煙突の見える場所('53)  五所平之助<特定的状況が開いた特定的人格の、特定的切り取り>

 1  こうのとりのゆりかご



  そのストーリーラインを追っていく。


 その家は、大雨が降ると浸水する危険性と隣り合わせの古い家屋だった。

 主人公の名は、緒方隆吉。日本橋の足袋問屋に勤める中年のサラシーマンである。その妻、弘子は戦災未亡人で、緒方とは再婚の夫婦の関係を、今のところ取りあえず問題なく営んでいる。二階には独身の若い男女が間借りしていて、一応、その家屋空間に四人の大人が共存しているのである。夫婦には子供がいないから、家庭の世俗じみた会話が些か不足しているようだ。

 また、二階の独身男は税務官吏で、その名は健三。なかなか税官吏とは思えない、人の良さそうな若者。一方、独身女は街頭放送所の専属のアナウンス・ガール。その名は、仙子。「自立する女」の印象が強い娘である。

 元々この家は、隣家にある「法華経祈祷所」を営む中年夫婦から借りたもの。しかし四六時中、法華の太鼓の音が騒がしく、緒方にはそれが常に煩わしい。また、反対隣の家のラジオ店は子沢山の家で、そこからの騒音も緒方の悩みの種になっている。
 
 その日、妻の弘子は、夫に内緒で働く競輪所の両替の仕事から帰って来て、夫といつものように睦み合っていた。子供を欲しがらない夫には、献身的な妻の存在だけで充分だった。彼は妻に対して、新鮮なまでの愛情を持続しているようだ。そこに宣伝放送の仕事から戻ってきた仙子は、まるで見てはならないものを見たときの不快感を露骨な態度に表した後、そそくさと二階に上がって行った。

 「仙子さん、じっと見ていたわね。妙な人ね」と弘子。
 「構わないじゃないか。僕たちは正式の、つまり法律によって戸籍にもはっきりと証明された夫婦だもん。恥じることないじゃないか」
 「でもやっぱり、嫌な気がするわ」

 夫のフォローにも、気持ちを満たせない弘子の思いには、若い独身男女を間借りさせている中年夫婦の苛立ちが垣間見える。
 
 二階では、今度は仙子が、二人の部屋を分ける襖越しに、健三相手に不満を吐き出している。

 「あたしが見てたら、二人ともまるで悪いことしていたみたいに、もじもじして離れちゃったの」 
 「でも残酷だな。黙って見てるなんて」
 「見られるより、見てる方がずっと嫌な気がするわよ。でも私見てたの。人間の愛情なんて情けないもんね」
 「悪いな、本当に。下のご夫婦に悪いよ」
 「あたしなら、人に見られたって平気だな。却って続けていてやるわ」
 「そんなことできるもんか」
 「だって、本当に愛していたら、そういうもんじゃない?」
 「僕は違うな。僕は人をびっくりさせるのは嫌いだな」
 「へえ、偉いのね、健三さんは・・・」

 そこで、健三の小さな叫び声。驚いた仙子は、隣の部屋に入って行った。
 画鋲を踏んで、健三が声を上げたことを知って、仙子は些か拍子抜け。部屋に戻ろうとした仙子の視界に、一枚の貼り紙が捉えられた。

 「“仙子さんに気をとられるな 勉強に専心せよ”」

 それを見て、仙子は笑みを漏らした。彼女はそれを咎めず、「割と上手い字ね」と言って、満更不快でもなさそうだった。
 
 階下では、中年夫婦が食後の団欒。

 しかしその団欒は、思わぬことから切断された。歯痛で悩む弘子の鎮痛剤を取りに行った夫が、そこで見つけたのは、自分名義の預金通帳。驚く隆吉に、弘子は隠さずに話した。

 「あたし、それが2万円になったら、あなたに見せて、びっくりさせようと楽しみにしていたのに・・・」
 「どうしたんだ、そのお金は?」

 夫の語気は強かった。

 「アルバイトしてたの。お加代さんに手引きしてもらって・・・」

 彼女はそこで、競輪場でのアルバイトを告白したのである。

 「そりゃ、僕は安月給取りかも知れん。でもそれが何だ!君はそれを承知で一緒になったんじゃないか」

 夫の不満な感情は収まらない。
 その不満が信じられないかのような妻の弁明は、却って夫の感情を刺激するばかりだった。夫には、加代という女が嫌いらしく、そしてそれ以上に、自分に秘密にしていた妻の態度が気に食わないのだ。

 「君は一体、僕の何なんだ!赤の他人なのか?」
 「あたし、あなたと一緒になれて幸福だと思っていますわ」
 「そ、そりゃ、僕だってそう思っているさ・・・寝てから、気持ちを上手く整理して話すよ・・・」

 夫は懸命に自分の昂ぶる感情を抑えようと努める。彼もまた、妻の気持ちが理解できない訳ではなかったのである。
 
 再び、階上の二人。

 「実は僕、役所辞めようかと思ってるんだ・・・」と健三。

 彼は身の皮を剥ぐようにして、税の取立てをするのがいたたまれないらしい。それに対する仙子の反応は冷淡だった。

 「あたし、お金貸さないわよ」
 「何の?」
 「役所辞めたら、すぐに生活に困るじゃない」
 「そうなんだよ。そこでどうしたらいいか、分らなくなっちまうんだよ」
 「あたしなら、困っても、困ったかことから逃げ出さないわ」
 
 再び、階下の二人。
 
 「だからお前は、どこか僕に冷淡な所があるような気がするんだよ。例えば今度のアルバイトのことだって、僕に相談なしでやっている。それでいて、平気なところがあるんだな。また時々つまらんことでびっくりする。そんなとき僕は、ヒョイと君の過去に後ろ暗いことがあるような気がするんだ。君の前の夫のことだって、君はそれを一言も口にしたことはないだろう?一言も」
 「だって、空襲のときに死んだんですもの」
 「そうだと君は言う。だが僕は、正直に言うと、君はその男を殺したんじゃないかって気がするんだ」
 「そんなこと私にできて?前の人のことを言わないのは、きっとあなたを愛し過ぎてるせいじゃないかしら。それで昔のこと、すっかり忘れてしまったんだわ・・・」
 「お前は、口が上手い」
 「本当よ。あたし、初めてあなたと結婚したような気持ちでいるの・・・本当よ。あたし、幸せだと思ってるわ」

 自分の思いをストレートに表現した妻は、隣の布団に包(くる)まって、少女のようにペロリと舌を出して笑みを浮かべた。

 「弘子、腹を立てて済まなかった。お前が僕に黙ってアルバイトして腹も立ったが、有り難いと思ってたんだよ、本当は・・・もう喧嘩するの止そうね」

 夫も自分の思いをストレートに表現して、妻の優しさを素直に受容した。電気が消えた後の二人の短い会話。
 
 「ねえ、お金が貯まったら、早く家建てましょうね」
 「うん」
 
 安普請の一軒家の中で小さく揺れた漣(さざなみ)が静まったとき、長い一日が閉じていった。

 
 事件が起ったのは、弘子が競輪場のアルバイトで捨て子の場内放送を聴いたその日だった。

 彼女が帰宅したとき、夫の隆吉は困り抜いた顔をしていた。その傍らに、産着に包まれた赤ん坊が泣いていたからである。夫はてっきり妻が預かってきた子だと考えていたらしい。しかし妻との会話で、その赤ん坊が捨て子であることを確認して、夫婦は当惑するばかりだった。

 まさに緒方家は、「こうのとりのゆりかご」(熊本慈恵病院の赤ちゃんポスト)の「標的」になったように見えたが、それは特定者による確信犯的行動だったのである。

 慌てる弘子が、赤ん坊が置いてあった縁側に出たとき、そこに一通の手紙が添えてあった。

 「“重子はあなたの子です。その証拠に戸籍謄本を同封しました。育ててやってください。
弘子殿  塚原忠二郎“」

 弘子には、これで全て合点がいったのである。

 塚原忠二郎とは、弘子の前夫。その男が、この赤ん坊は弘子の子であると断定して、おまけに戸籍謄本まで同封して、緒方家の縁側にその赤ん坊を置き去っていたのである。見る限り、その行動は確信的だった。

 戸籍謄本に眼を通した隆吉は、力なく呟いた。

 「塚原氏は生きていたんだな」
 「生きていたって、あれが私の子でしょうか?塚原があたしに押し付ける筋はないはずだわ、あんなもの」
 「ものじゃないよ、赤ん坊だよ」
 「とにかくあたし、警察に行って相談してきます」

 弘子が赤ん坊を抱いて、外に出ようとしたとき、夫の隆吉は不思議な顔をして言葉を挟んだ。

 「おい、待てよ!おかしいじゃないか。これは、おかしいよ。お前は一体、誰の妻なんだ?この戸籍謄本じゃ、お前は塚原忠二郎の妻になっているじゃないか」
 「そんなこと・・・私はあなたの妻ですわ。緒方隆吉の妻です」

 隆吉は戸籍を確認すべく、引き出しにあった二人の戸籍を確認した。そこには、弘子が隆吉の妻になっていたのだ。二つの戸籍の存在は、弘子が形式的に重婚していることを意味することになった。事態の非日常的な展開に二人は当惑し、翻弄されるばかり。

 隆吉は早速、六法全書を取り出してきた。彼は「重婚の罪」によって、自分が罰せられることを知り、妻を責め立てた。

 「お前は塚原の戸籍から抜けていなかったんだ。お前が悪いんだ。僕たちは一昨年結婚した。それからずっと一緒なんだ。それなのにお前は僕の知らない間に妊娠し、僕の知らない間にこの子を産んでしまっているんだ」
 「どうしたらいいのかしら・・・どうしたらいいのかしら・・・」
 「そんなこと僕に分るもんか。分ったら、ちゃんと処置を取ってるよ。僕はちゃんとできる人間なんだから。唯、どうしていいか分ってたらな。僕は知らんぞ」
 「どうしてあなたは、そんなに私をお責めになるの?」

 出かけようとする妻を止めて、夫は辛辣に言い切った。

 「僕は自分のものならともかく、人の赤ん坊なんて大嫌いなんだ」
 「それは、私が産んだ子供じゃありませんわ」
 「当たり前だ!僕は塚原の所へ行きたいなら、行けと言ってるんだ」
 「私はあなたの妻ですわ。世の中の人が何と言おうと・・・」
 「お前今、出かけようとしたじゃないか?」
 「ミルクを買いに行こうと思ったんですわ・・・どうすればいいの?」
 「ミルクなんて買わなくたっていい。こんなもん死んだって、何だい」

 そこに子沢山のラジオ店の主人が、心配そうに顔を出した。生きるの、死ぬのという夫婦の会話が漏れ聞こえてきたからである。赤ちゃんを見て、ラジオ商は驚いた。それを無視するかのように、隆吉は妻を促した。

 「仕方がない、行って来い」
 「奥さん、子供は授かりものですからね」とラジオ商。
 「早く、行って来い」と隆吉。

 一切、相手を無視している。

 「大事になさるんですよ」とラジオ商。

 彼はその一言を残して、隣家に戻って行った。
 
 赤ちゃんの鳴き声だけが、夜の静寂を切り裂いていた。税務署から帰宅した健三が、その声に驚いた。

 「赤ちゃんですね」
 「それが、僕には分らんですよ」

 隆吉はぶっきら棒に答えるばかり。

 隣家の法華祈祷所の中年夫婦もまた、その声に如何にも迷惑そうな様子。いつもと逆のパターンなのである。その妻は厭味たっぷりに言い放った。

 「あの声は神様の声だよ。緒方さんの家の人たちを責めてる声だよ。不信心の緒方さんのところに、何か知らせがあったんだ」

 緒方家の二階でも、若い二人が早速話題にしていた。

 「全くおかしいよ。緒方さんも分らないって言ったんだよ。ここから見るあの煙突みたいだよ。今日、僕が見た煙突は2本なんだよ」

 「2本?お化けじゃあるまいし、そんなに色々見えるはずないわ」と仙子。

 彼女はどこまでも合理的思考の持ち主なのである。

 「ここから見ると、3本なんだがなぁ・・・」
 
 健三が窓から覗くと、3本の煙突が夜の闇に聳え立っていた。
 

(人生論的映画評論/「煙突の見える場所('53)  五所平之助<特定的状況が開いた特定的人格の、特定的切り取り> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/53_18.html