イヴォンヌの香り('94) パトリス・ルコント <〈生〉と〈性〉が放つ芳香に張り付く固有のエロティシズムの自己完結感>

 名画と呼ぶには相当の躊躇(ためら)いがあるが、説明しない映像のイマジネーションのみで勝負した、如何にもパトリス・ルコントらしい印象深い映画を要約して見る。

 ―― 女の全身から放射されるフェロモンに誘(いざな)われて、男たちが群がって来た。

 群がって来た男たちの中で、女によって特定された男が、女のフェロモンの中枢の砦である龍宮に侵入することができた。

 男と女は、そこで極上の快感を味わい、至福の時間を作り出した。

 〈向かう性〉を本質とする男は、〈受ける性〉を本質とする女の龍宮の世界で、しばしば演技含みの女の歓喜の絶叫を拾い上げたとき、男は決定的な錯誤に捕捉される。

 女の〈性〉を支配し切ったという錯誤である。

 男は明らかに、「需要」(男)と「供給」(女)の不均衡な関係を履き違えているのだ。

 男の〈性〉の商品価値は、女のそれと等価であると看做してしまうのだ。

 このとき既に、男は〈性〉の前線での勝負に負けている。

 錯誤を延長させた男が、その後、他の男にフェロモンを放射する女のエロティシズムを視認したことで、嫉妬に駆られた男は、この辺りから非日常の〈性〉を日常性の秩序のうちにリンクさせようとした。

 女は単に特定された男とのエロス的関係の稜線で、快感純度を高めるために睦み合ったに過ぎないのに関わらず、男は女のエロティシズムを丸ごと支配する者であるかの如く錯誤してしまったのだ。

 男の中で何かが変容していく。

 日常性の秩序のうちに退行させる「理性的契約関係」の契りを、女の人格総体との間で交わしたと錯覚することで、女の未来の時間をも規定し、把握することすら幻想していくのだ。

 「向こうで暮らせば、幸せになるんだ」

 男は女を一人前の女優にするため、アメリカ行きを一方的に決め、そこで足を地に着ける生活を求めたのである。

 「良いわ。行きましょう。少し休んで」

 一瞬の逡巡の後、女はそう答えた。

 しかしそれは、二人を包む柔和な関係の空気が言わせた言葉に過ぎなかった。

 このとき、女の内側で深く根を張る、「理性的契約関係」という観念を排除する感情が一気に沸騰していった。

 女はもう、自己基準から顕著に乖離した、その不均衡な関係の世俗的な時間の延長に耐えられなくなって、突然、男の前から姿を消す。

 置き去りにされた男がそこにいて、なお女を求めていた。


(人生論的映画評論/イヴォンヌの香り('94)  パトリス・ルコント <〈生〉と〈性〉が放つ芳香に張り付く固有のエロティシズムの自己完結感>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/94.html