つことを、聡子に告げる。

 

その優作は、大陸を一目見たいと、趣味の映画の撮影機材を持ち、甥の文雄を連れて、満州へ旅発った。

 

聡子が女中を連れ、山に自然薯(じねんじょ)を掘りに行くと、天然の氷を取りに来た泰治と偶然出会い、自宅に来るよう誘う。

 

福原邸に呼ばれた泰治は、ここでもまた、洋装し、舶来のウィスキーを飲む暮らしを享受する聡子に警告する。

 

予定より遅れて帰国した優作を出迎え、抱き締める聡子。

 

しかし、優作が一人の女を連れて帰って来たことに、聡子は気づかなかった。

 

昭和15年、福原物産忘年会の場で、優作が制作した映画が上映された。

 

社員全員に砂糖と餅が支給され、一年の勤労が労われた。

 

その場で、文雄は小説を書くために会社を辞め、有馬温泉に籠ることを発表する。

 

「大陸で、実際の戦争を目にして思いました。いつ呼ばれるか分からぬ身ですから、そうなる前に、何か一編でも後世に残せるようなものをしたためておきたい」

 

会社に残る聡子と優作。

 

「文雄さん、どこか前と変わってしまった」

「冒険心に火が付いたのさ。満州で…聡子、僕はアメリカに行くかも知れない」

 

対日輸出制限をしたアメリカが敵になる前に、渡米すると言うのだ。

 

「見ておきたいんだよ。もう一度…摩天楼を見ないで死ねるか!」

 

後日、優作が帰国の際に連れてきた女・草壁弘子の水死体が見つかった。

 

この件で、泰治に呼び出された聡子は、優作の斡旋で、弘子が文雄の逗留する旅館に女中として働いていたことを知らされた。

 

殺人事件に優作は関わっていないが、文雄との痴情の縺(もつ)れが疑われているようだった。

 

「お呼びしたのは、あらかじめ、心構えをしていただきたかったからです」

「どんな心構えを?」

「あなたと、あなたのご亭主が、これからどう振舞われるか、我々はそれを注視しています」

 

何も知らされていなかった聡子は、食事中に優作を質した。

 

「お願いです。本当のことをおっしゃって下さい。こんな気持ちは結婚以来、初めてです。私は急にあなたのことが、分からなくなりました」

「問わないでくれ。後生だ。僕は断じて恥ずべきことは何もしていない。ただ僕は、君に対して嘘をつくようにはできていない。だから、黙るしかない」

「そんなの、嘘と変わりません」

「君がどうしても問うなら、僕は答えざるを得ない。だから、問わないでくれ。僕という人間を知ってるだろ。どうだ、信じるのか、信じないのか」

「卑怯です。そんな言い方」

 

涙声で反駁(はんばく)し、黙考した聡子は、優作の問いに答えた。

 

「信じます。信じているんです」

「この話は、これで終わりだ。いいな」

 

その夜、聡子は悪夢にうなされた。

 

優作が聡子と泰治の関係を疑い、死んだ弘子と一緒に、優作の嘘の上手さを笑っているという夢だった。

 

優作の遣いで、旅館の文雄の元にやって来た聡子は、事実を聞き出そうとする。

 

「あなたは何も分かっていない。あなたが、安穏と暮らすために、おじさんがこれまでされたご苦労を、何もご存じない!」

「おっしゃってる意味が、分かりません!」

「その通り!あなたは、何も見なかった。あなたには、分かりようがない!」

 

そう叫んだあと、胸を抑える文雄は、今度は静かに吐露する。

 

「失礼しました。何も知らない者にこそ、わずかな希望があるのかも知れない」

 

そう言って、紙包みを聡子に渡す。

 

「これをあなたに託します。決して開封せず、おじさん以外の誰にも渡してはいけない…英訳がやっと終わった、おじさんにはそのように」

 

聡子は、文雄から預かった書類を優作に渡す際に、封を開けて中身を見てしまう。

 

「やはり、知らなければ、何も信じることはできません」

 

優作は聡子に、これまでの経緯を説明する。

 

満州へ行った優作と文雄は、医薬品の便宜を打診するために、関東軍の研究施設に行くことになった。

 

道すがらに、電車の中から、人間の遺体が焼かれる小山をいくつも目撃する。

 

それはペストによる死体の山で、関東軍の細菌兵器の犠牲者であった。

 

関東軍が秘密裏に、生体実験が行なっている事実を内部告発しようとする軍医は処刑され、その愛人であった看護婦である弘子にも身の危険が迫り、優作たちは行きがかり上、彼女を救うことになった。

 

弘子は、その軍医から動かぬ証拠として、生体実験を詳細に書き残したノートを託されていたからだ。

 

聡子が文雄から受け取った書類は、その実験ノートと英訳した書面だった。

 

そこには、ペスト菌の散布だけではなく、捕虜を使った生体実験の様子まで克明に記録されていた。

 

「こんなことは、決して許されるものではない!」

 

優作の話を聞かされた聡子は、この文書をどうするのか尋ねた。

 

「英訳したノートをどうするおつもりです?」

「この証拠を、国際政治の場で発表する。特にそこがアメリカなら、戦争に消極的なアメリカ世論も対日参戦へと確実に導くことができる」

アメリカが参戦すると、どうなります?」

「日本は負ける。遅かれ早かれ、必ず負ける」

「それでは、あなたは売国奴ではありませんか!」

「…僕は、コスモポリタンだ。僕が忠誠を誓うのは国じゃない。万国共通の正義だ。だから、このような不正義を見過ごすわけにはいかない」

「あなたのせいで、日本の同胞が何万人死ぬとしても、それは正義ですか?私まで、スパイの妻と罵られるようになっても、それがあなたの正義ですか?あたしたちの幸福は、どうなります?」

「不正義の上に成り立つ幸福で、君は満足か」

「私は正義より、幸福を取ります」

 

話は平行線だった。

 

「あなたを変えたのは、あの女です。あの女がその胸に棲みついたんです!」

 

聡子は、優作不在の会社に行き、倉庫の金庫に保管された実験ノートを持ち出し、あろうことか、それを神戸憲兵分隊を仕切る泰治に差し出したのだ。

 

文雄は逮捕され、激しい拷問を受けるに至る。

 

優作もまた憲兵に連行され、文雄は自分がスパイであることを認め、実験ノートの持ち出しを単独で遂行したという自白の事実を聞かされる。

 

そして泰治は、優作の掌(てのひら)に、拷問で剥(は)がされた文雄の両手の爪を、散り散りに載せたのである。

 

「誰が通報した?」

「あなたもよくご存じの方だ。私はその人を不幸にしたくない。まだ間に合います。心を入れ替えて、お国のために励みなさい。それで、この件は終わりだ」

 

自宅に戻った優作は、聡子を嘲罵(ちょうば)した。

 

「密告屋!しかも、泥棒まで。君は、幼馴染の口車に乗って、僕ら二人を売った。よくもまぁ、そんな涼しい顔をしてられるな!」

「文雄さんは、あなたを守る。私はそれに賭けました」

 

文雄の両手の爪を見せられた聡子は、平然と言ってのけた。

 

「大きな望みを果たすなら、身内も捨てずにどうします?」

「君のせいで、文雄は地獄行きだ」

「文雄さんは、あなたを守る。私はそれに賭けました」

大望を遂げるための犠牲です。文雄さんも、お分かりでしょ。だから、あなたも帰ることができたんです」

 

そう言いながら、聡子は残る英語版の実験ノートを取り出した。

 

しかし、原本がなければ信用されないという優作。

 

「あなたが私を責めたいのは分かります。それでもあなたは、私を信用くださらなくてはなりません。もう、あなたには私しかいないんです」

 

こう言うや、優作に厳しい視線を放った聡子は、窓を閉め、優作が持ち帰ったフィルムを上映した。

 

そこには、実験ノートの原本の中身と、研究所の建物、実験の様子、犠牲者の捕虜とその死体が映し出されていた。

 

最も重要な情報を共有せざるを得なくなった優作は、正直に吐露する。

 

関東軍による人体実験記録フィルムを再撮影したものだ。弘子に入手させた。帰国と交換条件で」

「このフィルムと英訳のノートがあれば、あなたの志を果たすことができます。アメリカへ渡りましょ!私たち二人で」

 

情報を共有した夫婦は、証拠の品を廃屋に隠した。

 

「僕はスパイじゃない。僕は自分の意志で行動している。スパイとは全く違うものだ」

「どちらでも結構。私にとって、あなたはあなたです。あなたがスパイなら、私はスパイの妻になります」

 

映画館での日本軍の仏印進出のニュースを見た後で、バスに乗る二人の会話。

 

アメリカがとうとう石油の対日輸出を禁止したそうだ。ABCD包囲網の完成だ。これで、正規の手段では、アメリカへ行けなくなった」

「優作さんは、あの女とアメリカへ行くつもりだったんですか?」

「まさか。単に保護者のフリをして、二人分の渡航申請をしただけだ。その方が怪しまれない。行くのは彼女一人だけだ」

「本当ですね?」

「もちろん」

「では、やっぱり、優作さんと行くのは、私ということになりますね」

「だが、どうやって。方法は一つしかない。亡命だ」

 

自宅に戻ると、早速、出国の計画を話し合う。

 

優作が提案したのは、危険を分散するために、二手に分かれて渡米するということだった。

 

聡子はフィルムを持って貨物船のコンテナに隠れて2週間を過ごし、優作はノートを持って上海に行ってドラモンドに託した人体実験の映像フィルムを買い戻し、最終的にサンフランシスコで二人が落ち合ってから、ワシントンへ向かうという計画だった。

 

一人で行く不安を訴える聡子に対し、船長も懇意で十分な手配をする説得を試みるが、不安を払拭できないと言う聡子。

 

「どこかで、誰かを信じるしかない。この大仕事を二人だけで やり遂げようとしてるんだ…強くなってくれ」

「捕まることも、死ぬことも怖くありません。私が怖いのは、あなたと離れることです。私の望みは、ただ、あなたといることなんです」

 

かくて、夫婦の亡命作戦が開かれるのだ。

 

 

人生論的映画評論・続: 「コスモポリタン」を無化した女の情愛が、地の果てまで追い駆けていく 映画「スパイの妻」('20)の表現力の凄み  黒沢清 より