ドイツ零年('48)  ロベルト・ロッセリーニ <リアリズムとの均衡への熱意の不足 ―― 「葛藤」描写の欠損の瑕疵>

 「明日、父が退院します。でも、食べさせる物がありません。父のために何をしたらいいでしょうか」

 かつて「ナチズム」を教え込まれた元教師に、本作の主人公であるエドムント少年が相談したときの反応は冷淡なものだった。

 「何もできんさ。健康な者さえ楽じゃないんだ。運命には逆らえんよ」
 「死んだら・・・」

 少年がそう漏らしたとき、元教師は、今度はきっぱりと言い切った。
 
 「誰でも死ぬ時は、死ぬ。共倒れはつまらんぞ。いいか?苦しい時に情けは無用なんだ。生存競争さ。パパでも同じだよ。弱い者は強い者に滅ぼされる。弱い者は犠牲にする勇気が必要だ。そして、生き延びるんだよ。エドムント、よく考えて行動するんだよ」

 これだけの会話だが、その内実は「ナチズム」そのものだった。

 その直後の映像は、多少思案気味のエドムントが、その足で、父の入院先を訪ねるシーン。

 「4日間入院で来た。お前らも楽だったろう」と父。
 「寂しかったよ」と息子。
 「帰れば、またお前たちの負担になるだけだ。死ねばいいのにな。身投げを考えたこともあるが、勇気がなかった。惰性で生きているんだ。苦しみでしかないのにな」

 「死ねばいいのにな」という父の言葉には、〈生〉との葛藤が見え隠れしているが、エドムントは、この言葉に含意された感情が読み取れない。

 そして、父の退院。

 ナチ狩りから逃げ回る長男は、生計をサポートすることすらできず、街娼で僅かな稼ぎを得ている長女と、弟であるエドムントに頼るのみ。

 この二人が、退院した父の世話を焼いていたが、会話の内容は暗鬱である。

 「帰って来れば、皆の迷惑だ。何もできない身体が情けないよ。なぜ、わしは死ねないのか」
 「何を言うの!」と長女。
 「それが一番いいのだ、皆のためにも」

 当然、この父の言葉にも、〈生〉への希望を断たれる不安の裏返しの心理が見え隠れする。

 そんな父の屈折した感情は、官憲から逃げ回るだけの長男を、「働いて、余分の配給をもらってくれ」と嘆いている事実からも明瞭である。

 そして、信じ難き描写が、その直後に開かれたのである。

 以上の暗鬱な父子の会話の間に、エドムントが父を毒殺するための薬を煎じていたのだ。

 「お前は優しい子だ。良い子を持って幸せだ」

 そんな言葉を投げかけられたエドムントが、特段の反応することなく、「父殺し」をせっせと準備しているのだ。

 そして、父の死。

 長女の号泣と、その事実を後で知った長男の嗚咽。

 そこに、淡々とした表情を崩さない少年の「確信的」な態度。

 この一連のシークエンスで把握できるのは、既にエドムントが、「父殺し」の決断を元教師に唆されたと信じ、その場で決断したか、或いは、父の入院先に向かう行程の中で決断したか、その何れかでしかない事実である。

 「ナチズム」の影響力の凄味が、そこになお息づいていることを強調する検証描写であったとしても、「父殺し」に向かう少年の心情世界が全く挿入されていない不自然さは、本作が心理描写を確信的に捨て切った映像であることを認知する外ないということになる。

 いずれにせよ、「ナチズム」の影響力の凄味を示す描写を、少年の一挙手一投足によってフォローする絵柄も必要ではないのか。

 しかし、この一連のシークエンスには、その類の絵柄も含めて何もないのである。

 心理描写を捨て切った映像への大いなる違和感。

 この薄気味悪さに閉口するのが、仮に私だけであったとしても、どうしても言及せざるを得ない描写の不自然さだった。

 「父殺し」という、およそ常識では考えられない行動を選択する少年の心理の内に、その行動を「父への慈悲」の表れであると見ることも充分可能だが、しかし、だったらなおのこと、その辺りの描写が完全に欠落してしまっているのは腑に落ちないと言わざるを得ないのだ。

 残念ながら、本作の作り手は、少年の忌まわしき行為のモチーフを「父への慈悲」の表れというよりも、「ナチズム」の影響力の凄味の強調を狙ったものであることが、元教師への「行動報告」のシーンによって検証されたのである。

 
(人生論的映画評論/ドイツ零年('48)  ロベルト・ロッセリーニ <リアリズムとの均衡への熱意の不足 ―― 「葛藤」描写の欠損の瑕疵>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/04/48.html