この道は母へとつづく('05) アンドレイ・クラフチューク <幼児の「英雄譚」を本質にする、非現実的な「状況突破のアクション譚」>

 1  燃料切れの車に蝟集する子供たち



 印象的なファーストシーン。

 凍てつくような酷寒の雪原を降り頻る雪が、幻想的な靄の風景を作り出して、そこに一台の車が走っているが、燃料切れのため、些か肥満気味の女が携帯で連絡を取って、サポートを要請した。

 それは、ロシア・フィンランド国境にある、北方ロシアの寂寞な情趣を印象づける孤児院に向かう貨物自動車

 乗用しているのは、この孤児院に養子縁組を求めるイタリア人夫婦。

 そして、そのイタリア人夫婦への養子縁組ビジネスを成功裡に導こうと念じる、仲介業者の女。

 本作では、件の孤児院長との関連もあり、マダムと呼ばれている、名うての遣り手。

 車を運転するのは、マダムの愛人である、ドライバーのグリーシャ。

 マダムの目的は、この孤児院での生活を余儀なくされている、6歳のワーニャの養子縁組を成立させるため。

 まもなく、燃料切れで停車している貨物自動車の周りに、多くの子供たちが集まって来て、雪道の大型車両を押し始めるた。

 集まって来た子供たちは、言うまでもなく、施設内の孤児たちである。

 燃料切れの車に蝟集(いしゅう)する子供たちを映し出した、ロシア文学特有のくすんだ色彩感覚をイメージさせる、この序盤のシークエンスは、本作の映像構成の骨格を成すイメージを充分に提示するものだった。



 2  ギリギリに繋がった「ルーツ探しの旅」



 慈善事業という甘い把握を吹き飛ばすかの如き件の孤児院は、屈折しながらも、厳しいルールに基づく上下関係(権力関係)を形成する少年・少女と、ワーニャのような幼児を包括する集団を抱え込んでいた。

 寒さ凌ぐでボイラー室で寝起きするほどの貧しさ故に、窃盗・恐喝・売春が横行する日常を繋ぐ、「孤児」という名の遺棄児童・少年・少女にとって、外国人の本来の目的が臓器移植という噂が蔓延する中でも、裕福なイタリア人との養子縁組は羨望の的だった。

 だから、ワーニャには、“イタリア人”という仇名がついた。

 本作の原題の「ITALIANETZ」の意味は、そのワーニャの仇名である“イタリア人”。

 しかしワーニャは、この養子縁組に乗り気になれなかった。

 と言うのは、先に養子が決まって、孤児院を脱出できた親友のムーヒンの実母が息子を引取りにやって来るが、時既に遅し、悄然と帰って行った挙句、鉄道自殺を遂げてしまった事実を知ったからである。

 ワーニャは、この一件によって、自分の母親が迎えに来たときのことを考えてしまったのだ。

 ムーヒンも養子縁組を断っていれば、母親に会えたのだ。

 子供の浅知恵でそう考えて、養子縁組を拒否したワーニャは、実母を捜すことを決意して、売春で日銭を稼ぐイルカから文字を習った後、鍵を盗むや、院長室にに忍び込んで、金庫の中に秘匿されている、自分に関する書類を盗み見る。

 その書類名簿から、実母によって預けられた元の乳児院の住所を知り、そこへ行くことを決心する。

 イルカのサポートで最寄の駅まで行くが、トラブルに巻き込まれたイルカを傍目に見て、列車に乗り込んだワーニャは、果敢な「一人旅」の世界に自己投入していくのだ。

 その後のエピソードでは、初めて知る外部世界の中で交叉する、一種のロードムービーの世界が描かれる。

 同時に、ワーニャを追走するマダムとグリーシャとの絡みもあるが、何とかワーニャは元の乳児院に辿り着く。

 乳児院の親切な老人はワーニャの気持ちを察しながら、真相を語っていく。

 「冬にある母親が来て、息子を捜したいと泣いた。後悔が遅過ぎる。警官に連行されても繰り返し来て、その後、姿を消した。君も連行されてしまう。母親に捨てられたんだからね。こんな良い子を捨てるなんて」

 ワーニャの実母は、乳児院にワーニャを預けた後、繰り返し訪ねて来たのだ。

 彼女なりに後悔しているのだろう。

 しかし、単身、乳児院を訪ねて来た現在のワーニャも、マダムとグリーシャらに捕捉される危険性を指摘した後、その乳児院の老人は、ワーニャの実母の名前と住所を教えてくれたのである。

 乳児院の老人に教えられた住所を当てにして動く、ワーニャの苛酷なロードムービーの世界はギリギリに繋がったのだ。

 新聞に掲載されていた実話をベースにした、まだ見ぬ母親への「ルーツ探しの旅」が、再び開かれていく。


(人生論的映画評論/この道は母へとつづく('05)  アンドレイ・クラフチューク  <幼児の「英雄譚」を本質にする、非現実的な「状況突破のアクション譚」> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/02/05.html