1 「私には大切な人がいます。でも私の気持ちは絶対に、知られてはならないのです」
「未来の私からの手紙 二中三年四組 大場美奈子
あなたは、十五歳だった時の事を覚えていますか?もうずいぶん昔の事だけど、あなたは、こう思っていました。私は、この町が大好きって。お兄さんやお姉さんたちは、この町を出て行くけれど、私は出て行かない。一生この町で生きていく。みんなともっと知り合えるし、もっと仲良くなれるでしょ。それは、素敵な事じゃない?」
現在50歳の大場美奈子が、15歳の時に書いた「未来の私からの手紙」。
美奈子の一日は、早朝の牛乳配達から始まる。
「あたしには、ずっと気になっている娘がいる。彼女のことは、子供の頃からよく知っている。女学校時代の友人の娘だからだ。娘と言っても、もう50歳だ。結婚もせず、浮いた噂一つなく、毎日判で押したような、傍目から見れば、何が楽しいのか分からないような生活をしている。その娘が、毎朝、我が家の庭先にやって来る」
認知症の夫を持つ、皆川敏子の小説の一節。
そこに、美奈子が牛乳配達に訪れた。
敏子から夫・昌男の通院の付き添いを依頼された美奈子は、快く引き受ける。
そして今、「よし」と言って、目指す家までの長い石段を走って上がり、重い病を患う高梨容子のミルクボックスに牛乳を届ける。
「高梨槐多(かいた)と結婚して、二十六年と八か月になるのだが、結局この人は、どういう人なのか、はっきりと分かりかねている。どうも、毎日が穏やかでありさえすれば、いいと思っている節がある。だから、このあいだ聞いた話は、少し私を幸せな気分にしてくれた。初めて、秘密に触れたような気がしたからだ」(容子の日記)
容子は、訪問の看護師から、牛乳を配達するのが大場美奈子という夫の同級生であると知らされたのだ。
美奈子の事を槐多に訊ねたら、「うん」と一言。
その牛乳を一口飲んで捨てる槐多は、無駄だから止めるかと、容子に訊ねる。
「ダメよ。飲めるようになるかも知れないし」
「そうだね」
そして、「今日、カレーを作る?」と聞く容子に、「いいよ」と槐多が答える。
「今の楽しみは、カレー小僧について考えることぐらいだ。カレー小僧は、少し前から、町の噂になっている子供のことだ。夕暮れ時になると、その子はスプーンを握り締めて、町を歩き回る。美味しそうなカレーを作っている家を探して」(容子の日記)
日中はスーパーに勤めている美奈子が自転車で出勤すると、店長と若い店員のマリが抱き合っているのを目撃する。
レジに戻って来たマリは、後ろめたさから、「悪いことしたみたいじゃないですか」と言って美奈子に絡むと、きっぱりと言い返される。
「悪いことです…そういうのは家でやって下さい」
役所の児童課に勤めている槐多が、帰路、このスーパーに寄り、カレーの食材の買い物をする。
美奈子と背中合わせにレジを済ませると、スーパーの前に男の子が座っていた。
槐多が「カレーが好きか」と声を掛けると、走って去って行く。
美奈子が書店で本を探していると、17歳の美奈子の記憶が思い出されてきた。
書店の外に目をやると、楽しそうに、自転車で二人乗りをする男女が通り過ぎる。
自分の母と槐多の父である。
そこに、同じく高校生の槐多が美奈子に声をかける。
美奈子が迎えに来て、敏子は自分の診察と称して、昌男を「もの忘れ外来」に連れて一緒に受診させると、少し進行が速いと診断される。
敏子の家でおでんを食べる3人。
「大場美奈子は幼い時に、製鉄所の技師だった父親を工場の事故で亡くしている。高校生の時に、母親も喪った。母親の千代は、トラックに轢かれて死んだ。彼女は、高梨という画家の自転車に乗っていた。千代と高梨が、どんな関係だったのか、詳しくは知らない。しかし、夕暮れ時に、山の方へ出かける男と女について、町の人たちが想像を逞しくしたことだけは間違いない。二人の遺体が霊安室に置かれたとき、高梨の妻が、一緒にしないでと取り乱したことを覚えている。息子の槐多と美奈子は、同じ高校だった。後で、二人が付き合っていたことを聞いた」(敏子の小説)
その時のことを、美奈子はよく覚えてないと言う。
「どうして結婚とかしないの?」
「だって、いなかったもん」
「高校の時、付き合った人いなかった?」
「あたしだって、恋の一つや二つあります。でもね、ダメ。足りないみたい。人に対する気持ちの量みたいなもの」
「何か、歯がゆいのよねぇ。別の違う生活とか、人生とか、あったんじゃないかって」
「おばさん、あたし、そういう風に考えないわ。寂しいと思ったこともないし、おばさんもいるし、おじさんもいるし…」
「うん」
スーパーでコロッケを万引きした、槐多が声をかけた例の少年が捕まり、警察へ通報しようとする店長に美奈子が進言し、槐多が引き取りに来た。
子供を連れて帰る槐多と恵美子の目が合い、互いに小さく会釈する。
少年は家の近くで繋いだ槐多の手を払い、一目散に家に入っていく。
槐多がドアを開けると、紐に縛られ、散乱するゴミに埋もれている弟に、少年がコロッケを食べさせている。
帰って来た母親に、食事を与えるように言うと、「関係ないだろ」と毒づくや、家に逃げ込む。
仕事が終ったロッカールームで、シングルマザーのマリが自らの不安を美奈子に訴える。
「寂しくないですか?夜とか」
「いいのよ、クタクタになれば」
「あ、そっか」
「元気、出して」
美奈子が退社しようとすると、店長が不躾(ぶしつけ)に聞いてくる。
「大場さんて、バージン?」
セクハラを受け、無言で帰る美奈子。
その夜、ベッドで本を読みながら、涙する美奈子。
「私には大切な人がいます。そう思っている私のことを、知って欲しいと思うこともあるのです」
ハガキにそこまで書いて、破り捨て、また書き直す。
「私には大切な人がいます。でも私の気持ちは絶対に、知られてはならないのです」
美奈子は溢れる思いを、いつも視聴するラジオ番組に投稿したのである。
セクハラを受け美奈子は今、永く隠し込んできた感情の呪縛から逃げられなくなったのだ。
槐多の家。
「ねえ、あたしがいなくなったら、どうする?」と容子。
「どうしようかな」
「真剣に答えて」
「考えたくない」と槐多。
「甘えないでよ」
一方、昌男の認知機能障害が進み、ついに徘徊が始まった。
表を走っていくと、橋の上でスプーンを握り締めたカレー小僧と出くわし、昌男は食堂で二人分のカレーを注文していたところを電話で知った敏子が駆けつけた。
元英文学者の認知症の夫との暮らしの体験記を連載することになっていた敏子は、出版社に断りの文章を書き、別の五十歳の恋愛小説の構想を伝える。
ラジオのパーソナリティーが、美奈子が投稿したハガキを読み上げる。
「私には大切な人がいます。でも私の気持ちは絶対に、知られてはならないのです。どんなことがあっても、悟られないようにするのは、難しいことです。しかし、その人の気持ちを確かめることができないのは、本当に辛いものです。もし、神様が二人だけで話し合う時間を与えてくれるというのなら、丸一日は欲しいと思うのです」
そのラジオを聞いていた容子は、リスナーの居住地とイニシャルから、その片思いの相手が槐多であると確信する。
槐多が寝た後、容子は点滴スタンドを引き摺り、自ら書いたメモをやっとの思いでミルクボックスに入れる。
その朝、美奈子は容子のメモを受け取る。
「少し急ぐのですが お暇な時で結構です お会いできませんか 高梨 容子」
役所では、万引常習少年の対応について児相を含めて会議が開かれた。
結果、一時保護が相当となり、役所の複数のメンバーで家を訪問する。
返事がなく部屋に入ると、母親は男と寝ていて、兄弟は紐に縛られぐったりしている。
一時保護の通告を提示し、子供二人を保護するが、槐多は居た堪れず、寝たままで無反応の母親を強引に起こし、腕を掴んで叱咤する。
「いいのか、本当にいいのか。子供と離されるんだぞ!これは、大変な事なんだぞ!おい!」
槐多は車の中でも怒りを抑え切れず、嗚咽する。
美奈子は、再び、牛乳瓶に入れられた容子からのメモを受け取った。
「早く来て お願いです」
美奈子のラジオ投稿がもたらした大きさが、この容子のメモを生み出していく。
それは、美奈子の日常に誤作動を出来させる。
気持ちが落ち着かない美奈子が、レジ打ちのミスをする。
物事に真摯に向き合う美奈子は、もう逃げるわけにはいかなかった。
仕事を終えると、急いで容子の元に駆けつけるのである。
「あたし、病気でもう長くないんで、槐多さんは一人になります。あの人、あなたのこと、思ってます。あなたも槐多さんのこと、好きなはずです。お願い、ちゃんと聞いて。あたしが死んだら、遠慮しないで欲しいのよ。すぐにとは言わないから、一緒に暮らして欲しいの。お願いします」
そう言って、涙ぐみながら重い体を上げ、頭を下げる容子。
「ずるいです」
「どうして、どうして?」
「ごめんなさい。また来ますから」
「日を置かないでよ。絶対よ」
この言葉を受け、動揺を隠せない美奈子は、身辺の変化を大きく感じ取っている。
槐多の存在が、否が応でも視線に侵入してくるのだ。