1 「なんもないところに、何かがポツンてある感じがしっくり来てる」
千瑛と署名の入った椿を描いた水墨画を見入り、涙を流す大学生の青山霜介(そうすけ、以下霜介)。
神社での水墨画の展示会の設営のバイトに来ていた霜介は、西濱湖峰(にしはまこほう、以下湖峰)に促され弁当を食べに行くと手を汚してしまい、初老の男性にハンカチを渡された。
それが、著名な水墨画家、篠田湖山(こざん、以下湖山)であることを、湖山が揮毫会(きごうかい)の舞台に上がり、紹介され初めて判った。
見事な筆さばきに惹きつけられた霜介は、思わず立ち上がって目を輝かせる。
作品を描き終え、万雷の拍手を浴びる舞台上の湖山が、霜介に「私の弟子になってみない?」と、大学の友人の古前(こまえ)と川岸や大勢の観客の前で声をかける。
「想像さえしてなかった。真っ白な紙にある、無限の可能性を。そこに一本の線が描かれるまでは」(霜介のモノローグ)
後日、湖山の弟子である湖峰の運転で、借りたハンカチを届けに湖山宅を訪れた。
弟子の件を丁重に断る霜介だったが、墨絵教室の生徒としてならと湖山に言われ、早速、水墨画『春蘭』の手ほどきを受けた。
【『春蘭』とは、竹・梅・菊・蘭という「四君子」(しくんし)の一つであり、水墨画の基礎として描かれてきた春に咲く蘭のこと】
湖山は昼寝し、庭の掃除をしていた湖峰が霜介の様子を見に行くと、楽しそうに筆を動かしている。
硯や小皿を片付けるため廊下を歩いて迷っていると、一室で一人の若い女性が薔薇の水墨画を描いていた。
「千瑛」と署名するその女性が、画(み)に見惚(みと)れている霜介に気づき、霜介が自己紹介すると既に知っているようだった。
そこに湖山がやって来て、改めて霜介を千瑛に紹介し、「画材道具を見繕(みつくろ)ってやってくれ」と頼んで去って行く。
大学で古前と川岸に、その女性の話をすると、“美しすぎる絵師”と注目されている湖山の孫の篠田千瑛(ちあき)であると川岸に教えてもらう。
「伝統をモダンアートに昇華させた天才」と紹介されているスマホ記事の画像を示す。
「気に入ったんだ。水墨画?」と川岸に聞かれた霜介は、「なんもないところに、何かがポツンてある感じがしっくり来てる」と答えた。
湖山に墨のすり方を教わるが、湖山は寝入ってしまい、代わりに千瑛から手ほどきを受ける。
「先生はね。“弟子をとる”とか豪語しといて、人に教えることが絶望的にできない人なの。私だってまともに教えてもらったことないし」
千瑛は話ながら筆を墨と水に馴染ませ、「三墨法」(さんぼくほう/濃中淡という三つの墨の色のグラデーションを表現する技法)を教える。
「筆の中に濃さの違う3層の墨を作る…竹の幹になる。水墨は筆の中にどんな色を作るか、それをいかにコントロールするかが勝負なの」
2人は湖峰に呼ばれ、湖峰が作った食事を共にし、そこで霜介は千瑛に会いたいと願う川岸と古前の依頼を伝える。
「うちの大学で水墨画の講義をしていただけませんか?」
乗り気でない千瑛に、湖山が「いい話だ」と口を挟み、結局、引き受けることになった千瑛の訪問を、古前らは熱烈に歓迎する。
大勢の学生が教室に集まり、竹を描きながらの千瑛の講義が始まった。
「水墨画には、基本となる4つの画題があります。蘭、梅、菊、そして竹。それらの描き方には、それぞれ水墨の基礎となる技術が用いられているからです。水墨画の世界では、それらを合わせて“四君子(しくんし)”と言います」
早速、学生たちも竹の水墨画を描いてみる。
懇親会の席で千英が霜介に語りかける。
「青山君は、不思議な線を描くよね。なんか、子供みたいな目をして楽しそうに描くのに、どっかなんか、線に憂いがあって、今まで見たことない感じ。先生が目を付けたのも、ちょっと分かる気がする」
飲めない霜介が間違って千瑛のウーロンハイを飲んで潰れて、古前らが霜介をアパートに送ると、部屋中に『春蘭』の画が散乱していた。
タクシーで千瑛を家に送り、別れ際に古前が千瑛に声をかける。
「先生、霜介のこと、お願いします。あいつが何かにやる気を見せたの、ほんと久しぶりで。家族に不幸があってから、ずっと塞いだままだったから…先生、宜しくお願いします」
霜介は湖山宅でもアパートでも水墨画の修行を続け、次の画題の『梅』を描き上げた。
そんな中、千瑛は今、行き詰っているという話を湖峰から聞かされる。
「しばらく自分の作品を描けていないというか、何を描いていいのか分かんないって感じかな。湖山先生にご指導いただきたいのに、思うようにもらえてないから焦ってんだな。千瑛ちゃん、今年こそ四季賞狙ってるから」
「シキショウ?」
「…絵師なら誰もが志す水墨画界における最高の栄誉だよ」
霜介もやるからには目標にするといいと言うのだ。
「水墨画の良し悪しは、技術や才能だけでは語れないもんがあるからね」
霜介の練習画を見て湖山が批評する。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「でも、これは君の線じゃない。私や千瑛をお手本にとても忠実だ」
「それは良くないことなんですか?」
「悪くはない」
四君子の次の画題の『菊』には手本を出さないと言われるや、湖山が主催する秋の作品展への出展を促され、落款印(らっかんいん/絵画などに押す印鑑)を渡されるのだ。
「青山君、形にこだわっちゃいけないよ。もっと力を抜いて…」
湖山会の作品展に出品した霜介の作品を観ていた女性に近づくと酷評され、がっくりと肩を落とす霜介。
「…けど、何か、とても優しい」
霜介は、「目に留めて頂いただけでも嬉しい」と反応し、四季賞を目指しているかと聞かれ頷いた。
「そう。だったらもっと命懸けて描かないとね。この菊は、生きてない」
最後は辛辣だった。
この女性は、「昔は東の湖山、西の翠山(すいざん)」と言われるほどの絵師で、現在は四季賞の審査員長を務める藤堂翠山であると、湖峰に教えてもらう。
昨年、この翠山に千瑛は酷評され、それから焦り始めたと言う。
レセプションパーティーにフランスの大臣がやって来て、湖山の揮毫会が始まるというところで、肝心の湖山が行方不明になり、美術館の主催者側は慌てる。
代わりに千瑛に白羽の矢が立って了承を得るが、翠山がやって来て阻止する。
「やめておきなさい。中途半端な水墨画をお見せするべきじゃない。大臣にいらぬ誤解を与えるだけ」
「今は緊急事態なので」と言うスタッフの申し出を抑えつける翠山。
「本当の優れた水墨画は、命さえ描き切るものです。それほどの力のある絵師は、この場にはいない」
中止しかないとなったが、そこで霜介が発言する。
「千瑛さんなら、大丈夫だと思います。水墨画とか、命とか、僕にはまだ分かりませんが、でも、僕は感じたことあります。千瑛さんの絵から。とにかく、千瑛さんなら先生の期待に応えられる…」
「青山君!もういいから」
千瑛が遮って皆が下を向いたその時、中庭からどよめきが起こる。
湖峰が揮毫会の舞台で腕を組んで仁王立ちし、白紙のパネルを見つめていたのだ。
霜介が呼ばれ、大筆(おおふで)と墨を持って行くと、湖峰は楽しそうに筆を運び、迫力ある波間の龍の画を描き上げた。
霜介は圧倒され、大臣は大いに満足し、会場から万雷の拍手が沸き起こるのである。