百花('22)  複層的に覆う負の記憶が解けていく

1  「息子がね。また迷子になってしまったんですよ」

 

 

 

自宅の団地でピアノ教室を開く葛西百合子(以下、百合子)が、シューマンピアノ曲子供の情景 7番 トロイメライ」を弾いている。

 

玄関の音がしたので立ち上がると、百合子が一輪の花を持ってキッチンに入って来た。

 

再び「トロイメライ」が聴こえてきて、部屋を覗くと百合子がピアノを弾いているが、途中でメロディが乱れる。

 

百合子が見える世界の再現である。

 

晦日の夜、音楽ディレクターをしている息子の葛西泉(以下、泉)が百合子を訪ねて来たが、真っ暗な部屋に百合子の姿がない。

 

泉は慌てて外に出て、夜の町を走って探し回り、公園のブランコに座っている百合子を発見する。

 

「半分の花火が見たいの」と呟いている百合子に、「母さん」と声をかけると、立ち上がって、「寂しかったわ」と泉の胸にもたれかかってきた。

 

思わず「やめてよ」と言って、泉は百合子を突き放し、我に返った母は、買い物に行こうと思ったと弁明し、家に戻って年越しの食事を支度する。

 

新年の挨拶を交わし、ソファの隣に座った百合子は、「今日、泊っていくんでしょ?」と甘えるように泉の腕を掴むので、ちょうど妻・香織(かおり)からの電話を取り、仕事のトラブルだと嘘をつき、泉は早々に帰って行った。

 

香織の妊娠検査に付きそう泉は、百合子から電話があったことを聞かされる。

 

その際に「半分の花火」の話をしたと言うが、泉はその言葉に覚えがなかった。

 

泉と香織が勤めるレコード会社に共に出勤し、バーチャル・シンガーKOEのプロジェクトに出席する。

 

「KOEは記憶のアーティストです。楽曲・歌声・容姿…1000人以上のアーティストから学習させています。加えて感情を育てるために、様々な記憶をデータ化し、KOEにも体験させています。ディープラーニング機械学習の発展形)によって人工的に外見を作る際に…人類の記憶の中にある理想のアーティストを目指して調整を重ねている段階です」(チームの田名部のアナウンス)

 

その頃、スーパーで買い物をしている百合子が、楽しそうに走り回る二人の少女に、「走ると危ないよ」と声をかけ、再び買い物を続け陳列棚を一回りすると、また少女たちが走るので声をかけるという動作を繰り返す。

 

通路の先に一人の男性が立っているのを見つけた百合子は、「浅葉さん!」と呼びかけながら出口に向かう男を追いかけ、買い物かごを持ったまま店の外に出たところで店員に捕捉されてしまった。

 

仕事中の泉に電話が入り、万引きで警察沙汰となった百合子を引き取りに行く。

 

そこで泉が香織の妊娠を報告すると、手を叩いて喜ぶ百合子。

 

病院でMRIを撮り、医師から進行性のアルツハイマーと診断され、薬で進行を遅らせることはできるが効果は限定的との説明を受け、泉はショックを受ける。

 

泉は、百合子と楽しく過ごした少年時代を思い出していた。

 

「これからが大変だと思います。お母さんをしっかり支えてあげてください。認知症になったからと言って、何もかもを忘れたり、分からなくなったりするわけじゃありません…敬意と愛情を持って接してあげてください」

 

百合子は傘を持って雨に打たれながら泉を探し、団地の階段を何度上がっても同じ2階のドアに突き当たり、その部屋に上がって通路を進むと、泉が「走れメロス」を音読している教室に入っていく。

 

豪雨の中、ヘルパーが目を離した隙に、百合子がいなくなり、泉は「お母さん!」と呼びながら必死に母を探す小学生の自分と重ねながら、走り回るのだ。

 

警察に保護された百合子は、泉の顔を見ると、「どこに行ってたの?ずっと探していたのよ。でもよかった。やっと見つけた…」と言って、満面の笑みを浮かべる。

 

「息子がね。また迷子になってしまったんですよ。もう暗くなるし、雨も降ってくるし。泉はね、傘を持ってなかったんですよ。どこかで凍えてるんじゃないかって心配で…」

 

夏になり、産休に入った香織と共に百合子を訪ねる。

 

道すがら、香織は百合子との同居を提案する。

 

「でも、もう決めたから」

「泉と一緒にいたいんじゃないかな」

 

まもなく、百合子を海辺の介護施設に入所させることになった。

 

百合子は気に入った様子だったが、帰り際、バスに乗ろうとする泉の手を引っ張り、「お花、買ってきてね」と手を握る。

 

泉はその手を振り切り、バスの後部座席に座ると、母を振り返ることもなかった。

 

実家に戻り、テーブルや冷蔵庫のゴミの片づけをする泉。

 

小学生の時、母に置き去りにされ、満足に食事も摂れず、祖母に電話をかけた過去の記憶が蘇る。

 

百合子の部屋のベッドの傍らに認知症の本が置かれ、複数のメモ用紙が挟まれていた。

 

食材や自分の名前、ヘルパーさんの名前や来る時間など、忘れないように書き留めていた百合子の、認知症の進行に抗う努力を目の当たりにして涙する泉。

 

ベッドの下から手帳が見つかり手に取ると、思わず嘔吐する泉。

 

若い頃の百合子が、神戸の阪神電鉄のすぐ横に走るアパートで、浅葉(あさば)と同棲生活を始めた。

 

母の手帳には、その時の様子が書かれていたのである。

 

浅葉は百合子のピアノの生徒で、家族を残して神戸の大学に教授として単身赴任する際に、百合子を誘ったのだった。

 

神戸の街で、同級生の恵(めぐみ)に遭遇した。

 

小さな姉妹が走り回り、百合子は「走ると危ないよ!」と声をかける。

 

浅葉は1月1日の百合子の誕生日にプレゼントを忘れなかったが、仕事で帰れないこともあり、百合子は「寂しかった」と身を寄せる。

 

それは、認知症になって無意図的に想起されるエピソード記憶だった。

 

【記憶には意味記憶エピソード記憶、手続き記憶という 3種類の長期記憶がある】

 

浅葉が不在の夜明け、阪神大震災の激しい揺れに襲われた百合子は、ベッドから起き上がって浅葉の名を呼び、倒壊した街を彷徨う。

 

走り出して海に出た百合子は、朝陽を浴びながら、「泉」の名を呟く。

 

浜辺で、小学生の泉と海を見る情景が浮かんだ。

 

いつしか、「泉!泉!」と海に向かって絶叫するのだった。

 

  

人生論的映画評論・続: 百花('22)  複層的に覆う負の記憶が解けていく 川村元気   より