<負の記号を潰して生きんとする「舐められた女」と、その一人息子との愛と希望の物語>
1 「お金のことは、絶対気にしないで。それで、行けるところまで、行きなさい」
田中良子(りょうこ)の夫・陽一が、横断歩道を自転車で横断中に、赤信号を無視して暴走してきた車に撥ねられ、死亡した。(「東池袋自動車暴走死傷事故」参照)
これがオープニングシーン。
7年後、事故現場を見つめ、立ち尽くす良子。
良子はその足で、加害者の老人の葬儀に向かった。
「この老人が7年前、アクセルとブレーキを踏み間違えたことで、僕の父ちゃんは呆気なく死んだ」(良子の息子・純平のモノローグ/以下、モノローグ)
良子は、立派な祭壇が飾られた葬儀会場に入ろうとするところを阻止される。
「おかしいですよ。被害者だから何でも許されるわけないんです。何のためにわざわざ来たんですか?父に何を言っても、意味ないじゃないですか。嫌がらせのような行為は止めていただきたい…」
「私はただ、有島さんのお顔を拝見したくて…」
「あなた、おかしです」
「かつて偉い官僚だったらしいこの老人は、アルツハイマーを患っているという理由で逮捕すらされなかった。僕の父ちゃんは30歳で死んだが、この人は天寿を全うし、92歳で生涯を閉じだ」(モノローグ)
家賃27000円の市営団地に、息子の純平と二人で住む良子。
純平に「何で、あんな人の葬式に行ったの?」という問いに対し、良子は、「まあ、頑張りましょう」と笑って返すのみ。
「母ちゃんは、時々、意味が分からない。少し難しい人だ」(モノローグ)
コロナ禍で、ホームセンターの花屋で時給930円のバイトをしている良子は、家に帰って食事の支度をしていると、純平がどうしても解(げ)せないと、有島の葬式に行ったことに再び疑問をぶつけてくる。
「加害者でしょ。父ちゃんを殺した奴だよ…何で母ちゃんは怒らないの?」
「まともに生きてたら、死ぬか、気が違うか、そうでなければ、宗教に入るか。この3つしかないでしょ」
「まあ、頑張りましょう」
いつもの口癖を言って、煙に巻く母。
月約36000円の食費で、家計を切り盛りする良子は、コロナ禍で自らが経営する小さなカフェを廃業せざるを得なかった。
7年前に賠償金を永久放棄した良子が、有島側の弁護士から呼び出され、葬式に来た件の警告を受ける。
「私が、お金を受け取らなかったのは、有島さんから謝罪の言葉が一言もなかったからです」
弁護士は7年前の事故の件は自分には関係なく、良子の「嫌がらせ」だけを一方的に問題にするのだ。
時給3200円の風俗嬢になった良子。
6時間勤務で19200円の日給である。
同僚のケイから、客に蔑まれていることの不満をぶつけられるが、ここでもまた、良子は「頑張りましょう」と言って、ケイを抱き締める。
一方、学校で、先輩たちに呼び出された純平は、市営住宅に入居していることで、「税金を食い物にしている」と嘲弄(ちょうろう)されたばかりか、母親が売春婦だと詰(なじ)られ、笑い者にされた上に、殴り飛ばされる。
母が風俗で働いていると知らなかった純平だが、家に帰り、良子に変な仕事をしていないかと問い詰める。
きっぱりと否定する良子。
「母ちゃんのカフェは潰れたんだよね?」
「でも、また開くよ。お母さん、人に雇われるの、得意じゃないから」
「ごめん…」
「どんなことでも、嘘をつかないで。これは、お母さんとあなたのルールだから」
「うん」
陽一の命日の日、良子は純平を連れ、脳梗塞で倒れ、月165000円の施設入居費の介護施設(義父の年金受給分・65000円を含めて)に入っている義父の面会に訪れた。
コロナ禍の窓越で、モニターを介しての対面である。
その日、故人を忍ぶため、陽一が参加していたバンドのメンバーが店に集まり、飲んで盛り上がっていた。
そこで、仲間の一人が、良子にお金の心配をする。
「女の人は、最終的に体、売れるから」
笑みで返すしかない良子。
「俺たちは、トップのトップまで行こうとしてたんだよ。聞いてるか?陽一の口癖だったんだよ」
「毎年、聞いてます」
うんざりした表情で、そう答える純平。
そこで、良子がかつて、アングラ劇団の女優で、情念の演技をしていたことを聞かされた。
家に戻った純平は、良子に苛立ちをぶつける。
「何なんだよ、あれは。母ちゃんのこと『買う』とか言ってたよ。ああいうのは、ヨーロッパ辺りじゃ、セクハラになるんじゃないの。なんで、母ちゃんは、我慢できるの?」
「ルールが厳しい国はいくつもあると思うけど、頭の中身はどの国の男も変わんない。他人にルールを求めるのは難しいと思う。自分たちがしっかりしてれば、いいでしょ」
「ムカつかないの?俺たち、何にも悪いことしてないのに。皆から舐(な)められてんだよ。もしかして、何でもないフリしてるの?お芝居?母ちゃんは、お芝居してんの?」
「まあ、たまにね」
良子は、純平のシャツに血がついていたのを見て、虐めがあるのではないかと、担任教諭に問い合わせをしていた。
学校へ行くと、担任は、虐めや暴力事件を把握していないと、取り合おうとしない。
「純平に何かあったら、私はあなたを許しませんよ」
担任教諭が鼻で笑って返したことで、良子は黙っていない。
「責任感のない卑怯な人間に限って、そういう愚かな薄ら笑いを浮かべるんです。全く面白くありませんよ」
息子のことに関しては、良子は本気になるのだ。
風俗店の控室で家計簿をつける良子。
それを覗き込むケイは、義父の施設費や、夫の愛人のサチコという人物の子供への養育費など、何で良子が払う必要があるのかと、疑問を呈する。
ケイもまた、一生、インスリンが欠かせない1型糖尿病に罹患し、費用が嵩(かさ)むのだ。
「お母さんは死にました。お父さんは生きてますけど、私、8歳の時から、ずっと、お父さんにレイプされてて。でも、いい人なんですけど、助けてもらいたくはないです…良子さん、大変ですね」
二人の会話を聞いていた店長が部屋に入って来て、以前、店で働いていた、父親にレイプされ、リストカットを繰り返す女の子の話をする。
「取り返しがつかないほどボロボロなのに、何で生きようとするのよ。だったら、死んだ方がいいじゃない。だって意味ないじゃん、苦しんで生きるなら。意味ある?」
黙って話を聞いていた良子が、急に笑い出す。
「分かります。私も風俗やってるから、人のこと言えた義理じゃないけど、死にたきゃ、死ねばいいじゃんって思います。無理して生きている人、バカですよね」
そう言って、また笑い続けるのだ。
店から帰る良子とケイは、脇道に逸(そ)れて会話する。
「昔から意味が分からないバカな奴だって、言われてきたんですけど、良子さん、何でさっき笑えたんですか?私、良子さんの方が、全然、意味分かんないです…」
「自分でも分かんない。反射的に。雇い主のご機嫌伺うためかな。笑うしかなかったから。今までもずっと。もう、自分がよく分からなくなってるんだけど、ちょっと話していい?」
良子は、陽一が車に轢(ひ)かれたとき、現場にいなかったが、死んだときのグチャッという音がずっと残っていると吐露する。
「そのグチャッで、旦那の人生は終わり。とにかく、生きてる間は、色んなことにいっぱい、悩んだ人だったんだけど、グチャッで、一瞬でお終い…その後の方が、もっとひどかったの。虫けらみたいに扱われたの。もう、人間って、こんなもんかって思っちゃった。ごめんね。私、意味わかんないこと言ってるでしょ。聞かなくてもいいよ。どうせ、理解されないから。今までも、ずっとそうだったから」
「同じです。私も同じです」
二人は、その足で飲み屋に行った。
「じゃあ、お金は一切、受け取らなかったんですか?」
「うん、汚いお金だと思ったから。計算されたよ。年収とかに応じて、3500万円ぐらいだった。うちの人、社会とかにずっと怒ってて、反抗するような歌、歌ってるような人だったから、その妻が納得できないお金はまずいでしょ。私、妻だったから、旦那のこと、全部受け入れなきゃしょうがないでしょ」
「それは、ちゃんとムカついた方がいいと思う」
「謝らなかったからね。一言も。人が死んだことよりも、自分の身を守ることの方が重要でさ、あの人たちは。マスコミ向けのポーズだけは、ビックリするほど上手いの…この前、旦那を殺した人の葬式に行ったんだよ。うちの人と、天と地ほどの差があったよ。規模が全然違うの。豪勢でさ。それ見て、あたし、やっぱりあの人の味方で、ずっといようと思ったよ。だから何?別に意味なんてないの。そうやって、無理して生きてることに何の意味があるのって言われたら、そんなの分かりませんよっていう話でしょ。今だって、マスクしてるけど、色々やってるけど、本当に意味あるのか、誰も分かんないでしょ。でも、マスクはするでしょ。分かんなくても。じゃ、何で生きようとするの。分かんのね、ケイちゃん、分かる?」
「分かりません…良子さん、もっと、怒った方がいい」
「叫んじゃったら、ごめんね。今、無理に抑えつけてるから」
「いいですよ。何したって。何でもしてやってくださいよ。知り合いに、シングルマザーばっかり狙ってる、バカな男がいます…舐められてんのが、ほんとにムカつく」
「ケイちゃんは、いいね。怒れるから」
「あたしも、自分のことじゃ怒れません」
良子は話しながら、貧乏ゆすりが止まらない。
泥酔した母を迎えに来た純平は、初めて会うケイに挨拶する。
「母ちゃんを、よろしくお願いします」
「いいね、そういうの。今度、デートしない?」
純平はケイの携帯番号のメモを受け取る。
そんな折、中学時代の同級生だった熊木と、偶然、再会した良子は、勝負服の赤を身につけてデートに向かう。
熊木に抱擁され、心が動いた良子は、程なくして、風俗店を辞めることにした。
「店長。恥ずかしいんですけど、あたし今、これから頑張れそうな気がするんです」
「じゃ、まあ頑張れよ。何かあったら、電話しろ。コロナで仕事は探すの、大変だろうから」
担任教諭から呼び出された良子は、最初に虐め問題のその後の調査について問い質すが、その件ではなく、意外にも、純平の成績が全国でもトップクラスであると知らされる。
純平が「トップのトップを目指す」と話していたと聞き、陽一と重ねて、満足げな表情を浮かべる良子。
帰宅後、良子は純平に、ルールの追加を申し渡す。
「お金のことは、絶対気にしないで。それで、行けるところまで、行きなさい。バカなお母さんのことなんて、放っといて、どこでも飛んで行きなさい。その代わり、ずっと健康でいて欲しいの。元気でいて欲しい。だから、危ないこともしない。そのルールだけは、必ず守って欲しいの」
小さく頷く純平。
母の言葉を推進力にして、純平は思い切り駆動する。
介護施設で捨てられていた自転車で、ケイのアパートを訪ねると、ヒモの男に連れ出され、ケイを強引に車に乗せ出発するところだった。
その車を追い着いた純平は、男がATMに行っている間に、車の窓ガラスを必死に叩くが、ケイは動こうとしない。
「どうせ、何やっったって無駄だから…」
男が戻って来ると、純平を睨むが、純平はその場を離れ、為す術もなく、立ち竦んでいた。
ケイは妊娠しているが、その男に強要され、中絶する。
ホームセンターを一方的に解雇される良子。
完全に収入源を断たれてしまうのだ。