1 「銃剣とブルドーザー」 ―― 米軍の土地接収事業という暴力性
1450年代。琉球王国は他国と親密な関係を築き、世界の架け橋となって繁栄したと言われている。
1879年、日本が琉球(りゅうきゅう)を併合し、450年続いた琉球王国(成立は1429年)が消滅して沖縄県となった。
沖縄では14世紀に琉球王国が誕生し、中国や東南アジアなど周辺諸国と交易しながら、「大交易時代」と呼ばれる一時代を築いた。
1609年に薩摩藩の武力侵攻を受けて以降は、薩摩の支配下に置かれたが、諸外国との交易は続き、日本や中国の文化も吸収しながら、独自の琉球文化を形成していくことになる。
琉球文化には、三(さん)線(しん)(三味線の起源の一つ)の伴奏によって踊る沖縄民謡、盆踊りのエイサー、獅子舞などが知られている。
当時の王府があった首里城など県内の9か所の遺跡は、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界文化遺産に登録され、当時の繁栄を現在に伝えている。(グスクとは城塞的遺構)
しかし、その琉球王国も、1879年に明治維新の余波を受けて幕を閉じ、沖縄県が誕生する。
1941年12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲し、沖縄県民も徴収され、戦争に巻き込まれていくようになった。
1944年10月10日、米軍による沖縄本島への空襲・1010(じゅうじゅう)空襲。
1944年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。国民は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」と教えられていたため、多くの住民が集団自決するに至った。
読谷村(よみたんそん)チビチリガマ。
米軍の残虐な仕打ちを怖れ、肉親同士が殺し合う。そこは、まさに地獄だった。画像は丸木位里(いり)、丸木俊(とし)の大作『沖縄戦の図』
この洞窟への避難者約140人のうち83人が非業の最期を遂げた、チビチリガマの集団自決。3・58
以下、「NHK チビチリガマの集団自決」、「沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~」からの引用です。
【Q:4月1日にアメリカ軍が上陸してきましたけれども。そのとき千代さんはどこにいましたか。
チビチリガマ(洞窟)にいました、4月。4月…私はもう最後でした、チビチリガマに。他の人たちはもう、チビチリガマとか、波平(なみひら)(地区)はシムクガマといって2つありますけど、大きな洞窟が、で、私たちはもう最後、死ぬつもりで出なかったですから、もう最後にこのチビチリガマから死に切れずに出たんです。
Q:死にきれないっていうのはどういうことですか。
弟が、3つ下の弟がいますけどね、これがもう、私は持ってる食糧全部食べて死ぬつもり、着替えて、もう家族輪になって死のうと言ってやっているのを、3つ下の弟が、「お父さんもお兄さんも帰ってきたらどうするか、私が死んだら兄さんたちはどうするか、誰もいないとどうするか、出よう」と言って、この一言で「そうだね」、と言って、そして母が、もう男はいないから母が先頭になって皆この、腰のひもを捕まえて、一人一人出てきたんですよ。もうそのころは火を焚(た)いて窒息死ですよ。あの、看護婦してる人が2人いましたけどね、部落の人が、で、この人たちはもう注射なんか持っていましたから、先に死んで、この家族は、他の家族の人たちはもう死に切れないで、そこで布団とか衣類なんか全部焚(た)いて、その煙が中に入っていたんですよ、ガマの、洞窟の中に入って行って、その、窒息死です。で、私も一週間くらいは黒いつばが出ましたよ。窒息。で、私たちは死に切れないで、この、弟のその一言で一人一人皆やってきたら、皆こっちも真っ暗だからあっちこっちにあの、痛めて、血も出ていましたよ。
そして、あのころ、姉の子供が2歳でしたかね、まだ赤ちゃん抱いてましたから、姉もちょっと体弱いから、母が、母はまた気丈な人でしたから、母が抱っこして上に出てきたら、アメリカさんがいっぱいいて、どうも、アメリカさんは非常に親切でしたよ、あのころ。どうもしない、出てこい出てこいして、上まで出て行ったらチョコレートあげようとしたけど、私はもう毒が入ってるから食べるなよと言って、食べなかったですが、アメリカさんはまた自分たちで食べてみて大丈夫大丈夫と言って食べたんですけどね、そしてトラックに乗せられて、あの、とうや(都屋)の収容所と言いますかね、そこに行かれて、その途中、もう私は海に捨てられに行くんだともう覚悟してましたけど、アメリカさん非常に親切で、あの、皆がいるところに連れていかれて、これが捕虜です。チビチリガマの、死に切れないで出てきた人も60名くらいいますよ。死んだ人も半分半分くらいは死んでます、向こうで。
あの、チビチリガマで。2つ、波平という部落は非常に、村でいちばん大きな部落ですけど、あの、ガマが2つあるんです。シムクガマというのとチビチリガマというのと。して、シムクガマはいっぱいして入れないで、私たちはあの、年寄り、80歳くらいなるおばあさんがいましたから、このおばあさんを担いで、あの、私と2つ上の兄と2人で、モッコ(運ぶ道具)にかついで避難なんかしたんですね。で、それであの、山原(やんばる・本島北部)なんかにも行けないで、チビチリ行こうとしたんだがもう行けないで、チビチリガマに戻ってきたんです。
Q:千代さんね、半分ぐらいは生き残ったって言ったんですけれど。半分ぐらいは何で死んだんですか。
半分、もう、自決です、本当に。もう戦争、皆戦ってますよ。あの、大人たちは。もう、竹やり持って、死ぬつもりで、皆出来る人は出なさいよーして、あれは誰か、命令があったのかわかりませんけどね、皆竹やりを持って突撃して行ったらバラバラバラバラーとやられたんです。出ると。出ると同時に。そしてもう、出られないでどんどんどんどん追い込められて、もう年寄りと子供たちは逃げきれなくて追い詰められたんですよ。そして死に切れないで、年寄りもたくさん出ていましたね、死に切れない年寄りたちが。
Q:そのとき怖かったですか。
ああもう、死ぬと思ってましたから、怖かったとかそういうことを考える…もう海に投げられるしか考えてませんでしたからね、トラックに乗せられて、出てきたらそんなに怖かったかな…。とにかくもう、戦争は大変でした。戦争は。もう、父も、父なんかもう最後の防衛隊ですよ。47歳で、馬と馬車を持って、最後の防衛隊。そして弾薬輸送、はこばー(運搬係)だったそうです父なんかは。兄なんかはもう、普通の召集、兵隊で行ったんですけどね。身内2人あっちに、礎(いしじ)(平和の礎・糸満市摩(いとまんしま)文(ぶ)仁(に)にある沖縄戦の犠牲者の名を刻んだ石碑)にいます。もう二度と、本当に二度と戦争はもう、やりたくないですね。本当に。もう、でも、体験者はもう私たちが最後じゃないですかね。もう皆いなくなって、私が6年生とか、高等1年生ですからね。私がいちばんもう、2、3歳ぐらい上までいますかね、そんなですね。60何名かはチビチリガマから出ています。
Q:同じ60何名(チビチリガマの死者は83人と言われてる)の人がガマで亡くなったんですか。
亡くなって、私は足、踏んで出てきていますよ。もう、息も絶えて、あの、たくさん煙を飲んだ人たちはもう息もできなくなってうなってました。それを今度は足で踏んで、ずっと奥に奥に逃げて行きましたから、足で踏んで、一人ずつ腰のひもを捕まえて、あの、倒れてる人を足で踏んで出てきました。
Q:その感触は覚えていますか。
覚えてますよ。もう、集まって、家族集まって輪になって、食糧も全部食べて、「死のうねー」と言ってやりましたからね。これはもう、はっきり覚えてます。
かわいそうでした、本当に。私もやがて、やがてでしたよ。一週間くらいたんがでて、黒いたんが出て、あのときは忘れられませんね。だから生き残りの人たちもこの、亡くなった人たちに対して、済まないという気持ちで皆結束して、これはもうあの人たちに対して済まないから言わないでおこうねと言って、皆口を閉ざしてなかなか言わなかったですよ。生き残りの人たち。だけども、そういう先輩の方々も皆亡くなっていますからね。あんまり分からないはずです。私の年代がもういちばん若い。年が上で。もう、あのころ、勉強もあまりしないで、もう、あの、何運んだかね、木の皮削りに行ったり、あんなでしたからね、沖縄は。学校も勉強もしないで、だからできないようになったかなーと思いますよ/証言者は大湾千代さん。読谷村(よみたんそん)に生まれ、読谷村のチビチリガマでの集団自決で生き残った】(「NHK チビチリガマの集団自決」)
【3か月間に及んだ地上戦で20万人を超す死者を出した「沖縄戦」。そのうち9万4千人は、沖縄の住民だったとされています。
大湾千代さんは、米軍の上陸地点となった沖縄本島中部・読谷村に住んでいました。当時、読谷村には住民総動員で作られた陸軍の北飛行場がありました。大湾さんは、およそ140人の地元住民とともに洞窟、「チビチリガマ」に潜んでいましたが、米軍につかまれば残酷な方法で殺されると言われていたことから集団死が発生しました。家族の手によって殺されるという悲劇で、幼い子供を中心に83人が命を落としました。
大湾さんはかろうじて集団死を逃れることができましたが、防衛隊に参加させられた47歳の父と兄そして、姉を沖縄戦で失いました。
戦後、読谷村の大部分は米軍に土地を奪われ、村の面積の95%が米軍施設となり、生きるために八重山に開拓民として移り住んだ人もいました。また、村内では、不発弾処理がひんぱんに行われた上に、演習による死亡事故が起こり、人々を苦しめました。いまも、村土の半分が米軍施設という状況が続き、生まれ育った土地に住むことのできない人々が少なくありません。
大湾さんは、戦争の記憶と家族を失ったこと、チビチリガマで多くの人が亡くなったことにいまも苦しんでいます。また、飛び交う米軍機を見たり、その轟音を聞いたりすると、昭和19年10月の「十・十空襲」を思い出すと言います】(「NHK 沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~」)
沖縄決戦と呼ばれ、沖縄での組織的戦闘を行った大本営直轄の第32軍(沖縄守備軍)の使命は勝つことではなく、米軍を消耗させることだった。
大本営は本土決戦の準備の時間稼ぎのために、沖縄を捨て石にしたのである。
【第32軍は、1944年3月22日に、大本営直轄の沖縄守備軍として創設された】
松代(長野県)にある「松代(まつしろ)象山(ぞうざん)地下壕」に大本営を移し、本土防衛体制を構築して米軍を迎え撃つこと。これが32軍の使命だった。
主要政府機関や皇居を移すため、海から離れ、山が固いという理由で選ばれた松代の地下壕造営には、1万人の日本人、沖縄人、朝鮮人が駆り出された。
「沖縄戦の位置づけというのは、大本営ができて天皇を守る体制、国を守る体制、本土を守る体制ができるまでの時間稼ぎのために沖縄を使った。その流れの中で、『32軍よくやった』という打電を受け、牛島満(中将)は自決した」
沖縄戦は、本土を守る体制ができるまでの時間稼ぎのための戦争だったのだ。
1945年6月23日、第32軍司令官・牛島満(みつる)の自決によって、沖縄での組織的戦闘は終結する。
生き延びた生存者は収容所へ移送される。
壊れた家を修復する。拾ってきた物で新しい家を建てる。
新しい生活が始まったのだ。
しかし1950年2月、「沖縄に恒久的基地建設を始める」とGHQは発表し、住民の強制的土地接収を遂行していく。
それは、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれるほど暴力的なものだった。
1954年1月、米大統領は「沖縄を無期限管理」と明言する。
「自分たちの土地で、自分たちの沖縄県なのに、自分たちの物じゃないなと。その米軍基地というもの。戦争の道具・装置というものが、これはちょっと違うだなと…」
「強制収用というものは軍事基地ですよね…我々の仲間の血を流して獲得した土地である。占領地だという意識ですね」
また、先祖の墓が基地内にあるという強制収用があった、と証言する僧侶。
1952年2月、読谷村(よみたんそん)で強制的土地接収が始まり、そこでソ連と米国の冷戦時代に世界中に造られたのが、あらゆる軍事通信の傍受・分析を担う「象(ぞう)の檻(おり)」だった。
「トリイステーション」(トリイ通信施設/沖縄県読谷村にあるアメリカ陸軍の基地)となる場所は、「反戦地主」として知られる知花昌一さんたちが代々受け継がれてきた土地だった。
この土地の返還を求めて家族と共に明け渡し訴訟を起こしたが、日本政府は1997年4月、「米軍用地特別措置法」を改正し、使用期限を事実上、半永久的に延長可能とした。
「僕は国会にまで行って抗議をして、そこでパクられたんですよ」
【Wikipediaによると、知花(ちばな)昌一(しょういち)さんは、不法占拠状態に対して国に国家賠償訴訟を提起していたが、国が供託金を既に払っていることを理由に請求を棄却する判決が2003年11月に確定した】
【「銃剣とブルドーザー」とは、沖縄戦後から米軍が基地を拡大するために武装兵を送り込み、ブルドーザーで沖縄住民の家屋や土地を破壊し、暴力的に実施された土地接収事業のこと。住民は収容所に送られ、広大な土地が接収されて基地建設が進められた。/「象の檻」は、沖縄に集中する米軍基地問題の象徴の一つでもあり、住民の日常生活の傍に巨大な諜報施設が存在する異様な光景は、沖縄の抱える重圧を物語っている】
アメリカの文化や米軍兵のデザートに憧れていたという人や、服をもらって喜ぶ人、アメリカ人に親近感を抱くなどという沖縄の人も多くいたにも拘らず、やっぱり「基地の問題は…」というところに落ち着くのである。
年間で4万回以上の離発着が行われている嘉手納(かでな)飛行場。
「嘉手納飛行場の訓練で、本当に低空で飛んできて、何回も夜中から。夜は飛ばさないと、そういう嘘を言う。日本政府と約束しても守らないですね。それを守らないのは日本政府が弱腰じゃないかと思う」
タッチアンドゴー(離着陸訓練)などによる基地周辺の騒音は、大きい時で100デシベルを越える。電車が通る時のガード下の音量、即ち、隣同士で話しても聞こえないレベルの騒音である。
【アメリカ空軍が運営する嘉手納飛行場(嘉手納基地)は、4000級の滑走路2本を有し、100機以上の軍用機が常駐する極東最大の米軍基地である。軍人・家族、軍属、日本人従業員を含め人員2万人以上に上る。面積においても品川区とほぼ同等の20平方km(東京ドーム約420個分)、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である/ウィキ】
1960年代後半、コザの街は米軍兵で賑わっていた。
彼らの多くは貧しい家庭で生まれ育っており、金を稼ぐために入隊した者が多かった。
でもベトナムへ行って命を失うことになれば、貰った金も意味がなくなる。
ベトナムに派兵される、その前の日に、有り金を全て使ってしまう者が数多くいた。
もう生きてアメリカに帰ることはできないかも知れない。そんな思いを抱えながら、兵士たちが酒を飲み続けたのが、この街である。
1959年、米軍戦闘機 うるま市に墜落 17人が死亡、210人が重軽傷
2004年8月 米海兵隊のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落・炎上
2016年12月 名護(なご)市にオスプレイが墜落
2023年8月 オーストラリア沖でオスプレイが墜落 3人死亡
【オスプレイ(V-22)はアメリカ海兵隊の輸送機で、飛行機とヘリコプターの両方の特性を兼備し、飛行機のように速く、ヘリコプターのようにホバリング(空中停止)が可能。日本には、陸上自衛隊が17機を配備している。またオスプレイの事故は、プロペラとエンジンを繋ぐクラッチが離れ、それが再結合する際に衝撃が発生する現象(ハード・クラッチ・エンゲージメント)によって発生する】
米軍兵による事故・犯罪が多発するという沖縄特有の厄介な問題があり、沖縄県民でないと分からない問題が多々ある。
「沖縄以外に住んでいても大きな事件は報道されるんですけれども、こちらに来ると、それ以上に、もう毎日毎日、事件や事故のことが米軍関係で報道されていて、自分も通勤で車で走っていると、米軍車両が事故を起こしたりするのを見て、自分たちが報道で知ることのない事件や事故が如何に多いかということに本当に驚きました」
「本土」では理解に及ばず、沖縄県民でないと実感できない問題が並はずれて多いのだ。
「本土」で沖縄の印象を聞くと、以下の通り。
「沖縄、好きですよ。青い海と温暖な気候。また行きたいな!」(OL)
「毎年、サーフィンに行っています。海の色、違うでしょう?」(大学生)
「行ったことないんですよ。奇麗な海見て、仕事のこと忘れたいよ」(会社員)
「え、基地問題?よく分かんない。まあ、仕方ないんじゃない」(OL)
「台湾有事が叫ばれている今、やはり沖縄の米軍がいないとね」(会社員)
「基地問題?関係ないんじゃない?沖縄、あ、毎年行きます。ゴーヤチャンプルー、好きですよ」(会社員)
【「本土」とは、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」(沖特法)によると、沖縄以外の日本の地域を「本土」と定義している。要するに、「本土」の概念は、離島・属国・植民地などとの対比で使われるのである】
人生論的映画評論・続: 沖縄狂想曲('23) 「沖縄」とは何か 太田隆文