マルホランド・ドライブ('01) デヴィッド・リンチ <ゲーム感覚で「読解」の醍醐味を味わう「知的過程」を相対化する戦略的表現宇宙>

  1  局面防衛戦略としての摩訶不思議な「夢」の世界への脱出行



 「反復」→「継続」→「馴致」→「安定」という循環を持つ、「日常性のサイクル」の継続力が、ほんの少し劣化し、それを自家発電させていく仕事のうちに気怠さが忍び寄ってくるようなときに、束の間、「非日常」の、一種、蠱惑(こわく)的な魔性の時間と戦略的に遊ぶことで手に入れた潤いによって、自給熱量を復元させることが間々ある。

 デヴィッド・リンチ監督の一連の作品には、恐らく、些か乾いた心に、この種の潤いをもたらす効果があるのだろう。

 「ストレイト・ストーリー」(1999年製作)のオーソドックスなヒューマニズムとは切れて、再び先祖返りしたような本作の構築力の高さは、観る者に一度観たら忘れない独創的な表現宇宙の魅力に充ち溢れていて、難解な内容の謎解きというゲーム感覚のレベルを越えた映像総体のうちに検証される何かだった。

 フロイト夢分析まで含めた抑圧的意識、不安や希望の顕現や、数多の情報の処理機能。

 これが、未だに科学的に解明し得ない「夢」の世界の、摩訶不思議な内実である。

 その摩訶不思議な世界に決定力を付与しているのは、何より、それが人間の自我によって自在にコントロールし得ないという一点にあるだろう。

 だから人間は、「夢魔」にしばしば拉致され、様々に情感的攪乱を受難するに至る。

 と言っても、それはガードレールクラッシュを経験した12年前の悪夢によって、「夢」を見るのが怖くなった私自身の、その固有の感懐に集中的に表現される世界であるに違いない。

 この「夜の果てへの旅」は、どこまでも続く、恐るべき「夢魔」のゾーンであり、それは紛れもなく、「日常の中に巣食う非日常」の違和感以外の何ものでもないのだ。

 然るに、それは、「日常の中に巣食う非日常」の破壊力が増幅した「夢魔」から「生還」したときの、「ほんの少しの安堵感」の価値を実感させるための相対化戦略であった。

 そう思うことによってしか、厄介なる、私の「日常性のサイクル」の継続力が保証されないのである。

 しかし、「現実」と思しき世界が、「夢魔」のゾーンと等価なものでしかないならば、その「現実」と思しき世界からの脱出への躙(にじ)り口を抉(こ)じ開けて、束の間、「シンデレラ・ストーリー」という妄想が詰まった摩訶不思議な「夢」の世界に、その身を預ける思いは局面防衛戦略として有効であるだろう。

 そこは、人間の自我によって自在にコントロールし得ないが故に、運が良ければ、切望して止まない希望の顕現を風景化してくれる可能性を持つからだ。
 
 まさに、本作のヒロインの局面防衛戦略は、彼女なりに成就したのである。
 
 
(人生論的映画評論/マルホランド・ドライブ('01) デヴィッド・リンチ <ゲーム感覚で「読解」の醍醐味を味わう「知的過程」を相対化する戦略的表現宇宙> )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/07/01_22.html