ヨーロッパの大地の多くを前線と化して荒れ狂った、「共通の敵」(ナチス・ドイツ)が消えたことによって、そこに残された、イデオロギー濃度の深い二つの組織の対立はより尖鋭化し、テロリズムと粛清という極めて厄介な連鎖を矢継ぎ早に分娩していく。
その形態は違えども、いつの時代でも、どこの国でも出来する事態がうねりを上げる渦中で集中的に暴れ捲ってしまうとき、その〈状況〉の只中に置かれた者たちの振舞いがイデオロギーの深い濃度によって補完されていればいるほど、〈状況〉に張り付く〈残酷〉の様相は、相互に喰らいつく鋭角的な関係の中でいよいよ鈍磨していくだろう。
明瞭な指針を構築し得ない〈状況〉に捕捉される、当該自我の抑性機構を鈍磨させてしまうからだ。
ところが、そこに胚胎された〈生〉の肯定に繋がる極めて人間的な感情が、しばしば〈状況〉に張り付く〈残酷〉を異化するような氾濫の内に揺動し、〈状況〉の鋭角的な尖りからの解放を希求する何かが顕在化したとき、その主体自我は、もう自分の内側に「もう一つの対立関係」を作り出してしまうのである。
〈状況〉の鋭角的な尖りが暴れ捲った時間が作り出した自我と、〈状況〉の鋭角的な尖りからの解放を希求する何かが顕在化するときに噴き上がってきた、鮮度の高い自我との、未知のゾーンにおける葛藤心理がそれである。
本作の主人公のマチェクが、その葛藤心理の様態に困惑し、震え、慄いたのもまた、以上の文脈で把握できるものであろう。
「恋とはどんなものか、今まで知らないで来た」
マチェクは、逆さ吊りのキリスト像の前で、「うたかたの恋」に酔うことを感受させた女の前で、そう語った。
そんな若者が、自分が抹殺しなければならない対象人格が放つ人間的感情を吸収してしまえばしまうほど、本来クリアしていなければならない煩悶の時間が、〈状況〉の鋭角的な尖りを相対化する隙間を広げてしまうのだ。
ここに、本作の中で看過し難い重要な会話がある。
マチェクと、ホテルのバーの女給であるクリスチナとの短い会話である。
「なぜ、いつも黒眼鏡をかけているの?」
夜間でもサングラスを外さないマチェクに、クリスチナが尋ねた。
それに対するマチェクの反応には含意があり、無視できないものだった。
「祖国に対する、報われない愛の記念さ。本当のことを言うと、蜂起の時に下水道の中の散歩が長過ぎてね」
「蜂起」とは、「ワルシャワ蜂起」のこと。
彼は、「ワルシャワ蜂起」に関わっていたのだ。
そこで、ソ連の裏切りと、ドイツ軍の圧倒的な火力の前で壊滅を余儀なくされ、ドイツ軍の降伏後も、ソ連軍の進駐によってレジスタンス幹部の逮捕が続くが、或いはそれ以前から、ポーランド国内軍の一部であるレジスタンスの生き残りは地下水道に逃げ込むことで、絶望的な反独レジスタンス活動を継続していたのである。
ドイツ軍の降伏後、要人テロの対象はソ連の傀儡組織であり、ここでは、ポーランド労働者党県委員会書記のステファン・シチューカであった。
そして、ソ連の裏切りによって孤立した、ポーランド国内軍の一部が地下水道に逃げ込んで命を繋いだ者たちは、「反ソ・反スターリニズム」のロンドン亡命派のレジスタンスだったということ。
マチェクは、そんなレジスタンスの生き残りの一人だったということだ。
この把握なしに、本作の本質的理解は困難だろう。
若干32歳のアンジェイ・ワイダ監督は、このマチェクという人物造形の内に、存分のレクイエムの思いを込めて、「ポーランドの悲劇」の本質を象徴化したのである。
これは、シチューカ暗殺のシーンを見れば瞭然とするだろう。
テロリストに落ち着きがないのだ。
それは明らかに、ファーストシーンの確信犯的な振舞いと切れていた。
彼は既に、この4日間の間に、確信犯的テロリストを継続することが困難なアポリアに捕捉されてしまったのである。
一言で言えば、確信犯的テロリストは生命の重量感を感受してしまったのだ。
まず、自分が射殺した相手が誤殺だったこと。
そして、誤殺された労働者を悲しむ女の声を、ホテルの部屋で拾ってしまったこと。
更に、本来、テロの対象人格であるシチューカと偶然出会い、その温厚な人柄に接してしまったこと。
そして何より、生涯で初めての恋をしてしまったこと。
加えて、その恋の相手との散歩の中で、自分が誤殺した遺体を視認してしまったことである。
正直、ここまで書いてきて、偶然性にどっぷり依拠する物語の設定に対して、食傷気味の気分になってしまったのも偽らざるを得ない事実。
あまりに安直なプロット構成であると言わざるを得ないのだ。
気を取り直して、話を戻そう。
シチューカ暗殺を遂行するには、このテロリストには様々な障壁があった。
そのことを書きたかっただけである。
それでも彼は、それを遂行した。
遂行せざるを得ないのだ。
なぜなら、その〈状況〉から逃避することはレジスタンスを裏切ることであり、彼に命令を下した上官を窮地に追い遣ることでもあった。
彼の上官のアンジェイは、「少佐」なる人物の指令を受け、要人テロを繰り返していたが、〈見えない残酷〉という視界不良の隠れ蓑に潜る、上部権力の連中との距離感をも印象付ける描写は、本作において「ポーランドの悲劇」を象徴するものをも浮き上がらせるだろう。
ともあれ、そんな葛藤を経て、マチェクはシチューカを射殺した。
その際シチューカは、テロリストであるマチェクに抱きつくように倒れかかった。
それを受け止めるマチェク。
息子を探し求めるシチューカの無念と、そのシチューカを暗殺することから逃げられないテロリストの苦悩。
ソ連の傀儡と言えども、彼なりに理想の具現を夢見る男と、地下水道に逃げ込むことで「ワルシャワ蜂起」の悪夢から生き延びてきた挙句、今まさに、男を殺害する宿命を負う若きテロリスト。
その二人が、〈生〉と〈死〉を分ける禁断のラインを挟んで、一瞬交叉し、抱き合う格好を表現したのだ。
「ポーランドの悲劇」を最も端的に表現した描写である。
その瞬間、夜空を花火が眩く彩った。
ソ連傀儡政権の誕生を予知する新生ポーランドの祝砲に立ち竦んで、思わずシチューカを突き放して逃走するテロリスト。
保安隊の銃弾に深傷を負ったテロリストを待っていたのは、逃走の果てに辿り着いた、ゴミ溜め場の中の塵芥の山。
悶絶の呻きを上げ、虫けらのような最期を遂げる無念の死。
一人の無名の若者の総体を呑み込む塵芥の山だけが、もう商品価値を持たない「灰」の内に吸収され、同化していくのだ。
この一連のシークエンスに象徴される「ポーランドの悲劇」こそ、検閲当局のの節穴の間抜けさを潜って、アンジェイ・ワイダ監督が最も訴えたかったものだろう。
因みに、「灰とダイヤモンド」とは、クリスチナが見つけた碑文の中の言葉に由来する。
彼女がたどたどしく読み、その続きをマチェクが暗唱した韻文は、ポーランドの詩人ノルヴィトの詩の一節であると言う。
以下、「ポーランド映画傑作選 『灰とダイヤモンド』」(ビデオ・朝日新聞社発行)の字幕から紹介する。
松明のごと
なれの身より
火花の飛び散るとき、なれ知らずや
我が身を焦がしつつ
自由の身となれるを
持てるものは失われるべき定めにあるを
残るはただ灰と嵐の深淵の落ちゆく
混迷のみなるを
永遠の勝利の暁に
灰の底深く
燦然たるダイヤモンドの残らんことを
この韻文が含意するイメージは、「我が身を焦がしつつ、自由」を求めた闘いの果てに、たとえ塵芥の山に吸収され、その「灰の深淵」の「混迷」の内に同化していったとしても、「灰の底深く」に「燦然たるダイヤモンド」が残るだろう、という作り手の希望のメッセージが拾われていると思われる。
このとき、マチェクにとって「灰の底深く」に、何より残したい「燦然たるダイヤモンド」とは、〈生〉の肯定に大きく振れる決定的役割を担ったクリスチナ自身であった。
「きれいな詩ね」
「君がダイヤモンドさ」
この短い会話が、「恋とはどんなものか、今まで知らないで来た」と吐露したテロリストの、危うい自我を薄皮一枚で支え切る心の在り処を端的に語っているだろう。
そんなエピソードに集約されているものを想起するとき、30代の若さで演出した作り手の主題提起の熱い思いが結晶したが故に、本作が時代を疾駆する推進力を担った映像だったことを、今更ながら再認識する次第である。
最後に一言。
今、丁寧に観直して見ると、前述したように、プロット構成の安直さばかりでなく、演出も演技もカット繋ぎも随所にぎこちなさが目立っていて、映像にしっくり入れない面もあったが、だからと言って、本作を「賞味期限」の切れた「時代限定」の映像として括るには、映像のテーマが内包する普遍性を無視できないだろう。
イデオロギーや信仰の正当性を求めて荒れ狂う時代状況が分娩した、「カオスの森」の冥闇(めいあん)は、いよいよ迷妄の濃度を深めるばかりなのだから。
そう思った。
その形態は違えども、いつの時代でも、どこの国でも出来する事態がうねりを上げる渦中で集中的に暴れ捲ってしまうとき、その〈状況〉の只中に置かれた者たちの振舞いがイデオロギーの深い濃度によって補完されていればいるほど、〈状況〉に張り付く〈残酷〉の様相は、相互に喰らいつく鋭角的な関係の中でいよいよ鈍磨していくだろう。
明瞭な指針を構築し得ない〈状況〉に捕捉される、当該自我の抑性機構を鈍磨させてしまうからだ。
ところが、そこに胚胎された〈生〉の肯定に繋がる極めて人間的な感情が、しばしば〈状況〉に張り付く〈残酷〉を異化するような氾濫の内に揺動し、〈状況〉の鋭角的な尖りからの解放を希求する何かが顕在化したとき、その主体自我は、もう自分の内側に「もう一つの対立関係」を作り出してしまうのである。
〈状況〉の鋭角的な尖りが暴れ捲った時間が作り出した自我と、〈状況〉の鋭角的な尖りからの解放を希求する何かが顕在化するときに噴き上がってきた、鮮度の高い自我との、未知のゾーンにおける葛藤心理がそれである。
本作の主人公のマチェクが、その葛藤心理の様態に困惑し、震え、慄いたのもまた、以上の文脈で把握できるものであろう。
「恋とはどんなものか、今まで知らないで来た」
マチェクは、逆さ吊りのキリスト像の前で、「うたかたの恋」に酔うことを感受させた女の前で、そう語った。
そんな若者が、自分が抹殺しなければならない対象人格が放つ人間的感情を吸収してしまえばしまうほど、本来クリアしていなければならない煩悶の時間が、〈状況〉の鋭角的な尖りを相対化する隙間を広げてしまうのだ。
ここに、本作の中で看過し難い重要な会話がある。
マチェクと、ホテルのバーの女給であるクリスチナとの短い会話である。
「なぜ、いつも黒眼鏡をかけているの?」
夜間でもサングラスを外さないマチェクに、クリスチナが尋ねた。
それに対するマチェクの反応には含意があり、無視できないものだった。
「祖国に対する、報われない愛の記念さ。本当のことを言うと、蜂起の時に下水道の中の散歩が長過ぎてね」
「蜂起」とは、「ワルシャワ蜂起」のこと。
彼は、「ワルシャワ蜂起」に関わっていたのだ。
そこで、ソ連の裏切りと、ドイツ軍の圧倒的な火力の前で壊滅を余儀なくされ、ドイツ軍の降伏後も、ソ連軍の進駐によってレジスタンス幹部の逮捕が続くが、或いはそれ以前から、ポーランド国内軍の一部であるレジスタンスの生き残りは地下水道に逃げ込むことで、絶望的な反独レジスタンス活動を継続していたのである。
ドイツ軍の降伏後、要人テロの対象はソ連の傀儡組織であり、ここでは、ポーランド労働者党県委員会書記のステファン・シチューカであった。
そして、ソ連の裏切りによって孤立した、ポーランド国内軍の一部が地下水道に逃げ込んで命を繋いだ者たちは、「反ソ・反スターリニズム」のロンドン亡命派のレジスタンスだったということ。
マチェクは、そんなレジスタンスの生き残りの一人だったということだ。
この把握なしに、本作の本質的理解は困難だろう。
若干32歳のアンジェイ・ワイダ監督は、このマチェクという人物造形の内に、存分のレクイエムの思いを込めて、「ポーランドの悲劇」の本質を象徴化したのである。
これは、シチューカ暗殺のシーンを見れば瞭然とするだろう。
テロリストに落ち着きがないのだ。
それは明らかに、ファーストシーンの確信犯的な振舞いと切れていた。
彼は既に、この4日間の間に、確信犯的テロリストを継続することが困難なアポリアに捕捉されてしまったのである。
一言で言えば、確信犯的テロリストは生命の重量感を感受してしまったのだ。
まず、自分が射殺した相手が誤殺だったこと。
そして、誤殺された労働者を悲しむ女の声を、ホテルの部屋で拾ってしまったこと。
更に、本来、テロの対象人格であるシチューカと偶然出会い、その温厚な人柄に接してしまったこと。
そして何より、生涯で初めての恋をしてしまったこと。
加えて、その恋の相手との散歩の中で、自分が誤殺した遺体を視認してしまったことである。
正直、ここまで書いてきて、偶然性にどっぷり依拠する物語の設定に対して、食傷気味の気分になってしまったのも偽らざるを得ない事実。
あまりに安直なプロット構成であると言わざるを得ないのだ。
気を取り直して、話を戻そう。
シチューカ暗殺を遂行するには、このテロリストには様々な障壁があった。
そのことを書きたかっただけである。
それでも彼は、それを遂行した。
遂行せざるを得ないのだ。
なぜなら、その〈状況〉から逃避することはレジスタンスを裏切ることであり、彼に命令を下した上官を窮地に追い遣ることでもあった。
彼の上官のアンジェイは、「少佐」なる人物の指令を受け、要人テロを繰り返していたが、〈見えない残酷〉という視界不良の隠れ蓑に潜る、上部権力の連中との距離感をも印象付ける描写は、本作において「ポーランドの悲劇」を象徴するものをも浮き上がらせるだろう。
ともあれ、そんな葛藤を経て、マチェクはシチューカを射殺した。
その際シチューカは、テロリストであるマチェクに抱きつくように倒れかかった。
それを受け止めるマチェク。
息子を探し求めるシチューカの無念と、そのシチューカを暗殺することから逃げられないテロリストの苦悩。
ソ連の傀儡と言えども、彼なりに理想の具現を夢見る男と、地下水道に逃げ込むことで「ワルシャワ蜂起」の悪夢から生き延びてきた挙句、今まさに、男を殺害する宿命を負う若きテロリスト。
その二人が、〈生〉と〈死〉を分ける禁断のラインを挟んで、一瞬交叉し、抱き合う格好を表現したのだ。
「ポーランドの悲劇」を最も端的に表現した描写である。
その瞬間、夜空を花火が眩く彩った。
ソ連傀儡政権の誕生を予知する新生ポーランドの祝砲に立ち竦んで、思わずシチューカを突き放して逃走するテロリスト。
保安隊の銃弾に深傷を負ったテロリストを待っていたのは、逃走の果てに辿り着いた、ゴミ溜め場の中の塵芥の山。
悶絶の呻きを上げ、虫けらのような最期を遂げる無念の死。
一人の無名の若者の総体を呑み込む塵芥の山だけが、もう商品価値を持たない「灰」の内に吸収され、同化していくのだ。
この一連のシークエンスに象徴される「ポーランドの悲劇」こそ、検閲当局のの節穴の間抜けさを潜って、アンジェイ・ワイダ監督が最も訴えたかったものだろう。
因みに、「灰とダイヤモンド」とは、クリスチナが見つけた碑文の中の言葉に由来する。
彼女がたどたどしく読み、その続きをマチェクが暗唱した韻文は、ポーランドの詩人ノルヴィトの詩の一節であると言う。
以下、「ポーランド映画傑作選 『灰とダイヤモンド』」(ビデオ・朝日新聞社発行)の字幕から紹介する。
松明のごと
なれの身より
火花の飛び散るとき、なれ知らずや
我が身を焦がしつつ
自由の身となれるを
持てるものは失われるべき定めにあるを
残るはただ灰と嵐の深淵の落ちゆく
混迷のみなるを
永遠の勝利の暁に
灰の底深く
燦然たるダイヤモンドの残らんことを
この韻文が含意するイメージは、「我が身を焦がしつつ、自由」を求めた闘いの果てに、たとえ塵芥の山に吸収され、その「灰の深淵」の「混迷」の内に同化していったとしても、「灰の底深く」に「燦然たるダイヤモンド」が残るだろう、という作り手の希望のメッセージが拾われていると思われる。
このとき、マチェクにとって「灰の底深く」に、何より残したい「燦然たるダイヤモンド」とは、〈生〉の肯定に大きく振れる決定的役割を担ったクリスチナ自身であった。
「きれいな詩ね」
「君がダイヤモンドさ」
この短い会話が、「恋とはどんなものか、今まで知らないで来た」と吐露したテロリストの、危うい自我を薄皮一枚で支え切る心の在り処を端的に語っているだろう。
そんなエピソードに集約されているものを想起するとき、30代の若さで演出した作り手の主題提起の熱い思いが結晶したが故に、本作が時代を疾駆する推進力を担った映像だったことを、今更ながら再認識する次第である。
最後に一言。
今、丁寧に観直して見ると、前述したように、プロット構成の安直さばかりでなく、演出も演技もカット繋ぎも随所にぎこちなさが目立っていて、映像にしっくり入れない面もあったが、だからと言って、本作を「賞味期限」の切れた「時代限定」の映像として括るには、映像のテーマが内包する普遍性を無視できないだろう。
イデオロギーや信仰の正当性を求めて荒れ狂う時代状況が分娩した、「カオスの森」の冥闇(めいあん)は、いよいよ迷妄の濃度を深めるばかりなのだから。
そう思った。
(人生論的映画評論/灰とダイヤモンド('58) アンジェイ・ワイダ <〈生〉と〈死〉を分ける禁断のラインを挟んで、一瞬交叉した、「ポーランドの悲劇」の象徴的構図>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/07/91_27.html