東京タワー オカンとボクと、時々、オトン('07)  松岡錠司 <語り過ぎる映画の危うさ ―― 諸刃の剣の自家撞着>

 本作ほど、長所と欠点が判然とする映画も珍しい。

 長所については一点のみ。

 近年の他の邦画がそうであるように、いや恐らくそれ以上に、本作の長所は際立っていた。登場する役者の抜きん出た演技力、これに尽きる。

 オカンを演じた樹木希林、オトンを演じた小林薫

 それが営業的成功に結び付いたか否かという文脈とは無縁に、少なくとも、この二人の達者な役者魂なしに、表現フィールドにおける本作の印象度の、その鮮烈な継続力がは存在しなかったと言っていい。それほどの素晴らしさだった。

 とりわけ、癌を患うオカンを見舞うために上京したオトンが、ボクの配慮で二人きりになった病室で、なおどこかで「異性」を意識するオカン(オトンと会うためにヘアーカットしていた)と、自然理に共有し得ない時間が作り出した、その「間」の内に漂流する感情の鮮度は、殆ど熟達した俳優だけが放つ超絶技巧の世界であった。

 また、息子からオカンの病室にに泊ってくれと頼まれた際に、金銭を案じるオトンの対応には、かつての「自由人」としての無秩序性が垣間見られず、老いて枯渇する男の熱量を、至極自然な振舞いの内に全く違和感なく身体表現されていた。見事と言うより他にない。

 以上の小さな描写を例に出すまでもなく、実質的な主役であった「オカン」と、そこに「時々」絡む「オトン」の二人が、本作をその根柢において支えていたことは自明であり、それが、「最愛の者の死」という「究極の物語」をダイレクトに、且つ、信じ難き程の恥じらいもなく、堂々と作品の中枢に据えた、極めて安直で狡猾なそのテーマ設定の厚顔さを限りなく相対化し、中和化、解毒化した役割を負った二人の存在性の重量感が、この凡作を自壊させなかったと評価せざるを得ないのである。

 しかし残念ながら、本作の長所はそれ以上ではなかった。

 作り手の演出力とは無縁に、二人の役者の超絶的技巧が可能であったことを考えたとき、そこにしか見い出せない長所よりも、遥かに上回るほどの欠点の存在は、恐らく決定的な部分で、本作の「映像性」を駄目にしていると思われるのだ。

 と言うより、その欠点によって、そこだけは充分な表現的個性を立ち上げるような完成度を補完し得る「特定的な何ものか」として、本作が凛として屹立できなかったと評価せざるを得ないのである。単に一本の「映画」ではあったが、それが作り手の思いやメッセージを含意させるに足る、必要な分だけの描写によって成ったと感受させるような、「特定的な何ものか」、即ち、「この一作」と評価し得る「映像」にまで昇華されていないということだ。

 それについて言及するが、ここでは、筆者が最も気になった箇所のみを指摘したい。

 最も気になった箇所 ―― それは「不必要なまでに語り過ぎてしまっている」ことと、「描写が説明的であり過ぎる」点に尽きる。(以上の二点は、本作の物語の基幹ラインを補完する不可避な導入になっていると思われるので、その辺りについては後述する)

 その理由を端的に言えば、不必要なナレーションが多過ぎるということだ。

 因みに、本篇が開かれたときからナレーションがあまりに目障りだったので、それをカウントしてみた。私のこの瑣末な作業にミスがなければ、主人公の「ボク」によるナレーションの回数は52箇所もあったのだ。多過ぎると言うより、映画の自壊性のリスクを高めるほどに過剰であった。

 なぜなら、ごく普通の鑑賞者の、ごく普通の知的レベルにおいて、容易に了解し得る描写にまでもナレーションが入り込んでいて、殆ど全てのカットのシフトの度に、一々、「ボク」の説明を耳にしなければならないという印象なのだ。何より由々しきことは、心理の微妙な綾までも「解説」付きであったということ。これには正直、呆れ返ってしまった。

 その一部を、例に挙げてみよう。

 「中学二年を過ぎた頃から、こことは違うどこかに行きたいという気持ちと、オカンを自由にしてあげねばという気持ち、その二つが僕の中に生まれていました」

 「その手紙には、自分のことは一切知らせず、ボクを励ます言葉だけが強く書いてありました」
   ↓
 高校受験を機に町を出るシーンがあったが、母と別れるバスの中で、オカンからの手紙を涙ながら読む描写。明らかに、表情を映すワンカットで足りるもの。

 「大学を卒業しても就職しなかったボクと、ダンサーの夢が破れた平栗は、それでも東京にしがみついていた」
   ↓ 
 自堕落さの描写だが、既に繰り返し繋がれていたカットで充分過ぎる。

 「色んなことがうまく回り始めている。そんな気がしていました」
   ↓ 
 東京での成功を表した心情描写。

 他にもまだまだあるが、全て「映像」によって説明できるもの。私から言わせれば、本作のナレーションは、以下の冒頭の部分だけで済む類の何かである。

 「この話は東京に弾き飛ばされ、故郷に戻って行ったオトンと、同じようにやって来て、帰るところを失ってしまったボクと、そして一度もそんな幻想を抱いたこともなかったのに、東京に連れて来られて、戻ることも帰ることもできず、東京タワーの麓で眠りについた、ボクの母親の小さな話です」

 この語りの持つイメージ喚起力は捨て難く、殆どこの内にストーリーラインが収斂されていくことによってもなお、余情となって張り付くものこそ、「映像性」それ自身の決定力であるだろう。

 語り過ぎる映画が失ったもの ―― それを端的に言えば、観る者の想像性の喚起力であると言っていい。



(人生論的映画評論/東京タワー オカンとボクと、時々、オトン('07)  松岡錠司 <語り過ぎる映画の危うさ ―― 諸刃の剣の自家撞着> 」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/05/07.html