1 「生きとってくれて、ありがとな」
昭和三十三年 夏
大空建研という建築事務所に勤める平野皆実(みなみ/以下、皆実)。
復興が進む広島の街の一角にあるスラムで、母フジミと穏やかに暮らしている。
皆実には、疎開先の伯母の家に養子に入った弟の旭(あさひ)がいる。
その旭からのハガキを読みながら、疎開先の水戸へ、フジミに随行し、迎えに行った6年前のことを思い出していた。
7年間、離れ離れに暮らした旭は、友達も死んでしまった広島へ戻りたくないと吐露し、皆実に謝罪する。
「うちらは姉弟じゃけん。それは変わらんけぇ。伯父さんと伯母さんを、本当のお父さんとお母さんと思うて、大事にするんよ。ええね」
「うん、また会えるよね」
そんな折、事務所の同僚の打越(うちこし)が、会社を休んだ皆実の家を訪ねて来た。
皆実が振舞った雑草料理を美味しいと褒める打越。
「平野さん、きっと、ええ嫁さんなるで」
その言葉を聞いた瞬間、皆実は原爆で苦しんで逝った妹の翠(みどり)の声がフラッシュバックする。
「“お姉ちゃん、お姉ちゃん、熱いよ、熱いよ”」
突然、皆実は立ち上がって、打越に言い放つ。
「うちは、嫁なんぞ行かん。帰って下さい」
「何か、悪いこと言うたんじゃろか」
反応しない皆実に明日は出て来られるかと尋ねて、打越は帰って行った。
翌日、皆実は会社を出たところで、大きな契約を獲った打越に「おめでとう」と言って、昨日の行為の謝罪に代える。
打越はブティックに行き、好きな人へのプレゼントの見立てを皆実に頼み、ハンカチを選んでもらうのだ。
早々に帰る皆実を追い駆けて来た打越は、そのハンカチを皆実に渡すのだった。
気持ちが通じ合う二人だったが、皆実の耳元に、またも翠の呼ぶ声が侵入してくる。
「ごめんなさい。うち、ごめんなさい」
皆実は堰堤を駆け下りて、転んで手をつき、目の前の川を見詰める。
「お前の住む世界は、そっちではない、と誰かが言っている」(モノローグ)
ここでも、フラッシュバック。
「“翠!翠!お母さん、翠、翠、どこ?”」
そこに追い駆けて来た打越に声を掛けられ、我に帰るのだ。
「打越さん、教えてください。うちは、この世におってもええんかね」
「話してくれんか?」
以下、皆実の告白。
「13年前、うちは5人家族じゃったんです。両親と妹の翠と弟の旭がいて。旭はまだ小さかったから、伯母さんのところに疎開に行っていて、8月6日、あの日は朝から眩しいくらいに晴れていた。父は前の日から会社に泊まとった。うちと翠は、いつものように学校に行ったんです。ピカが落ちたのは、学校に着いてすぐじゃった。あの一瞬で、街は変わってしもうた。いいや、消えてしもうたんじゃ。家も人も、何もかも。まるでおもちゃみたいに飛ばされて、焼かれて、溶けた」
「その時、君はどこにおったん?」
「学校の倉庫に。建物疎開の作業に行く日だったんじゃ。うちは先生に言われて、釘抜き取りに。じゃけん、助かったんじゃ。外におった友達は、皆死ぬか、大火傷して。家は殆ど壊れとった。お母さんは見つからなくって、何時間歩いたか、分からんようになっとった。妹の翠が、瓦礫の中で偶然見つかった。うちは翠を背負うて、当てもなく歩いた」
赤トンボを歌いながら、妹を背負って歩く皆実。
【「建物疎開」とは、空襲による火災防止のために建物を取り壊して、「防火地帯」を作ること】
「妹さん、無事じゃったんか?」
「うちの背中で、そのまんま。熱いよう、熱いよう言うて。最後に、お姉ちゃん、長生きしいねって」
「もうええよ、もうやめ」
打越は皆実の肩に手を置くが、皆実は泣きながら話し続ける。
「父は仕事に行っとったまんま、会社の建物ごと潰れて、骨も見つからんかった。母に会えたんは、一週間後。漸(ようよ)う救護所で見つけたんじゃ。顔も分からんくらいに腫れあがっとって、その後、一か月も、目、見えんかった。じゃけん、母は、何にも見とらんのよ。あの日のことも。翠がどんな風に死んでいったかも。何にも。うちが忘れてしもうたら済むことなんかも知れんけど、でも、忘れられんのです。何かを見て綺麗だなあって思ったり、楽しいなあって、思うたんびに、どこからか、声が聞こえてくるような気がするんよ。お前の住む世界は、そっちじゃない言うて。だって、うちらは誰かに死ねばいいと思われた。それなのに、こうして生き延びとる。そうじゃろ。打越さん、うちら一番怖いこと、何か分かる?」
首を横に振る打越。
「死ねばいいと思われるような人間に自分が本当になっとる。それに、自分が気づいてしまうことなんよ。じゃけん、うちは幸せになったら、いけんような気がして。誰かに聞いて欲しかった」
嗚咽しながら、もう、言葉にならなくなった皆実を優しく抱き留める打越。
「生きとってくれて、ありがとな」
「嬉しかった。でも、それきり、力は抜けっぱなしだった」(モノローグ)
風邪を引き、会社を休んでいる皆実の家に、打越が見舞いにやって来た。
打越を見送り、明日は会社に行きたいと言う皆実だったが、翌日もまた休み、同僚がまた見舞いに来た。
皆実は熱が下がらず、咳き込み、髪も抜け始め、もうすぐ要らなくなるからと、父に買ってもらった髪留めを、フジミに渡すのである。
「その夜に真っ黒な血を吐いた」(モノローグ)
皆実は寝込む日が続き、水戸から旭が見舞いにやって来た。
「夏休みだっぺ。だからさ、たまには顔見ろって、母さん…伯母さんがさ」
「もう、何も喉を通らない。ただ、生ぬるい塊だけが、駆け上がっていく。ただの血ではなくて、内臓の破片だと思う」(モノローグ)
皆実は旭と一緒に、家の前の原っぱに出て、座って旭が川に石を投げる姿を見ている。
「お父さんや翠の顔、覚えとる?」
「うん」
「嘘ついて」
「これ、毎日見てっから」
旭は子供の頃の5人家族の写真を取り出して、皆実に見せた。
「あんたが、水戸へ行く前の日に撮った。懐かしいなぁ。家にあったのは、皆焼けてしもうたんよ。この翠の髪、うちが結うてやってんよ…長生きしいねって、言うたんよ。あれは、自分がもっと生きたいっちゅうことじゃったんじゃろうね」
「何で、広島だったんだ。何で、原爆は広島に落ちたんだよ」
「それは違うよ。原爆は落ちたんじゃなくて、落とされたんよ」
皆実は写真を旭に渡す。
「これは旭が持っとき。ほいで、うちら家族のこと、忘れんといてね」
「姉ちゃん」
「離れて暮らしてても、名字が違ごうても、たとえ、もう二度と会えんようになっても、うちらは家族じゃ。それは誰にも変えられん」
そこに、打越がやって来た。
野球好きな二人は、川に石を投げ合って、実況中継の真似事をする。
それを後ろで見ていた皆実は、翠のいる大空にハンカチを掲げると、そのまま倒れ込む。
「ひどいなぁ。てっきり私は、死なずに済んだ人かと思ったのに。なぁ、嬉しい?13年も経ったけど、原爆を落とした人は、私を見て、“やった!また一人殺せた!”って、ちゃんと思うてくれとる?あぁ、風?夕凪が終わったんかね。何度、夕凪が終わっても、このお話は、まだ…」(モノローグ)
「このお話は、終わりません」(石川七波のモノローグ)
【夕凪とは、陸から海に向かって空気が流れる「陸風」のことで、無風の時間になるので「瀬戸の夕凪」と呼ばれる】
以下、「桜の国」へと物語は繋がっていく。
人生論的映画評論・続: 夕凪の街 桜の国(’07) 被曝で壊された〈生〉なるものを拾い集め、鮮度を得て繋いでいく 佐々部清清 より