「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」 ―― 映画「永遠の0」('13)という照準枠 山崎貴

f:id:zilx2g:20210521071335j:plain

1  それ以外にない孤高の生きざまの最終到達点 ―― その風景の理不尽さ

 

 

 

公開当時、大きな話題を呼んだ映画「永遠の0」。

 

正直、原作者の名で引いてしまい、観るのを控えていたが、コロナ禍(2021・5)で観て、この映画が提示した問題のシビアさがひしと伝わり、深い感動を覚えた。

 

そこで炙り出した現状こそ、まさに、我が国の政治・文化風土が内包する峻烈な〈状況性〉を浮き彫りにしたと感受し、改めて起稿する思いに結ばれた次第である。

 

まず、イデオロギー的な偏見に捕捉される人たちが糾弾・誹議(ひぎ)する「永遠の0」が、「特攻賛美」の作品ではないこと。

 

最後は、「善きDNA」を繋ぐ「家族讃歌」に収斂される物語のコアに在るのが、映画の主人公・宮部久蔵の孤高の生きざまだった。

 

「果たして、こんな軍人がいたのか」という疑問を抱くのは、観ていて必然の理である。

 

だから、上官に異を唱えるや、その上官から「タコ殴り」されたのは必至だった。

 

あれだけ「タコ殴り」されれば、歯も何本も折れ、死んでもおかしくなかったが、そこは「基本・エンタメムービー」の範疇で処理する外にないのだろう。

 

「祖父は、一体、何者だったのか」という、一種、自己のルーツを探す孫・健太郎の旅の射程の最後で捉えた風景 ―― それは、「海軍一の臆病者」・「何より命を惜しむ男」と嘲罵(ちょうば)された宮部久蔵が、凄腕の零戦乗りであり、若者の命を救うために、機体の交換をしてまで、特攻隊員として果てて逝ったという壮絶な人生の様態だった。

 

自分の教え子を含む、多くの若者の「約束された死」の理不尽さに耐えられず、その責任を一身に負って、果てて逝く。

 

ここで、この辺りの心理の揺動を描いた、本篇の重要なシーンを再現する。

 

終戦の最末期・鹿屋基地(1945年)。

 

「菊水作戦」(海軍の特攻攻撃作戦)で、「神風特別攻撃隊」の中心的な出撃基地となった歴史的拠点である。

 

この鹿屋基地での宮部久蔵。

 

直掩機(ちょくえんき)の任務を負い、日夜、トレーニングに励み、常に整備点検を怠らなかった。(因みに、直掩機とは、味方の航空機を掩護する航空機のこと)

 

自分を待つ妻子のために、「生きて帰っていく」こと。

 

これが、宮部久蔵の絶対命題だったからである。

 

「何より命を惜しむ男」と謗(そし)られても構わない。

 

リアリティに欠ける設定だが、その強さがあったから、教え子にも、無駄死しないことを説く。

 

そんな男だった。

 

以下、鹿屋基地での、宮部と景浦の会話。

 

「あれが特攻です。今日、行ったのも私の教え子たちです。あんなもの、私は毎日のように見てきました。彼らがあの状況で、一体、何ができると思いますか。今や、敵機の性能は零戦を遥かに上回っている。対空砲艦も、日に日に勢いを増している。今日、殆どの機は敵側に辿り着けなかった。こんなことで死ぬべき人間ではなかった。戦争が終わった後の日本のために、生き残るべき人間だった。それなのに…俺は何もしてやれなかった」

「あの状況では、仕方がないと思います」

「簡単に言うな!何人が、何人が死んだと思ってるんだ!直掩機は特攻を守るのが役目だ!たとえ自分が盾になろうとも、守るのが務めだ!それなのに、俺は逃げた!彼らを見殺しにした!俺は彼らの犠牲の上に生き長らえてる…彼らが死ぬことで、俺は生き延びてるんだ…俺はどうすればいい…どうすればいい…」

 

この宮部久蔵の言葉に集約されるのは、「特攻」という、戦争遂行能力において全く無意味な作戦のうちに顕在化する、「大和魂」という名で声高に闊歩(かっぽ)した、この国の度し難い精神主義=「玉砕主義」の文化構造的な痼疾(こしつ)への弾劾である。

 

本来的な闘争心の脆弱性を、その底層に隠し込んだ、「散華」の美学という、極めて厄介な痼疾だから救い難いのだ。(拙稿 時代の風景「『雪の二・二六』 ―― 青年将校・その闘争の心理学」を参照されたし)

 

【これについては、本稿のテーマでもあるので、章を変えて後述していく】

 

―― ここで、映画の最後の部分をフォローする。

 

景浦に対して語気を荒げた宮部久蔵の、その内的時間は、彼の冥闇(めいあん)なる物理的時間(生活時間)を食い潰していく。

 

それは、殆ど狂気の世界だが、実の祖父・宮部久蔵の、それ以外にない孤高の生きざまの最終到達点なのだ。

 

そして、その若者が、祖母を亡くして滂沱(ぼうだ)の涙を流す賢一郎であった事実を知り、驚愕する司法浪人・健太郎

 

宮部久蔵の苛烈を極める生きざまに辿り着き、橋の欄干で号泣する健太郎が、そこにいる。

 

「約束された死」をトレースし、零戦・搭乗員となって、大空を飛翔する実の祖父のイメージに結ばれ、号泣するのだ。

 

「基本・エンタメ」として自己完結する映画の後味は、決して愉快ではなかったが、それが作り手の手法であると受容するだけである。

 

 

人生論的映画評論・続: 「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」 ―― 映画「永遠の0」('13)という照準枠  山崎貴 より