真実の瞬間(とき/'91) アーウィン・ウィンクラー  <自己像を稀薄化できなかった男が炸裂して>

  「真実の瞬間」という重苦しい映画のファーストシーンは、元共産党員だった一人の映画人が、圧力に屈していくさまを映し出している。


 カリフォルニア 1951年9月 非米活動委員会 最高喚問会 

 「協力するのだ。共産党員を野放しにしたいのか?党員がバッジでも胸につけてりゃ、苦労して探す事はないんだが・・・君もこんな所に呼ばれずに済んだわけだ」
 「勘弁して下さい。泥の中を這い回るような見苦しいマネだけは・・・皆、私の友だちです。友だちを売る?」
 
 男はギリギリの所で信念を貫こうとしている。
 
 そんな男の前に、反共で凝り固まった男たちが壁のように立ち塞がっている。男たちは正義という使命感に燃えているから、脆弱なヒューマニズムでしか武装できない映画人の自我を壊すのは容易いことなのだ。

 「アカなんだぞ。アカの味方をするのか? 映画やテレビで亡国思想を流している連中だぞ」
 「困っている人を助けようと、入党したのです。当時は大恐慌の煽りで、数多くの困窮者が・・・“人助け”と・・・」
 「君は党員だったことを告白した。過去の過ちを清めるためにも、調査に協力するのだ。そこに写ってる連中の名を言ってもらおう」
 「私は密告者では・・・」
 「忠誠心を持つアメリカ人は、我々に協力してくれたぞ。それで、君の名も浮かび上がったのだ」
 「今でも党員なのか?」と隣の委員。
 「とっくに離れました!」
 「まだ党員らしい。然るべき筋に報告するぞ! 大きな声で言うのだ! 恥じることはない」

 ここで場面は一転する。

 この映画の主人公であるデビッド・メリルがフランスから帰国して、彼のために用意された盛大な帰国祝いのパーティの輪の中に入っていく。彼は売れっ子の映画監督で、ハリウッドのスタジオの社長に呼ばれているのだ。

 そのパーティには、映画のファーストシーンで厳しい喚問を受けていたシナリオ・ライターのラリーの姿もあったが、彼は既に仲間の名前を売っていて、それを知った妻のドロシーに面罵されていた。パーティに集う人々は友好的に装っているが、このきな臭いパーティの空気の中に映像の暗鬱な展開が暗示されていた。
 
 翌日、スタジオを訪れたデビッドは、映画製作の依頼と共に、一人の弁護士に会いに行くように勧められる。まもなくその弁護士から、デビッドもまた喚問の対象になっていて、非米活動委員会の「友好的証人」になることを条件に、映画製作に一日でも早く入って欲しいという旨を告げられる。デビッドは仲間を売ることを拒んだが、それは彼の長く苦難な戦いの始まりとなった。
 
 帰宅したデビッドの前に、ラリーによって息子を奪われたドロシーが泣き崩れていた。仲間を売ったラリーは自己の不埒な行為を正当化するために、より権力に擦り寄っていくしか術がなかったのである。

 反共こそアメリカの正義であるという物語に同化していくことで、自らの裏切りをポジティブに捉える感情のシフトが必要だったのだ。恐らく、多くの映画人はこのような自己欺瞞の戦略のうちに、巧みに自我防衛を果たしたに違いない。

 しかし、デビッドにはそれができない。

 だから、彼には仕事が来ないのだ。三流映画のメガホンを撮る仕事を引き受けても、ブラックリスト入りしたデビッドの素性が知れて、彼は自らその仕事を捨てていく。更に、彼にはFBIの尾行が常時つくようになり、そのため映画と関係のない仕事を得ても、それをすぐに手放すことになる。そんな彼には、離婚した妻ルースや、息子の愛情だけが心の支えだった。
 
 まもなく、ドロシーの自殺の凄惨な現場に立ち会ったデビッドとルースは、改めて自分たちの置かれた状況の苛酷さを思い知った。

 テレビではローゼンバーグ夫妻の死刑の判決が放送されていて、そこに映し出された夫妻の子供たちの表情を見たデビッドの息子は、尊敬する父のもとに寄り添って心配気に訊ねた。

 「パパは死刑?」
 「パパが死刑?」
 「アカは死刑だって」
 「誰が言った?」
 「友だちだよ。テレビも、スパイのローゼンバーグは電気イスで死刑になるんだよ」
 「あの二人が何をしたかは知らないが、パパたちは人助けをしたんだ・・・悪いことはしていない。本当だよ。悪いことなら、友だちのお前に打ち明けているよ」

 「マッカーシズム」という名のアメリ原理主義の嵐は、外敵と戦う前に内部に敵を作り出し、それを標的とすることによって更に勢いを増していった。

 標的とされた者たちは、内側で武装する何ものもなく、否が応でも家族の者を巻き込んでいく。デビッドは、心配する息子を安堵させる形だけの言葉を持つが、家族の生活を保障する基盤が崩されて、いよいよ、家族に与えるパンの問題を真剣に考えざるを得なくなっていくのだ。
 
 追い込まれていたのはデビッドだけはない。デビッドの最初の尋問で、シナリオライターであるバニーとの関係を聞かれて、「友人だ」と答えたことから、そのバニーもまた非米活動委員会の喚問を受けることになった。

 精神的に追い込まれたバニーはデビッド家を訪れ、無二の親友に向かって哀願したのである。
 
 「君の助けが欲しい。君の了解を得て、君の名を挙げさせてくれ。」
 「密告するために了解を得る?」
 
 バニーのあまりに直接的な切り出しに、デビッドは絶句する。バニーは自らを守るために、友人であるデビッドの名前を喚問の場で告発することを、その当の本人に向かって哀願したのである。
 
 「名前を挙げないと、奴らは承知してくれないんだよ」
 「彼の名はもう・・・」

 傍らにいたルースは、既に非米活動委員会の喚問の対象になっているので、バニーがデビッドの名を使うことの無意味さを指摘しようとした。しかしバニーには、自分を守ることしか考えられないのだ。自分の名を出したデビッドに対する恨みもある。
 
 「だが裏切り合いをさせることが、奴らの狙いなんだよ・・・君が俺と友だちだと言ったからだ。君の後で俺が呼ばれた。助けてくれ」
 「今さら同じだ。使えよ」
 
 デビッドにはバニーの気持ちが理解できる。自分もまた追い詰められていることを、ひしひしと実感しているからだ。
 
 「許してくれ。君の名をこんなことに・・・今更、同じだろ?君はどうせもう葬り去られた人間だ・・・」
 
 親友の最後の言葉は、バニーの自己防衛的なエゴイズムを露出させていた。 

 「出てってくれ」
 
 デビッドは抑え難い感情の中から、一言放った。

 それは、友情の終焉を告げる最後通告であるように見えた。デビッドが映像の中でバニーと次に会うのは、非米活動委員会の喚問の場だった。そこで彼らは、彼らのその後の人生の究極の選択を迫られるのである。
 

(人生論的映画評論/真実の瞬間(とき/'91) アーウィン・ウィンクラー  <自己像を稀薄化できなかった男が炸裂して>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/91.html