1 純愛譚の初発点
古い一軒家で、一人暮らしをする行助(ゆきすけ)は、不自由な左足を引き摺りながら、自炊し、バスで勤務先の大学の研究室へ通う。
行助の楽しみは、露天の骨董品屋で見つけた気に入った物を買い、たい焼き屋の香ばしいたい焼きを食べること。
この日も、大学からの帰り道にたい焼き屋に寄ると、酔っぱらいの客が若い女店主・こよみに話しかけていた。
よろけて招き猫の置物を落として割り、尻もちをつく客を、こよみと行助が起き上がらせると、酔っぱらいは自転車を次々に蹴飛ばして倒していった。
こよみが叱り飛ばし、酔っぱらいを退散させる。
「強いですね」と行助。
行助は骨董品屋で招き猫の置物を買い、たい焼き屋へ届けた。
「どうしてこんなに美味しいんですか?たい焼き。ちょっと、今までに食べたことないくらい美味しかったから」
「腕によりをかけるの。最初は全然上手くいかなかったんだから…あれこれ試行錯誤して、でも結局は、一生懸命作るだけ。魔法なんてないから」
そして、お互いの名前の書き方や、行助の名前の由来の話などをする。
「行(ゆき)さんは、いっぱい愛されて育ってきたんだね」
「そうなのかなぁ。母が小学校に上がる頃に死んじゃったから、話は姉に聞いたんだけどね」
帰りが遅くなり、たい焼き屋は店を閉めるところだった。
焦げて売れ残ったたい焼きを、ベンチに並んで座って食べる二人。
翌日、研究室の仕事が早く終わり、こよみの店へ行くと準備中だった。
町を歩いていくと、こよみがコンビニの前で、先日の酔っぱらいの男が酒を買っているのを見ていた。
一緒に酔っぱらいの後をつけ、公園で休んでいるのを遠くで見て、二人は観察して想像したことなど、他愛の話をする。
初めてのささやかなデートである。
「何の話?これ」
「…世界の話…あの人のことが知れて良かったって話かな」
二人は、石段のところで別れていく。
「今日はありがとう。楽しかった」
「じゃあ」
石段を上り始めたこよみを呼び止め、行助は電話番号を書いたメモを渡す。
こよみは、行助の額にそっとキスをする。
こよみの後ろ姿を見送り、しばらく立ち竦む行助は、降り出した静かな雨の中で、一歩一歩石段を上る。
ふと空を見ると、満月が輝いていた。
その夜、行助が待ち望んでていた携帯が鳴った。
こよみの事故を知らせる電話だった。
病院へ行くと、医者から「意識が戻ったとしても、何らかの障害が残る可能性があります」と説明を受け、衝撃を隠せない行助。
病室には、こよみの母親が来ていた。
行助をこよみの彼氏と決めつけ、「ちゃんとしたってな。面倒看たってね」と一方的に言い放ち、何かあったら連絡するようにと、名刺を渡して帰って行く。
気持ちが沈むばかりの行助。
「僕は毎日、つまらないよ。お腹も空かない。たい焼き屋が閉まっていて、何を食べても味がしない。肩は凝るし、洗濯物は溜まるし、よく眠れない。もう少し、親しければ、色々できたかも知れないのに、目を覚まさないまま、もう2週間が過ぎたんだよ。何かしてあげられることはあるのかな。何か、してもらいたいことはないかい?僕は、こよみさんのことを、何にも知らなかったんだな」(モノローグ)
こよみの病室で、その日も黙々と付き添っている行助。
「行(ゆき)さん」
こよみが目を覚まし、病室から帰ろうとする行助の名を呼んだのだ。
「大丈夫?」
「雨、上がったんだね」
最後に別れた日のことを言ってるのだ。
担当医の言葉。
「古い記憶はしっかりしてます。ただ今のところ、残念ながら、新しい記憶は残らない可能性があります。短い時間しか、新しい記憶を留めておけないようです」
退院したこよみに付き添い、家まで送る行助。
新しい記憶を持ち得ないこよみから電話があり、行助が行くと、石段の途中のベンチに座っていた。
「あの日は雨が降っていたのに、月が出てたね」
「そう。それがとっても綺麗だったから、もう一度見に行ったの」
短い沈黙の後、行助は自分の思いを表現する。
「こよみさん。僕の家に引っ越して来ませんか?」
場面展開は早く、テンポがいい。
薄暗い家にこよみを上がらせ、コーヒーを沸かす行助。
行助は最初から、こよみの部屋を用意していた。
こよみはアパートを引き払い、行助の家へ引っ越して来ることになる。
ここから、二人の共同生活が開かれるのだ。
それは、障害を持つ二人の純愛譚の初発点だった。