1 自我機能の維持が、今や、風前の灯と化していた
3人目のヘルパーを辞めさせた父・アンソニーの元にやって来た娘のアン。
ヘルパーが腕時計を盗んだと言い張るが、部屋を出てその腕時計をつけて戻って来る。
「もう面倒みられない。今のように毎日はね。分かってほしい」
アンは、新しいパートナーとパリに行くことになったのだ。
「私の理解が正しいなら、お前は私から去るわけか。見捨てるんだな。私はどうなる?」
「介護人を拒むなら、その時は…」
「何だ?」
「分かってほしいの」
「アン、どうするつもりだ?」
週末には会いに来ると言って去って行くアンを、フラット(アパート=自宅のこと)の上階の窓から見つめるアンソニー。
キッチンで紅茶を入れていると、人の気配がして居間に行くと、見知らぬ男(「謎の男」)が座っていた。
「アンソニー・ポールです」
「誰?何やってる?」
「ここに住んでる」
「私のフラットに?」
「アンの知人か?」
「夫ですよ」
「…君たちは別れたのでは?」
「もちろん」
ポールはアンに電話する。
「お父さんの調子がよくない。君が必要なのでは」
アンソニーはアンがフランス男と出会って、パリに行くはずだと話すが、「あり得ません」と笑われてしまうのだ。
ここでアンソニーは、先日のアンとのやり取りを話しているうちに興奮し、アンが何かを企んでいる気配があると物言いし、声を荒げる。
「私のフラットを離れん!」
「あなたのフラットじゃない。あなたは、うちに来たんです。待ってる間…新しい介護人です。アンジェラとモメたから。待つ間、うちにいるんです」
「ここは君たちの家だと?」
「そうです!」
「あきれた言い草だ」
そこにアンが帰って来た。
「君のお父さんが、ちょっと混乱してる」とポール。
「何か、あった?」とアン。
「この茶番は何だ?」とアンソニー。
「何のこと?」とアン。
「アンは、どこだ?」
「ここよ。買い物をして戻ったの」とアン。
「…そうかね」
対面するアンが、アンソニーには別人に思えるのである。
困惑するアンソニー。
「調子がよくないそうね」とアン。
声を掛けられたアンソニーは、自分の混乱の経緯をアンに説明する。
「キッチンで紅茶をいれていた。独りきりだったのに、突然…音がして、来てみるとお前の夫がいた」
「誰の?ジェームズ?夫はいないわ。離婚して5年以上よ。覚えてるでしょ?」
「じゃ、奴は?」
「何の話なの?」
そう言って、キッチンに戻ると誰もいなかった。
「さっき、いたんだ…たわごとで、正気を失いそうだ」
その直後、アンジェラに代わる新しい介護人・ローラがやって来て、アンが彼女に説明する。
「今まで介護の方が、何人も交代したんです。父は癖が強いから、うまくいかなくて。うちに引き取ったけど、私も仕事があるから、支障が出てきてしまって、サポートが必要になったの」
そこにアンソニーが近づいて、挨拶をする。
「前に会ったよね?」
「いいえ」
「そうか?間違いなく会ってるよ」
アンの妹のルーシーにローラが似ていると言い出し、いつになく上機嫌のアンソニーは、ローラにウィスキーを振舞い、タップダンスを踊って見せる。
ルーシーとはアンの妹のことだが、この時点で彼女の不在の有無が判然としていない。
しかし、一転してローラに辛辣な言葉を投げ入れる。
今度は、アンが知り合った男に唆(そそのか)され、フラットを手に入れるために自分を追い出そうとしていると言い出すのだ。
「当分ここを離れる気はない。お前より長く生きてやる…むしろ、私は、娘の財産を相続してやる。娘の葬儀ではスピーチをしよう。いかに冷酷で、腹黒い女だったか…私は誰の助けも必要とはしていない…誰であろうと、うせやがれ」
「ごめんなさいね」とアン。
「お気になさらずに。よくある反応ですから。大丈夫です」とローラ。
キッチンでカップを落とし、割れた破片を拾いながら嗚咽を漏らすアン。
「心配したけど、お父さんは魅力的に振舞ったのよ」
アンがそう話す相手が、同棲中の恋人のポール。
ポールを名乗った「謎の男」と切れ、このポールこそ、アンの同棲中の恋人である事実が、ここで判る。
そのアンが、父アンソニーが一瞬、自分を特定できない現実にショックを受けている。
相変わらずアンソニーは、例によって腕時計が盗まれたと騒ぎ出し、ポールの腕時計を自分のものだと疑う始末。
そこで、アンソニーが娘のアンがパリへ行くという話をするが、アンはロンドンにいると否定する。
帰り際、サライはアンに電話番号のメモを渡した。
「様子が急に変わると、心配です。必要なら、いつでもお電話ください」
「すみません、いろいろと」
車の中でも、自宅でも、アンソニーは押し黙り、オペラの曲が頭を巡り、イヤホーンで聴き続けている。
自分だけの世界に閉じこもっているのである。
父を案じるアンの表情には疲労感が滲んでいた。
アンソニーは、体が覚えた記憶=「手続き記憶」も劣化し、着替えができなくなってきている。
それでもアンと呼び、感謝を伝えるのである。
急速に劣化していくアンソニーの自我機能の維持が、今や、風前の灯と化していた。
人生論的映画評論・続: 認知症の破壊力を描き切った大傑作 映画「ファーザー 」('20) ―― その卓出した構築力 フローリアン・ゼレール より