浮草('59) 小津安二郎 <もう一つの小津映画のジャンダルム>

 「小津ルール」と呼ばれている、小津映画の様々な映像技法がある。

 最も有名なのは、ローアングル(低い位置からの仰角)の撮影技法。

 その狙いは、淡々とした日常性を繋ぐ日本的家族風景を描く作品が多い作り手が、題材とするホームドラマに安定感を保証する意図を持たせているように思われる。

 他にも、フィックスショット(カメラの固定)、切り返しショット(カットバック=場面の交互転換)、カーテン・ショット(場面転換に風景を挿入)、相似形の構図(同一画面の人物並列)、イマジナリー・ライン(相対する視線を結ぶライン)を踏むという既成の映像文法違反の手法、等々あるが、それぞれに作り手特有の理由づけによる撮影技法であると言えるのだろうが、正直、私のような門外漢には了解困難なスタイルであり、ハッキリ言えば、「小津安二郎監督の映像技法の癖」であると思っているから、さして気にならない。

 ところが、台詞の反復(本作で言えば、老座長による「そんなことどうでもええ。そんなことどうでもええ」等々)という映像技法に至ると、非日常的な刺激的事件を特定的に挿入する物語を回避する、ごく普通のホームドラマに見合った、ごく普通のリアリティを求める私のような者にとっては、さすがに「様式美」という、些か手垢に塗(まみ)れた高踏趣味的なカテゴリーよって括られる、一代の巨匠、小津安二郎作品の独特の台詞回しの連射と出くわすたび、正直、耳障りな印象を拭えないのである。

 木下恵介経由で、山田太一のあの気障な長広舌(「男たちの旅路」が極点)とは切れているかも知れないが、「沈黙の間」を忌避するかの如き、不必要なまでの反応を必至とせざるを得ない、過剰なまでに律動感を保持しようとする会話へと繋がる、この種の独特な台詞回しへの大いなる違和感を含めて、私にはこの類のドラマ技法に一貫して馴染めないのだ。

 自分のスタイルへの拘泥が異常に強い「性格の癖」を、「様式美」という概念の内に収斂させるのは一向に自由であるが、一切は、「映像表現者」である当人の、その「感覚」内部の心地良さとのフィット感の問題であるに違いない。そう思うのだ。

 例えば、「宗方姉妹」(1950年製作)に出演した高峰秀子によると、瞬きの数まで指導されたばかりか、事あるごとにペロっと舌を出す演技を要求され、その舌の出し方まで厳しく演技指導を受けたお蔭で、人間の舌の気持ち悪さを感じた思いを吐露していたというエピソードは有名な話。(「わたしの渡世日記」朝日新聞社刊)

 この例は、自分の映像宇宙の完成形への構築を追求するする表現作家としての当然過ぎる拘泥であるが、「様式美」の巨匠は、その「感覚」内部の心地良さとのフィット感を限りなく追及する映像作家であったと言えるだろう。

 然るに、「宗方姉妹」の中における、姉役の田中絹代との、不自然な台詞のキャッチボールのシークエンスと、抑揚のない台詞の言い回し、更にその台詞の反復の連射・洪水に閉口してしまったのは、紛れもない事実。

 自分の映像感性が素朴に受容し切れない「違和感の質」を確認するために、私は三度、この作品を鑑賞したが、何度観ても、そこで生じた違和感には変化がなかった。

 観る者の客観的視座が落ち着けないその「違和感の質」を要約すれば、詰まる所、このような手法を素直に受容できない私自身の、映像総体への「好みの問題」における落差感ということ以外に説明できないのだ。

 因みに、この「好みの問題」によって、違和感を通り越して不快感を抱いてしまった映画が、頗(すこぶ)る評判の悪い「風の中の牝雞(めんどり)」(1948年製作)である。

 「戦争」の無残な傷跡を、くすんだ内面深くに延長された悲哀という、相当程度、異色な小津作品でもある件の映像の中で、遠慮なしに提出された「反戦平和」のメッセージ性に対する評価とは全く無縁に、私には、その作品の主要な役柄を担った村田知栄子に求められた表現技法の、一本調子で、その抑揚のない台詞の耳障りな言い回し(注1)に対して、反応する術がないほど不快感を抱いてしまったのだ。


(注1)固定カメラの切り返しショットで映し出される村田知栄子の、口だけ動いて殆ど表情のない拙劣な「演技」は、「小津ルール」に基づく「様式美」なのだろうが、その彼女の役どころが、我が子の病気治療費を捻出するために、青線(非合法売春地域)で体を売った主人公の親友という重要なポジションであることを考えたとき、この哀れを極めた女優の「演技」によって、本作は何もかもダメになってしまったと言わざるを得ないのである。

 元より、村田知栄子が大根役者であると言い切れないのは、彼女がその4年後に出演した、成瀬巳喜男の「稲妻」(1952年)において、相当に存在感のある演技によって光っていた事実を否定できないからである。監督による演技指導が異なれば、役者の表現力の良し悪しの落差が、これほどまでに現出してしまうものなのか。


 ―― グダグダと、個人的に許容しにくい例証を不必要に論(あげつら)ってみても詮無(せんな)いことだが、以下のように要約してしまえばいいのだろうか。

 即ち、小津作品は作り手特有の表現感覚の中で、自分がフィットするイメージを完璧に再現させるという演出手法が徹底していて、そのイメージから逸脱した俳優の表現を寸分も許容しないストイックな芸術家として、この国の映像史に凛と輝く孤高の鋭鋒の如く、「絢爛の美学を極めた一代の名匠」という褒め殺しの内に収斂すべき文脈であると。

 何より小津映画は、どこまでも「好みの問題」としてアプローチしていく視座だけが、私にとって経験的・実感的な受容法であり、それ以上でもそれ以下でもないということである。


(人生論的映画評論/浮草('59) 小津安二郎  <もう一つの小津映画のジャンダルム>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/11/59.html