映像は叙情的な旋律がなお繋がって、そこに家事に勤(いそ)しむ一人の母の日常的な振る舞いを映し出していた。
そこに、明朗闊達な長女のナレーションが追い駆けていく。
「私のお母さんは、よそのお母さんに比べると、少し小っちゃくて、小ぶりなので、長い箒(ほうき)が大嫌いです。短い箒は慣れているから苦しくないと言います。お母さんは、眼の開き方が優しくて、私は大好きです。進兄さんはラシャ屋の奉公から病気で帰って来ました。ラシャ(注)の埃で病気になったのだそうです。妹の久子は私の言うことよりも、お母さんの言うことの方をよく聞く癖があります。見かけによらないお洒落です。これがあたしです。おねしょの布団。勿論、私のではありません。則子おばちゃんから家に預かっている哲ちゃんです。満州から引き揚げて来たのです。お父さんは、もと腕のいい洗濯屋です。私たちはポパイの父ちゃんと呼んでいます。この隆々とした力瘤(ちからこぶ)を見て下さい。子供のときから、重い蒸気アイロンで鍛えたのだそうです。今は工場の門衛です・・・」
(注)厚い毛織物の布地で、かつては軍服や冬物服地として必需品だった。ラシャ屋にあって、ラシャ切り鋏を器用に使いこなす、匠の技を持つ伝統的な職人がいたことでも知られる。「羅紗」とも書く。
長女の名は年子。
彼女のナレーションによって、自分を含む福原家の家族の構成が明るい口調で紹介されていくことで、この厳しい「ホームドラマ」の幕が開かれた。
父の名は良作。ナレーションにあるように、かつては腕の良い洗濯屋だったが、戦災で店を失ったため、現在は守衛の仕事をしている。父の夢は洗濯屋の再建にあり、そのために毎日必死に働いているが、戦後の苦境下にあっては、家族の「食」を保障する、一家の長(おさ)の普通の役割を果たしているに過ぎないであろう。
そして、母の正子は飴売りなどをして副職に精を出すが、それ以上に家族の面倒を見る生活に追われている。母もまた、当時を生きた普通の母親の生活と特段に変わる様子を見せることなく、父の夢の実現のために殆んど等身大の日常性を繋いでいる。
長男の進は肺を患っていて、現在は自宅で療養する日々を過ごしているが、その病状は一進一退といったところだ。
更に、元気溌剌の年子の下に、一人の妹と、福原家に同居する一人の甥がいる。二人とも冒頭の紹介にある通り、素直で天真爛漫な児童。とりわけ、甥の哲夫は寝小便の常連で、映像では、布団干しの苦労を担う年子の諦め顔の表情が滑稽含みで映し出されていく。年子の母正子の妹である哲夫の母は、美容師の資格を取るために必死で社会的自立を目指して修行中なのだ。
そんな家族風景の簡単なスケッチの中に、戦後を生きるこの国の人々のごく普通の生活様態が凝縮されていることは言うまでもないであろう。この国の戦後は焼け跡の荒廃した風景から、それぞれが自らのサイズに合った秩序を復元するか、或いは、新しい価値観念の下で新鮮なイメージの生活ラインの構築を目指して、それぞれに、一見、馬車馬の如き日常性を繋いでいたのである。
しかし、そんな凡庸な家族風景であっても、ホームドラマの予定調和に終始しないのが成瀬の映像宇宙である。
そんな家族の物語を、もう少し追っていこう。
「いい音。あたしは、お父さんの大好きな、お醤油をかけた煎り豆を、ポリポリ噛む音を聞くと、爽快な気分になって、急に食欲が湧いてくるのです。お母さんは20年間、この音を聞き続けてきたと言っています。豆があれば、お父さんは何にもいらないのです」
年子のナレーションの音調は、相変わらずホームドラマ風である。
彼女は冬は今川焼き、夏にはアイスキャンディーを売って、遣り繰りが厳しい家計を何とかサポートしている。彼女には、近所のパン屋の息子である信二郎というボーイフレンドがいて、その会話の内容もいかにも青春ドラマの趣を表現するものだ。
しかし、福原家のホームドラマは、突然、リアリズムの様相を呈していく。
肺疾患の完全療養のために施設に入れた長男の進が、その施設を失踪したという電報を福原夫妻は受け取った。
「バカやろうが。せっかく無理して入れてやってんのに」と父。
「食べ物でも悪いんじゃないかしら」と母。
「食べ物が悪いったって、家(うち)より悪い所はないだろう」
「どうしたのかしら?」
「帰って来ても、甘い顔するな」
一人で心配してオロオロする正子の元に、ランニングシャツを泥だらけにした哲夫が、泣きながら帰って来た。
「哲ちゃん、犬に引き摺られちゃったの」と久子。
「もう着替えるもの何もないのよ」と正子。
母代わりの正子はタンスの中から久子のスカートを出してきて、それを哲夫に着替えさせたのである。
「あら、ひどいわ!あたしの」と久子。
いかにも、お洒落に関心のある女の子の言葉である。
「いいじゃないの。貸しといてあげなさい」
母のこの一言で、娘と甥は聞き分けるしかなかった。久子にからかわれながらも、スカートを穿(は)くことを躊躇(ためら)わない児童の素直さは、均しく貧しい時代が生んだ生活風景以外の何ものでもなかった。
母の心には、療養所を脱走した進のことばかり。彼女は久子に命じて、八百屋に夏蜜柑を買いに行かせた。それは、夏蜜柑の好きな息子が自宅に戻って来ることを意識した母の配慮であった。父の良作は、そんな正子の行動を、傍らにいて見て見ぬ振りをしている。
その直後、自宅の裏庭に進が顔を出したのである。
「母ちゃん・・・」と進。
母は息子を家の中に入れようとした。しかし息子は入れない。父の視線が飛び込んできたからである。
「何で逃げ出してきた」
父のこの一言は、殆んど権威的な表出でしかない。
「お上がり」
母は父の視線を制して、息子を家の中に入れたのである。
その夜の、母と息子の柔和な会話。
息子は既に布団の中にその身を包んでいて、母は息子の手を握っている。
「どうして帰って来ちゃったの?」
「母ちゃんの傍で寝たかったんだ」
「どうして?」
「どうしてって、何となくそんな気がして。ここで寝てくれよね、母ちゃん」
「ああ、いいとも」
「病気うつるかな?・・・安心した」
母の柔和な表情を確認して、息子はその一言を残したのである。それが、映像で残した進の最後の言葉になった。
「人間は何のために生まれるのでしょう。そして、なぜ死ぬのでしょう。今までいた人が消えていってしまうなんて・・・あたしのお父さんも、お母さんも、こんな風に消えてしまったら、あたしはどうしよう」
兄、進の墓の前での、妹年子の心の呟き。
だが、映像は長男の死を映さない。映す必要がないからだ。この時代、人の死は殆んど日常的な世界の出来事だったのである。だから映像は、長男の最後の言葉を刻んだ後の、妹の墓参りのシーンだけで充分だったのである。
まもなく、福原家は自宅でクリーニング店を開いた。
しかし、夢にまで見た店の開店の時期に合わせるかのように、良作の健康が優れなくなっていく。その代わりに店を手伝うようになったのが、父の弟子であり、シベリアからの帰環兵であった木村である。木村は真面目で、仕事熱心な男であった。
そんな木村も良作の具合が心配でならない。良作を往診に来た医師は、夫の様子を聞いた正子にはっきりと答えた。
「今始まったばかりの病気じゃないですな。あんなになるまで放っておくなんて、もう全然・・・」
「ダメでしょうか?」と正子。
「よほど、無理をしていますな」
「早くかかるように言ったんですがねぇ・・・」と木村。
「先生、後、どの位?」と正子。
「どの位と言われても、困りますな・・・ま、お大事に」
医師はそう答える以外になかった。正子と木村は、医者の後姿を見送って呆然とするばかり。
その夜、木村は良作に入院を勧めた。しかし良作は頑として受け入れない。
「・・・俺は体に自信があるんだ。入院なんかしたら、死ぬような気がするよ・・・そんなにひどいって言ったかい?」
「いやぁ・・・」と木村。
木村の表情はいかにも確信性がなく、自分の身を案じる良作に、呆気なく悟られる類の反応だった。嘘をつけない男の正直さが露呈された後に、現実の難しさを認識する良作の率直な心情が吐露された。
「どうして俺はこんな病気になったのかなぁ?過労って言やぁ、戦時中の方が商売上がったりで、焦ったが・・・」
「それが今頃になって出るんだよ・・・」
木村はその後、手振りでアイロンをかける真似をしてみせて、明らかに、職務上の過労が良作の健康悪化の原因であるかのように話した。
「商売じゃないか・・・ガキの時分からやっててなぁ、アイロンで死ねば本望だよ」
「全くだよ」
二人はここで同時に笑い声を上げるが、良作のそれには痰が絡んだような重い咳を随伴していた。
その夜、良作は正子に昔話を語っていく。
「面白かったなぁ。初めてここで所帯を持った頃は、夢中だったからなぁ。何しろこの町で、クリーニングという店は、俺の家一軒きりだったからなぁ。二人でびしょ濡れになって洗ったり、4年目に電話買ったときは嬉しかったなぁ。名刺を一軒一軒配り歩いて、今度電話が引けましたから、ご注文はいつでも飛んで伺いますって、そう言って歩いた格好まで眼に見えるようだ。母ちゃんも若かったな、あの頃は・・・俺は晩に豆つまみながら、焼酎飲むのが何より楽しみだったよ・・・」
二人はその後、昔、狸やイタチを飼っていた頃の思い出話に花を咲かせた。
話し疲れた夫を気遣って、就寝させた後、じっと夫の顔を見つめる妻。彼女は一人外に出て、抑制的に嗚咽する。その姿は、哀しみを一人で背負っていかねばならない運命を前にして、懸命に耐えているようでもあった。
そこに、明朗闊達な長女のナレーションが追い駆けていく。
「私のお母さんは、よそのお母さんに比べると、少し小っちゃくて、小ぶりなので、長い箒(ほうき)が大嫌いです。短い箒は慣れているから苦しくないと言います。お母さんは、眼の開き方が優しくて、私は大好きです。進兄さんはラシャ屋の奉公から病気で帰って来ました。ラシャ(注)の埃で病気になったのだそうです。妹の久子は私の言うことよりも、お母さんの言うことの方をよく聞く癖があります。見かけによらないお洒落です。これがあたしです。おねしょの布団。勿論、私のではありません。則子おばちゃんから家に預かっている哲ちゃんです。満州から引き揚げて来たのです。お父さんは、もと腕のいい洗濯屋です。私たちはポパイの父ちゃんと呼んでいます。この隆々とした力瘤(ちからこぶ)を見て下さい。子供のときから、重い蒸気アイロンで鍛えたのだそうです。今は工場の門衛です・・・」
(注)厚い毛織物の布地で、かつては軍服や冬物服地として必需品だった。ラシャ屋にあって、ラシャ切り鋏を器用に使いこなす、匠の技を持つ伝統的な職人がいたことでも知られる。「羅紗」とも書く。
長女の名は年子。
彼女のナレーションによって、自分を含む福原家の家族の構成が明るい口調で紹介されていくことで、この厳しい「ホームドラマ」の幕が開かれた。
父の名は良作。ナレーションにあるように、かつては腕の良い洗濯屋だったが、戦災で店を失ったため、現在は守衛の仕事をしている。父の夢は洗濯屋の再建にあり、そのために毎日必死に働いているが、戦後の苦境下にあっては、家族の「食」を保障する、一家の長(おさ)の普通の役割を果たしているに過ぎないであろう。
そして、母の正子は飴売りなどをして副職に精を出すが、それ以上に家族の面倒を見る生活に追われている。母もまた、当時を生きた普通の母親の生活と特段に変わる様子を見せることなく、父の夢の実現のために殆んど等身大の日常性を繋いでいる。
長男の進は肺を患っていて、現在は自宅で療養する日々を過ごしているが、その病状は一進一退といったところだ。
更に、元気溌剌の年子の下に、一人の妹と、福原家に同居する一人の甥がいる。二人とも冒頭の紹介にある通り、素直で天真爛漫な児童。とりわけ、甥の哲夫は寝小便の常連で、映像では、布団干しの苦労を担う年子の諦め顔の表情が滑稽含みで映し出されていく。年子の母正子の妹である哲夫の母は、美容師の資格を取るために必死で社会的自立を目指して修行中なのだ。
そんな家族風景の簡単なスケッチの中に、戦後を生きるこの国の人々のごく普通の生活様態が凝縮されていることは言うまでもないであろう。この国の戦後は焼け跡の荒廃した風景から、それぞれが自らのサイズに合った秩序を復元するか、或いは、新しい価値観念の下で新鮮なイメージの生活ラインの構築を目指して、それぞれに、一見、馬車馬の如き日常性を繋いでいたのである。
しかし、そんな凡庸な家族風景であっても、ホームドラマの予定調和に終始しないのが成瀬の映像宇宙である。
そんな家族の物語を、もう少し追っていこう。
「いい音。あたしは、お父さんの大好きな、お醤油をかけた煎り豆を、ポリポリ噛む音を聞くと、爽快な気分になって、急に食欲が湧いてくるのです。お母さんは20年間、この音を聞き続けてきたと言っています。豆があれば、お父さんは何にもいらないのです」
年子のナレーションの音調は、相変わらずホームドラマ風である。
彼女は冬は今川焼き、夏にはアイスキャンディーを売って、遣り繰りが厳しい家計を何とかサポートしている。彼女には、近所のパン屋の息子である信二郎というボーイフレンドがいて、その会話の内容もいかにも青春ドラマの趣を表現するものだ。
しかし、福原家のホームドラマは、突然、リアリズムの様相を呈していく。
肺疾患の完全療養のために施設に入れた長男の進が、その施設を失踪したという電報を福原夫妻は受け取った。
「バカやろうが。せっかく無理して入れてやってんのに」と父。
「食べ物でも悪いんじゃないかしら」と母。
「食べ物が悪いったって、家(うち)より悪い所はないだろう」
「どうしたのかしら?」
「帰って来ても、甘い顔するな」
一人で心配してオロオロする正子の元に、ランニングシャツを泥だらけにした哲夫が、泣きながら帰って来た。
「哲ちゃん、犬に引き摺られちゃったの」と久子。
「もう着替えるもの何もないのよ」と正子。
母代わりの正子はタンスの中から久子のスカートを出してきて、それを哲夫に着替えさせたのである。
「あら、ひどいわ!あたしの」と久子。
いかにも、お洒落に関心のある女の子の言葉である。
「いいじゃないの。貸しといてあげなさい」
母のこの一言で、娘と甥は聞き分けるしかなかった。久子にからかわれながらも、スカートを穿(は)くことを躊躇(ためら)わない児童の素直さは、均しく貧しい時代が生んだ生活風景以外の何ものでもなかった。
母の心には、療養所を脱走した進のことばかり。彼女は久子に命じて、八百屋に夏蜜柑を買いに行かせた。それは、夏蜜柑の好きな息子が自宅に戻って来ることを意識した母の配慮であった。父の良作は、そんな正子の行動を、傍らにいて見て見ぬ振りをしている。
その直後、自宅の裏庭に進が顔を出したのである。
「母ちゃん・・・」と進。
母は息子を家の中に入れようとした。しかし息子は入れない。父の視線が飛び込んできたからである。
「何で逃げ出してきた」
父のこの一言は、殆んど権威的な表出でしかない。
「お上がり」
母は父の視線を制して、息子を家の中に入れたのである。
その夜の、母と息子の柔和な会話。
息子は既に布団の中にその身を包んでいて、母は息子の手を握っている。
「どうして帰って来ちゃったの?」
「母ちゃんの傍で寝たかったんだ」
「どうして?」
「どうしてって、何となくそんな気がして。ここで寝てくれよね、母ちゃん」
「ああ、いいとも」
「病気うつるかな?・・・安心した」
母の柔和な表情を確認して、息子はその一言を残したのである。それが、映像で残した進の最後の言葉になった。
「人間は何のために生まれるのでしょう。そして、なぜ死ぬのでしょう。今までいた人が消えていってしまうなんて・・・あたしのお父さんも、お母さんも、こんな風に消えてしまったら、あたしはどうしよう」
兄、進の墓の前での、妹年子の心の呟き。
だが、映像は長男の死を映さない。映す必要がないからだ。この時代、人の死は殆んど日常的な世界の出来事だったのである。だから映像は、長男の最後の言葉を刻んだ後の、妹の墓参りのシーンだけで充分だったのである。
まもなく、福原家は自宅でクリーニング店を開いた。
しかし、夢にまで見た店の開店の時期に合わせるかのように、良作の健康が優れなくなっていく。その代わりに店を手伝うようになったのが、父の弟子であり、シベリアからの帰環兵であった木村である。木村は真面目で、仕事熱心な男であった。
そんな木村も良作の具合が心配でならない。良作を往診に来た医師は、夫の様子を聞いた正子にはっきりと答えた。
「今始まったばかりの病気じゃないですな。あんなになるまで放っておくなんて、もう全然・・・」
「ダメでしょうか?」と正子。
「よほど、無理をしていますな」
「早くかかるように言ったんですがねぇ・・・」と木村。
「先生、後、どの位?」と正子。
「どの位と言われても、困りますな・・・ま、お大事に」
医師はそう答える以外になかった。正子と木村は、医者の後姿を見送って呆然とするばかり。
その夜、木村は良作に入院を勧めた。しかし良作は頑として受け入れない。
「・・・俺は体に自信があるんだ。入院なんかしたら、死ぬような気がするよ・・・そんなにひどいって言ったかい?」
「いやぁ・・・」と木村。
木村の表情はいかにも確信性がなく、自分の身を案じる良作に、呆気なく悟られる類の反応だった。嘘をつけない男の正直さが露呈された後に、現実の難しさを認識する良作の率直な心情が吐露された。
「どうして俺はこんな病気になったのかなぁ?過労って言やぁ、戦時中の方が商売上がったりで、焦ったが・・・」
「それが今頃になって出るんだよ・・・」
木村はその後、手振りでアイロンをかける真似をしてみせて、明らかに、職務上の過労が良作の健康悪化の原因であるかのように話した。
「商売じゃないか・・・ガキの時分からやっててなぁ、アイロンで死ねば本望だよ」
「全くだよ」
二人はここで同時に笑い声を上げるが、良作のそれには痰が絡んだような重い咳を随伴していた。
その夜、良作は正子に昔話を語っていく。
「面白かったなぁ。初めてここで所帯を持った頃は、夢中だったからなぁ。何しろこの町で、クリーニングという店は、俺の家一軒きりだったからなぁ。二人でびしょ濡れになって洗ったり、4年目に電話買ったときは嬉しかったなぁ。名刺を一軒一軒配り歩いて、今度電話が引けましたから、ご注文はいつでも飛んで伺いますって、そう言って歩いた格好まで眼に見えるようだ。母ちゃんも若かったな、あの頃は・・・俺は晩に豆つまみながら、焼酎飲むのが何より楽しみだったよ・・・」
二人はその後、昔、狸やイタチを飼っていた頃の思い出話に花を咲かせた。
話し疲れた夫を気遣って、就寝させた後、じっと夫の顔を見つめる妻。彼女は一人外に出て、抑制的に嗚咽する。その姿は、哀しみを一人で背負っていかねばならない運命を前にして、懸命に耐えているようでもあった。
(人生論的映画評論/おかあさん('52) 成瀬巳喜男 <喪って、喪って、なお失いゆく時代の家族力>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/52.html