荷車の歌('59) 山本薩夫 <退路を断った明治女の一代記>

 序  プリミティブでシンプルな共感的理解



 望月優子三国連太郎の演技の冴えが絶妙にクロスして、この無名の庶民史の一篇を恐らく不朽の名作にした、「社会派の巨匠」、山本薩夫の最高傑作。

 高予算をかけて低級なハリウッド的娯楽映画を作り続ける昨今、日本映画史に埋もれつつある、このように地味だが、しかし力強いモノクロの映画と出会うとき、人々はそこに何を感じ、そこから何を手に入れるのだろうか。或いは、この種の映画に何も感じないほど、人々を運ぶ時代の船は、もう後戻りができないところまで移ろってしまったのだろうか。

 市井を賑わした出来事が忘れ去られるのに、今や十年の歳月も必要としない。文化の継承などという幻想も、大抵は底が浅いのだ。

 この「荷車の歌」という名作が、近未来の映画好きの人々の中で、果たして、その文化的価値が保持されているかどうか微妙なところである。なぜならそれは、「貧しい者が絶対的に苦労する時代を背景に描いた、ごく普通の一人の女の一代記」だからである。

 そんな物語に特段の思い入れを持ち得ない人々にとって、この種の映像はあまりに異文化の体臭を含みすぎているように思われるのだ。どだい、「アンチエイジング」の意識に捉われて、「美肌一族」(美容液入りのシートマスク)を手放せないような「ミリオネ―ぜ」(ポピュリッチ=「新富裕層」)の人たちにとって、この種の映画など、丸っ切り関心外のポップカルチャーであるに違いないのだろう。

 「わしは肩から毎日化粧して暮らす気はないが、荒れ止めだけでも、つければのう」(本篇の主人公の言葉)

 本篇の主人公であるセキをして、化粧を諦めさせる台詞を吐かせる時代の貧しさについて、どこまでもテレビドラマの予定調和劇の範疇でしか理解が及ばない飽食文明下において、本篇への実感的理解を求めるのは困難だが、骨太の人間ドラマを愛好する些かマイナーなタイプの人たちにとって、この類の映像を受容する感性のハードルは決して高いものでないと思われるのだ。

 そこに普通の人間がいて、普通の人間の苦労や苦悩があって、その人間の細(ささ)やかな喜びが弾ける世界が小さく踊っているとき、かの者へのプリミティブでシンプルな共感的理解は、それだけを切り取ってみれば、しばしば、時代の見えない稜線を開かせるに足る、ある種の異文化理解に逢着することが可能であるからだ。



 1  セキと茂一



 ―― 詳細に物語を追っていく。


 「この映画は、三百二十万農村婦人の手でできあがりました。人間が人間として認め合うこの大切な喜びを、皆のものにしたい!この喜びが多くの女の心に生きつがれ、多くの若い人たちが母を受け継ぐとき、明日を今日の繰り返しでなく、新しい出発としてほしい。
こうした願いをこめてつくられたものです」

 これが、映画「荷車の歌」の、アピール過剰で、そこに多少のプロパガンダ性を含むかのような、些かきな臭い但し書きの導入部である。

 映像に入っていく者は、画面を支配するこの余分なメッセージを蹴飛ばすことで、クレジット・タイトルが表示された後、すぐに開かれていく本篇と付き合っていく鑑賞態度を持った方が無難だろう。少なくとも、私の場合はそうだった。

 閑話休題

 原作は山代巴(やましろともえ)。

 「山代巴獄中手記書簡集」(平凡社刊)、「囚われの女たち」(径書房刊)等の著作でも有名な、知る人ぞ知る、戦前に夫(獄死)と共に治安維持法で逮捕され、獄中体験を経た「女性革命家」である。広島で生まれた彼女にとって、「荷車の歌」は入魂の一作であると言っていい。

 この地味な原作を「異母兄弟」の依田義賢(よだよしかた)が脚色して、「真空地帯」の山本薩夫が監督した。「社会派の巨匠」によって演出された本篇は、幸いなことに、ケチな社会派の左翼的宣伝映画の枠を遥かに超えて、一級の人間ドラマに仕上がっていた。

 欧米の肝の座った映像作家たちの幾つかの作品がそうであるように、しばしば覚悟を括った社会派の作品から秀逸な人間ドラマが作られていく事実だけは、シネ・フィル(映画マニア)ならずとも認知せざるを得ないところである。本篇もまた、その例に洩れなかったということか。

 時代は、明治二十七年。

 地主の屋敷に女中奉公する一人の女を、郵便配達夫の茂市(もいち)が見初め、求婚した。彼に好意を持つ女は、家族の反対を押し切って結婚する。茂市は郵便配達夫で稼げなくなってきて、女に荷車引きになることを促し、執拗に説得した。

 女の名はセキ。

 以来、セキと茂市の苦労多き人生が始まったのである。

 「茂一さんのために、親を捨てたんじゃ」

 あらゆる苦労も、茂市を一途に思うセキの、女としての強さが未来を拓いていく。セキは茂市の母に嫌われて、その食事も自分だけが粟飯(あわめし)の弁当を持たされる仕打ちを受けるが、彼女にはめげる様子がない。セキは明治女の強さを一身に持った、極めてバイタリティ溢れる働き者だった。

 セキは自らも荷車引きとなって、夫と共に五里の山道を往復する苛酷な労働に明け暮れる。彼女の表情からは、常に笑顔が絶えないのである。茂市は車問屋になる日を夢見て、セキと共に艱難(かんなん)な山道を越え、そして戻って来る。

 「何ぼ辛(つろ)うても、茂市さんと一日一緒におれるから、ええ・・・・」

 セキは荷車引きの休憩の場で、夫と共に昼飯の弁当を食べるのが何よりの楽しみだった。

 「日露戦争が起こりまして、大勝利に終りやしたが、その間も夢中で荷車を引いて暮らしておる内に、オト代が生まれやした。おなごの子じゃ、楽しみがなぁでのう、と茂一さんは言うし、姑も不機嫌でろくろく世話もしてくれず、オト代が一年と六ヶ月の頃のことでがんす」

 セキによる、映像の中でのモノローグ。この作品は、セキの回想による映画なのである。モノローグは続く。

 「夜中の12時に起きて布野(ふの・注1)の町まで夜の間に行き、そこで荷を積んで、三次(みよし・注2)の町は朝の11時過ぎに入りやす。往復十里の道のりを行くのが仕事でがんす・・・・三次から布野の町まで、雑貨などの帰り荷を運び、布野の町から上りになるんで、疲れてもおりますけん、空車を引く方が、ずっと辛うがんした」


(注1)現在、広島県双三郡布野村。『ゆめランド布野』と銘打つ駅舎は、ドライバー等の休憩と情報伝達機能をもつホールとして売り出している。(HP「ゆめランド布野」参照)

(注2)広島県北部の町で、かつて宿場町として栄える。今も山陽と山陰を結ぶ交通の要地である。観光産業も活発で、現在、「三次ワイナリー」、「みよし風土記の丘」、「三次ハーブ園」などが紹介されている。(「社団法人三次市観光協会」HP参照)                   


(人生論的映画評論/荷車の歌('59) 山本薩夫 <退路を断った明治女の一代記>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/59.html