ドライブ・マイ・カー('21)  切り裂かれた「分別の罠」が雪原に溶かされ、噴き上げていく

1  「前世、彼女はヤツメウナギだったの。川底の石に吸盤みたいなベロをくっつけて、ひたすら、ゆらゆらとする」

 

 

 

「彼女は時々、ヤマガの家に空き巣に入るようになるの」

「ヤマガ?」

「彼女の初恋の相手の名前。同じ高校の同級生。でも、ヤマガは彼女の想いを知らない。彼女も知られたくないから、それで構わない。でも、ヤマガのことは知りたい。自分のことは何も知られずに、彼のことは全部知りたいの」

「それで空き巣に入る」

「そう。ヤマガが授業に出てる時、彼女は体調が悪いと言って早退する。ヤマガは一人っ子で、父親はサラリーマン。母親は学校の先生。家に誰もいないことも、クラスメートに聞いて知ってる」

「どうやって中に入る?普通の女子高生が」

「彼女が当たりをつけてた通り、玄関脇にある植木鉢の下を探る。そこに鍵がある」

「不用心だな」

「それで彼女は、ヤマガの家に忍び込む。2階に上がり、ドアを開ける。ハンガーに掛けられたユニフォームのゼッケンで、そこが間違いなくヤマガの部屋と分かる。17歳の男子らしくない整った部屋で、彼女は親の、特に母親の強いコントロールを感じる。空気を吸い込む。耳を澄ます。沈黙が聞こえる。補聴器を付けたみたいな強調された静けさが、その部屋には響いてる。彼女は、ヤマガのベッドに身を沈める。彼女はオナニーしたい衝動を抑える」

「どうして?テレビドラマの限界?」

「違う。彼女の中にルールがあるから。していいことと、してはいけないことがあるの」

「空き巣はしていいけど、オナニーはしてはいけない」

「そう」

 

俳優で舞台演出家の家福悠介(かふくゆうすけ/以下、家福)と、その妻で、脚本家の音(おと)との夜のベッドでの会話。

 

今度は、赤いサーブを運転しながら、妻との会話の続きをする。

 

「彼女はそれで、ヤマガの部屋に、使用前のタンポンを置いていく」

「タンポン?」

「君が言ったんだ」

「変な話」

「いつもに輪を掛けて。テレビドラマになる?これ…それで彼女は、自分のカバンから、使用前のタンポンを取り出して、彼の学習机の引き出しに入れる。彼の過保護の母親が気づいたら…そう考えると、彼女の胸は高鳴る」

「変態だ」

「タンポンは、彼女自身が、そこにいたという印(しるし)なんだ。彼女は、度々学校を早退しては空き巣を続ける。彼女も危険は承知している。彼女は親や教師からの信頼も厚いタイプの女の子だったから、バレたら失うものも多い」

「それでも止められない」

「止められない。部屋に入ると、わずかな匂いを求めて隅々まで嗅ぎ回る。帰り際にはいつも、ヤマガの印を持ち帰る…彼女も引き換えに彼女の印を置いていく。最もエスカレートした時、彼女は自分の履いていた下着を彼の衣装ダンスの一番奥に入れた。印の交換によって、二人が、だんだん交じり合う。そんな気がする。彼女は、そのことが彼に、母親の支配から抜け出す力に与える気がしている。今日の話は、ここまで」

「そっか。続き、気になる?」

「うん、気になる」

「待とうか、書こうか、どうするかな?」

「まだ、待ってもいいんじゃない?」

「そうだね。私も続きが知りたい」

本当に知らないの?

「いつも、そうじゃない」

「いや、今回ばかりはもしかして、君の初恋の話なのかと思って」

「なワケないでしょ」

 

その夜、家福の出演する演劇『ゴトーを待ちながら』を、音も観に来て、「よかった」と褒め、一人の俳優を紹介する。

 

「初めまして。高槻と言います」

 

家福が演出する「多言語演劇」に感動したという高槻(たかつき)は、音のドラマに度々出演している。

 

【『ゴトーを待ちながら』は、劇作家サミュエル・ベケットによる不条理演劇の代表作で、「ゴドーとは何者か」を観客に問いかけていく。演劇界に大きな影響を与えた革命劇】

 

【日本語以外に27言語の専攻語がある東京外国語大の外語祭実行委員会によると、「多言語演劇」は主に3、4年生の有志によるもので、2019年には「多言語有志語劇」「アジア有志語劇」の2団体が上演した。こうした取り組みは、既に何年も前からやっているが、そのルーツの詳細は不明。複雑化する現実の中で、多言語による演劇も各地で試みられている】

 

家福は、ウラジオストックでの仕事で、朝早く成田空港へ向かう車の中で、『ワーニャ伯父さん』役の家福が、音が録音した相手役の本読みのテープを流し、それに合わせてセリフのレッスンをする。

 

空港に着き、車を降りると、演劇祭の事務局から、寒波でフライトがキャンセルされたという知らせを受ける。

 

家福は、すぐに自宅に引き返すが、そこで、鏡に映る妻の浮気現場を目撃し、気づかれないように家を出た。

 

再び成田に戻って、ホテルに泊まり、音からのスカイプのビデオ通話で、ウラジオストックに居ることを装うのだ。

 

一週間後、車の運転で接触事故を起こし、精密検査の結果、医者から左目の緑内障を指摘される。

 

放って置くと失明するが、進行を遅らせる点眼薬の使用を条件に、愛車の運転は許可された。

 

音は家福の手を握る。

 

二人は亡くなった娘の供養を終え、音の運転する車で帰路に就く。

 

「本当は子供、欲しかった?もう一度」

「分かんないな。誰も、あの子の代わりにはなれないわけだし」

「でも、同じくらい愛せたかも」

「君が望まないものを、僕だけ望んでも仕方がないよ」

「ゴメンね」

「君のせいじゃない。僕も君とそれを選んだんだ。だから、いいんだよ」

「うん。私ね、あなたのことが本当に大好きなの」

「ありがとう」

「あたし、あなたで本当に良かった」

 

その夜も二人は結ばれ、再び、空き巣の女子高生の話が始まる。

 

「ある日、彼女は前世のことを思い出すの。前世、彼女はヤツメウナギだったの…他のヤツメウナギみたいに、上を通りかかる魚に寄生したりしない。川底の石に吸盤みたいなベロをくっつけて、ひたすら、ゆらゆらとする。痩せ細って、やがて本当の海藻のようになるまで、彼女は石にへばり続けた。どうやって死んだのかも覚えてない。餓死したのか、他の魚のエサになったのか。ただ、ゆらゆらと揺れていたことだけ覚えてる。ヤマガの部屋で、彼女は唐突に理解する。ここは、あの頃のまんまだ。石にへばりついていたみたいに、ヤマガの部屋から離れられない。そうだ、この部屋の沈黙は水の中とよく似ている。時間が止まる。過去と現在がなくなってしまう。彼女はヤマガのベッドの上でオナニーを始めた。服を一枚一枚、全部脱ぎ捨てる。ずっと禁じてきたのに止められない。涙が出てきた。枕が濡れる。彼女はその涙が、今日の自分の印だと思う。その時、誰かが帰って来た。一階でドアが開く。気がつくと、窓の外は暗くなり始めていた。ヤマガか、父親か、母親か、その誰かが、階段を上がって来る音がする。終わりだ。でも、これでようやく止められる。ようやく終わる。前世から続く因果の輪から抜け出す。彼女は新しい彼女になる。ドアが開く!」

 

翌朝、家福はネットでヤツメウナギを調べている。

 

「昨日の話、覚えてる?」

「ごめん。昨日のは、よく覚えてない。僕も殆ど眠ってたから」

「そっか…忘れちゃうのは、その程度のもんだから」

 

嘘をついた家福は、ワークショップの講師に出かけようとすると、音は「聞いていない」と言う。

 

「今晩、帰ったら少し話せる?」

「勿論、なんで、わざわざそんなこと聞くの?」

「いってらっしゃい」

「行ってきます」

 

夜の街をしばらく運転してから家に帰ると、音がソファに倒れていた。

 

クモ膜下出血による急死だった。

 

葬儀には、高槻も参列した。

 

舞台で、ワーニャ伯父さんを演じる家福。

 

「それは、あの女の貞淑さが、徹頭徹尾、まやかしだからさ」

 

家福が舞台から下がると、ワーニャを呼ぶ男のセリフ。

 

「いや、言わせてもらう。私は妻に逃げられた。別の男と、結婚式の翌日に。私が平凡だから」

 

舞台の袖で、それを聞く家福は、セリフとリアルな〈状況性〉との受け入れがたい現実が交錯して、頭を抱え込むのだ。

 

  

人生論的映画評論・続: ドライブ・マイ・カー('21)  切り裂かれた「分別の罠」が雪原に溶かされ、噴き上げていく  濱口竜介 より