この映画は、思考停止の「本格社会派」のオリバー・ストーンらしい本領を発揮した究極の愚作。
その特徴は、以下の2点に集約される。
その1。
人間の問題を押し並べて「社会」、「制度」、「システム」の問題とする強引な思考様式。
本作では、メディアの欺瞞性が中枢の「悪」の温床になっていて、そこに刑務所の権力的監視システムの「悪」や、権力の遂行者としての悪徳刑事や、サディスティックな刑務所長の「悪」が絡むというもの。
その2。
そのことを声高に主張するために、事態の本質に関わるエピソードばかりか、枝葉末節とも思えるジャンクな描写をも挿入してしまうので、殆ど「何でもあり」の様相を呈してしまうという厄介さ。
以上の基幹文脈に則って、驚くほど荒唐無稽な物語を構築していくので、肝心の「主題提起力」と「映像構成力」との均衡が脆弱になりやすく、且つ、ブラックユーモアによって巧みにまとめ上げる技巧が欠落するから余計に始末が悪かった。
件の「本格社会派」は、どうやら「真っ向勝負」を自負する球威逓減のストレートしか投げられないばかりか、主題に関らない枝葉の浮遊の如きジャンクな描写に対して、表現者としての覚悟を括って、大鉈を振るう抑制系の能力をも持ち合わせていないのだろう。
自分の内側で湧昇流のように湧出するイメージを作家的才能と勘違いしてしまいやすいのか、それらの「滋養」の澎湃(ほうはい)を悉(ことごと)くフィルムに焼きつけていくから、本作はまるで、オールカマーの表現フィールドの陳列館の様相を呈してしまったのだ。
「時計じかけのオレンジ」(1971年製作)のような、些か過剰だが、それでも「主題提起力」と「映像構成力」との均衡をギリギリに保持しつつ、且つ、下品ながらブラックユーモアのセンスによって自壊の危機を防ぎ切った技巧にも届かない粗雑さに、不快感のみ残されたというのが本音。
要するに、実際は様々に問題が複層化し、その現実の総体を把握するのが容易でないに関わらず、社会を騒がせる如何なる問題をも解析し、裁くことが可能であるという傲慢さが勝ち過ぎるのか、声高な映像作家の、剛腕を自称するようにも見える投手の、その球威が見かけ倒しになったとき、思考停止の痼疾(こしつ)の如き裸形の非武装ぶりが露呈されてしまったのである。
本作は、その類の映画の典型的な一篇だった。
その特徴は、以下の2点に集約される。
その1。
人間の問題を押し並べて「社会」、「制度」、「システム」の問題とする強引な思考様式。
本作では、メディアの欺瞞性が中枢の「悪」の温床になっていて、そこに刑務所の権力的監視システムの「悪」や、権力の遂行者としての悪徳刑事や、サディスティックな刑務所長の「悪」が絡むというもの。
その2。
そのことを声高に主張するために、事態の本質に関わるエピソードばかりか、枝葉末節とも思えるジャンクな描写をも挿入してしまうので、殆ど「何でもあり」の様相を呈してしまうという厄介さ。
以上の基幹文脈に則って、驚くほど荒唐無稽な物語を構築していくので、肝心の「主題提起力」と「映像構成力」との均衡が脆弱になりやすく、且つ、ブラックユーモアによって巧みにまとめ上げる技巧が欠落するから余計に始末が悪かった。
件の「本格社会派」は、どうやら「真っ向勝負」を自負する球威逓減のストレートしか投げられないばかりか、主題に関らない枝葉の浮遊の如きジャンクな描写に対して、表現者としての覚悟を括って、大鉈を振るう抑制系の能力をも持ち合わせていないのだろう。
自分の内側で湧昇流のように湧出するイメージを作家的才能と勘違いしてしまいやすいのか、それらの「滋養」の澎湃(ほうはい)を悉(ことごと)くフィルムに焼きつけていくから、本作はまるで、オールカマーの表現フィールドの陳列館の様相を呈してしまったのだ。
「時計じかけのオレンジ」(1971年製作)のような、些か過剰だが、それでも「主題提起力」と「映像構成力」との均衡をギリギリに保持しつつ、且つ、下品ながらブラックユーモアのセンスによって自壊の危機を防ぎ切った技巧にも届かない粗雑さに、不快感のみ残されたというのが本音。
要するに、実際は様々に問題が複層化し、その現実の総体を把握するのが容易でないに関わらず、社会を騒がせる如何なる問題をも解析し、裁くことが可能であるという傲慢さが勝ち過ぎるのか、声高な映像作家の、剛腕を自称するようにも見える投手の、その球威が見かけ倒しになったとき、思考停止の痼疾(こしつ)の如き裸形の非武装ぶりが露呈されてしまったのである。
本作は、その類の映画の典型的な一篇だった。
(人生論的映画評論/ナチュラル・ボーン・キラーズ('94) オリバー・ストーン <アナーキーに暴れ捲る映像を支配し切れない粗雑さ>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/07/94_24.html