千夜、一夜('22)   強靭なナラティブを繋ぎ、今日という一日を生きていく

1  「何も言わずに、皆、いなくなっていくからさ。置き去りにして忘れて行くからさ。勝手だわね」

 

 

 

 

裸で抱き合う男女。

 

「世界一周って何?遠洋の船?」

「マジェロ、トラック、ニューカレドニア、サンチャゴ、レシフェケープタウンラスパルマスカディス

 

【それぞれ、マジェロ(マーシャル諸島共和国の首都)、トラック(西太平洋・ミクロネシア連邦のチューク諸島)、ニューカレドニア(オーストラリア東方の島)、レシフェ(ブラジル)、ラスパルマス(スペイン・カナリア諸島)、カディス(スペイン南西部の港湾都市)】

 

目を覚ました若松登美子(以下、登美子)は洗面所で顔を洗う。

 

外国からのペットボトルなどのゴミが打ち上げられた、誰もいない浜辺を歩く登美子が、緑のシーグラスを拾って見つめる。

 

佐渡の港町に暮らす登美子は、30年前に、突然、失踪した夫の帰りを待ちながら、水産加工場で働いている。

 

漁から戻った藤倉春男(以下、春男)がレジ袋を持って作業場に来て、黙って登美子の横に置いて出ていく。

 

仕事の休憩中、仲間の妙子が登美子に話しかける。

 

「春男さんに言われたんだって?“所帯持ってくれ”とかって。みんな知ってるからさ…断った?」

「返事してない」

「お節介かもしれないけどね。少し考えてみたら?…もう充分待ったんじゃないの?登美ちゃん。春男はイヤか?」

「そういうことにしといてよ」

 

軽自動車で実家に寄った登美子は、庭に出て海を見ている母絹代に声をかけた。

 

「どうしたの?」

「ちょっと、外の様子をね」

 

春男からもらった魚を捌(さば)いてから、海が見える高台の自宅に戻る登美子。

 

「ただいま」と家の中に呼びかけても誰もいない。

 

玄関に持たれて遠くの海を見つめる登美子。

 

看護師の田村奈美(以下、奈美)が、元町長の入江の家を訪ねて来た。

 

「この島は、昔から行方不明者が多かったんですわ」

 

奈美は夫が2年前に失踪し、その相談にやって来たのだが、妻が寝たきりとなった今、あまり動けないと話す入江。

 

そこで入江は、奈美にチラシを配り、夫を懸命に探している登美子の昔のビデオを見せ、彼女なら手伝ってくれるだろうと紹介する。

 

早速、奈美は春男の案内で登美子の家に連れて行ってもらう。

 

壁一面に、失踪に絡む新聞記事や写真などを貼っている登美子の部屋。

 

「拉致されたのかもって」と奈美。

「どうして、そう思うの?」と登美子。

「私、在日三世なんです。帰化してるんですけど、自分で。だから、夫が韓国語に興味を覚えたのかなって。あの、この島、何度か不審船が漂着したことありますよね?夫が声をかけられて、親しみか何か感じて、連れ去られた可能性もあるのかなって思って」

「最近は、どうでしょうね。特別失踪人とか認定されても、それで状況が変わるとか、あまり期待しない方がいいと思うんだけど」

「理由が欲しいんです。いなくなった理由です。自分の中で何か、決着がつけられればって」

「そう」

 

奈美は夫の写真を登美子に見せる。

 

「田村洋司、40歳、中学校教師。2年前の3月24日土曜日の午後、散歩に行くと言って家を出た。帰ってこなかった…」

 

登美子は自分のノートに書き留めた。

 

機織りをする春男の母千代が、飲んだくれて帰り、畳の上に寝転んだ春男に毛布をかける。

 

「情けねえ」

 

翌日、加工場で掃除をしている登美子の元に千代がやって来て、春男との結婚を頼み込む。

 

「あいつと、一緒になってくんねぇか。自分の世話してもらいたいとか、そういうことで言ってんじゃないよ…ただ、あいつのこと考えるとさ、死んでも死にきれないんだよ。このまま一度も結婚もしないで、何の楽しみもなくて、毎日魚獲って、酒飲んで一生終わっちまうんだよ。自分の息子じゃなくても、不憫だと思うんだよ。登美ちゃんは、ずっと旦那さん待ってるかしんないけど、あいつだって、ガキの頃からずっと登美ちゃんのこと、待ってんだ。考えてくんねぇか?」

「おばちゃん、春男ちゃんがどうのこうのっていうよりもね、私、まだ結婚してるの。夫婦なの。何の届け出も出してないのよ」

「何で…だめなの?」

 

登美子は返事をせず、無言で作業を続ける。

 

帰宅した登美子が、古いラジカセでカセットテープを再生し、録音された若かりし日の夫の諭(さとし)と自分の声を聴く。

 

「“何してんのよぉ”」

「“録(と)ってんだよ。こっちこいよ”」

「“今、手ぇ離せないって”」

「“いいからさぁ。声、録ってんだよ。自分の声、聞いたことないだろ”」

「“イヤよ。恥ずかしいわよ…わっ!”」

「“ふふっ、なんだよ、それ。おい、こっち来いって”」

 

奈美が物憂げな表情で、自宅マンションから外を見ていると、登美子がやって来た。

 

理科の教師だった洋司の部屋を見て、浜辺の散歩で拾ったたくさんのシーグラスの一つを手に取った。

 

子供が産まれたら必要になると買った大きな冷蔵庫を見て、洋司が変なことを言ってたことを思い出すと話す。

 

「冷蔵庫の中に入っているものって、僕らに食べられるのをビクビクしながら待ってるんだろうなって。夜中に…変な人でしょ」

 

「田村洋司。失踪当時の年齢、38歳。身長175cm、血液型O型…」(登美子のモノローグ)

 

二人はマンションを出る。

 

昨日、洋司がアパートの前にしゃがんでいる夢を見たと奈美が話す。

 

「声をかけたら、いなくなってしまって。若松さんは見ますか?」

「見ないの。出て来ないの」

 

奈美にどんな人かと聞かれ、遠洋の船員だったと答えた登美子。

 

「船に乗ったまま、帰ってこないんですか?」

「帰って来て、いなくなったの…この浜で無理やり船に乗せられたのかなって、思ったこともある。だったら、何か落ちているかも…波にさらわれて、どこかでうちあげられてるかもって、探したこともあったな」

「理由が知りたいです」

「どうしていなくなったのか、どこにいるのって、いろいろ考えてしまう。夜中に電話がかかってきたことない?」

「あります。黙ってるんです…“あなた”って言ったら、ブツって切れました」

「何なんだろうね。あとで、本人だったんじゃないかって思いたがってる」

「あの…悲しくないですか?待ってるのって。自分だけ置き去りにされて」

「昔はね、そう思ってた。だから、気持ちは分かると思う」

「今は?」

「帰って来ない理由なんかないと思ってたけど、帰ってくる理由もないのかも知れない。もういないかも知れない。人って、呆気ないから」

 

登美子が奈美を警察署に連れて、身元不明の遺体情報と似顔絵の掲載データをパソコンで閲覧する。

 

帰り際、登美子は「もう少し調べてみる」と奈美に告げる。

 

登美子は洋司の同僚だった教師から、話を聞いてノートに取る。

 

「少なくとも、いなくなる理由があるとは思えないな」

「悩んでいたとか?」

「自分をさらけ出すタイプじゃなかったから…夢の話したな…デジャブって。いつも同じ町が出てくるんだって。知らない街なんだけど、見る度に懐かしい気持ちになるって」

 

帰り道、酔っ払った春男と遭遇し、歩道に倒れ込む春男は、登美子に「面倒をみさせてくれ」と頼み込み、諭の当時の様子を話す。

 

「前の日に岬で見かけた時さぁ、どこかへ行くようなそぶり見せてたじゃんか」

「聞いてない」

「言ったさ」

「言ってない!」

 

登美子は踵(きびす)を返し、走って家に戻る。

 

登美子は図書館で、洋司が失踪した日の新聞記事や天気を調べ、拉致の可能性が低いことをノートに記す。

 

座卓で居眠りする登美子は、久し振りに諭(さとし)が夢に出て、追い駆ける。

 

実家に行くと、母が登美子に死んだ父のことを話す。

 

「いろいろ、すまなかったね。謝ったおかなきゃ。お父さんのこと。酒飲んで、手ぇ上げて、お前のこと守れなかった…あんな人じゃなかったんだよ。片脚なくして、戦争から戻ってきたら、違う人になってて…何かあったんだよ、きっと」

 

漂着船に乗っていた男が捕り、病院へ搬送されたと知った登美子は、夜、男に面会しようとして阻止される。

 

当直の奈美が男の病室へ連れて行くと、登美子は目を覚ました男に、諭の顔写真の行方不明のチラシを見せ、情報を得ようとした。

 

男が騒ぎ出し、警察沙汰となるが、入江が迎えに来て署から出て来る。

 

「若松さんは激しいな。昔を思い出しましたよ」

「腹が立ってるんですよ、自分に。あの人のこと、忘れそうになるんです。もう、意識しないと思い出せない」

 

夜勤明けの奈美を待つ同僚の看護師・大賀(おおが)を、自宅のマンションに連れて行く。

 

「旦那さんを、待ってるの?」

「分からない。あの人…夕べの。もう30年くらい待ってるの…」

「奈美さんはどうなの?」

「できないと思う。」

 

登美子が実家へ行くと、母が父の義足を抱いて死んでいた。

 

葬式で、親族側に一人ポツンと座り、参列者に頭を下げる登美子。

 

突然、「佐護おけさ」を皆が歌うので、驚いて見上げる。

 

荼毘に付した後、妙子から「佐渡おけさ」を歌うことを頼まれていたらしいと聞かされる。

 

「肝心な事、何も言わないから…何も言わずに、皆、いなくなっていくからさ。置き去りにして忘れて行くからさ。勝手だわね」

 

母を喪って、孤独を噛みしめる登美子の思いが伝わってくるようだった。

 

 

人生論的映画評論・続: 千夜、一夜('22)   強靭なナラティブを繋ぎ、今日という一日を生きていく  久保田直 より

 

嵐が丘('92)   憎悪の感情の束の意味が打ち抜かれゆく

1  「毎日、君が戻るのを荒れ地で待っていた」「…私を信じて。私は必ず戻ってくるわ。何があろうと」

 

 

 

荒野を散策し、廃墟となった館に辿り着くエミリー・ブロンテ

 

「荒れ果てた館。誰が住んだのか。どんな生涯か。何者かに導かれるように、私は書き始めた。ここで、実際に起きたであろう出来事。私の想像の世界。それが、この物語だ。だがどうか、微笑みは忘れてほしい。見知らぬ訪問者」(エミリー・ブロンテのモノローグ/以下、モノローグ)

 

嵐の中で道に迷ったロックウッドが、「嵐が丘」という名のヒースクリフの屋敷の戸を叩く。

 

ヒースクリフさん?」

「お待ちを」

 

使用人がいなくなり、薄暗い居間に入って行くと、正面の大きな暖炉の上には女性の肖像画がある。

 

隣のテーブルには、その女性とよく似た若い女性・キャサリンが座っている。

 

二人の男が入って来た。

 

「なぜ、こんな嵐の晩に来たのかね?」とヒースクリフ

「荒れ地で迷ったのです」

 

しかし、ロックウッドは宿泊を頼むが、「地獄へでも行け」と断られる。

 

それでも泊めてもらうしかないと椅子で横になろうとすると、キャサリンが2階の部屋を案内する。

 

ロックウッドはロウソクの灯で部屋を照らし、目についた扉の奥の箱部屋に入って行く。

 

小さなベッドがあり、出窓の埃を払うと、「“キャシー”」と彫られ、本にも「“キャシー・ヒースクリフ、キャシー・リントン、キャシー・アーンショー”」と殴り書きされている。

 

突然、木の枝が窓を割り、それを押し戻そうとすると、人の手に掴まれる。

 

女の亡霊の顔が浮かび上がり、「中に入れて」と訴え、ロックウッドは思わず叫び声を上げる。

 

「ロックウッドは、異様な物語の扉を開いた。それは30年前のある晩のこと。老人が嵐が丘に戻って来た。長旅で疲れ切った足をひきずりながら」(モノローグ)

 

主人のアーンショーが、リバプールから身寄りのない男児を連れて帰り、息子のヒンドリーが兄に、娘のキャシーが妹になると紹介する。

 

その男児ヒースクリフと名付け、アーンショーは我が子として可愛がるが、ヒンドリーは気に入らず、辛く当たる。

 

「キャシーは無口な少年に心引かれた。だが彼の沈黙は、優しさではなく、冷酷さだった…キャシーは実の兄より、彼が好きだった。2人は荒々しい大地への情熱を分かち合い、岩や重く沈んだ空を愛した。ヒースクリフは溺愛されたが、アーンショーの死で保護してくれる人を失った」(モノローグ)

 

葬儀の場でヒンドリーがヒースクリフに言い放つ。

 

「お前はこれから馬小屋で暮らすがいい」

 

以降、ヒースクリフは召使として、朝早くから仕事をさせられる。

 

成人になったヒースクリフとキャシーは、身分の違いにも拘らず、相変わらず仲良く、ヒンドリーの目を盗んで、2階の箱部屋で遊び、愛し合う。

 

荒れ地で語り合う二人。

 

「心を通じさせよう。あの木と。木の声を聞いて…君の名を呼んでる」

 

走り出したキャシーを捕まえ、耳元で囁(ささや)くヒースクリフ

 

「目を閉じて…もし目を開けた時、太陽が輝いていたら、君の未来も輝く。でも、雲がたれ込めて、嵐となったら、それが君の人生だ。さあ、目を開けて」

 

すると、にわかに雷が鳴り、黒い雲がたちこめる。

 

「何をしたの?…信じるものですか」

 

キャシーとヒースクリフは、木の上から立派な屋敷を望んでいる。

 

「木立の奥に見える、深紅のじゅうたんの館。そこはリントン家のエドガーと彼の妹イザベラの屋敷だった」(モノローグ)

 

そのリントン家の兄妹が遊んでいる様子を覗いていた二人は、家の者に見つかり、走って逃げるが捕捉されてしまう。

 

犬に嚙まれ大怪我をしたキャシーはリントン家で手厚く手当てを受け、召使のヒースクリフは屋敷から排除される。

 

ヒースクリフは、リントン家から戻って来ないキャシーのことが気になり、通っている召使のネリーに様子を尋ねる。

 

「俺への伝言はなしか」

「お嬢様は変わったわ」

 

元気になったキャシーがアーンショー家に戻り、早速、ヒースクリフの元へ行くが、その表情は硬かった。

 

「握手していい。特別に許そう」とヒンドリー。

 

キャシーが笑いながら手を取ると、「笑い物にするな」と反発する。

 

「ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」

「俺に触るな」

 

アーンショー家のパーティーで楽しそうにエドガーと踊るキャシーを見ていたヒースクリフは、「奴を追い出せ!」とヒンドリーらに暴力的に放り出されてしまう。

 

小部屋でヒースクリフは、出窓にキャシーの名前を彫り、キャシーは彼を宥(なだ)める。

 

「あなたの欠点は、恩義を理解しないことだわ。3カ月、世話になったのよ」

「…毎日、君が戻るのを荒れ地で待っていた」

「…私を信じて。私は必ず戻ってくるわ。何があろうと」

「必ず?」

 

キャシーは笑顔で答える。

 

「ヒンドリーの妻フランセスは、出産して死んだ。ヒンドリーは泣くことも祈ることもできず、人生に対し、あらゆる興味を失った」

 

産まれた赤ん坊は、「ヘアトン」とキャシーが名付け、洗礼を受ける。

 

エドガーとイザベラが来るというので、喪中にも関わらず着飾り、鼻歌を歌うキャシーに、ヒースクリフが自分とエドガーのそれぞれに、キャシーが会っていた日に印をつけた紙を見せる。

 

「バカみたい。いつも一緒にいろと?面白い話もできないくせに」

「以前は俺を無口だとも、嫌いだとも言わなかった」

「無知で無口な人といても、楽しくないのよ」

 

嵐の夜、赤ん坊をあやすネリーに、キャシーがエドガーから求婚され、承知したことを嬉しそうに話す。

 

「彼を愛しているの?」

「もちろん。愛さずにはいられないわ」

「どうして?」

「ハンサムだし、一緒にいると楽しいもの」

「理由にならない」

「それに、若くてほがらかよ…お金持ちだから。私はこの地で一番の令夫人になれる」

 

笑いながら答えるキャシーに、ネリーは真顔で尋ねる。

 

「それが望みなの?なら結婚しなさい。なぜ悩むの?」

 

キャシーも真顔で答え始める。

 

「私の魂や、心が言うの。間違ってると。兄のせいでヒースクリフは下劣な人間に。今の私にとって、彼との結婚は不名誉よ。でも誰よりも、彼を愛してるの。私の悲しみはヒースクリフの悲しみ。私は彼を見つめ、心を痛めてきたわ。今までずっと…エドガーへの愛は、木の葉のようなもの。時と共に変わる。冬に葉が落ちるように。ヒースクリフへの愛は、違うの。まるで大地の岩のよう。人目を楽しませはしないけれど、大切なもの。ネリー、私はヒースクリフなの」

 

扉が開く音がして、一部始終を聞いていたヒースクリフが、屋敷から出ていったのだった。

 

大雨の中、泣きながら外に出るキャシー。

 

「あの人を失ってしまったんだわ」

 

「…嵐の夜を最後に、ヒースクリフは姿を消した…キャシーは心の傷も癒え、彼を待ったが戻ってこなかった。彼女の嵐が丘での思い出は遠くなっていった。エドガーとの結婚は幸福ではあった…だが残酷にも記憶は何度もよみがえり、苦しめる」(モノローグ)

 

  

人生論的映画評論・続: 嵐が丘('92)   憎悪の感情の束が打ち抜かれゆく  ピーター・コズミンスキー より

あのこと('21)  欲望の代償の重さ

1  「違法行為になる。加担したら刑務所行きだ」「不公平よ。もしかしたら流産するかも」

 

 

 

1960年代のフランス。

 

寄宿舎生活をしている文学専攻の大学生アンヌは、寄宿生仲間のブリジットとエレーヌらとクラブへ踊りに行き、男性からよく声をかけられる。

 

そして学業は優秀で、教師からの評価も高い。

 

そんなアンヌは、ノートに“まだ生理が来ない”と書き記す。

 

浮かない表情で、両親が経営する小さな食堂に行く。

 

顔色が悪いと心配する母親は、客にアンナが大学について聞かれると、「優等生で、もうすぐ学士よ」と嬉しそうに口をはさむ。

 

その足でかかりつけの医師の診察を受けると、妊娠していると診断され、衝撃を受けたアンナは、「何とかして」と懇願する。

 

「無理な相談だ。私以外の医師でも違法行為になる。加担したら刑務所行きだ。君もね。最悪の事態も起こり得る。毎月のように運を試して、激痛で亡くなる女性がいる。そうならないように」

「不公平よ。もしかしたら流産するかも」

「可能性はある」

 

妊娠についての本を読み漁(あさ)り、誰にも相談できず悶々とした生活を送るアンナに、妊娠証明書が送付されるが、破り捨ててしまう。

 

電話帳で見つけた産婦人科へ行き、同様に妊娠していることを告げられ、学業を優先したいと話すと、「帰ってくれ」と相手にされない始末。

 

アンヌは「助けて」と帰ろうとしないので、生理が来る薬を処方されるのみ。

 

腿(もも)に注射を打ち、授業に勤しむアンナだったが、悪阻(つわり)がやってきて、効果はなかった。

 

男性とのセックスの妄想を話すブリジットに、アンヌは妊娠の可能性ついて話すと、エレーヌが「それだけはイヤ」と反応する。

 

「一巻の終わりよ」とブリジット。

「方法はあるけどね」とアンヌ。

「何のこと?」

「産まない方法」

「正気?冗談でも言わないで」

 

友人にも話せず、不安を募らせたアンヌは、女友達が多いクラスメートのジャンに告白し、闇医師の伝手(つて)を相談する。

 

最初は迷惑がるジャンだったが、アンヌを家に招くと、相手の男が政治学専攻の学生で、妊娠のことは知らないなど、根掘り葉掘りいきさつを聞き出そうとする。

 

「君がこんな事になるとは。意外だった」

「妊娠は初めて…来なきゃよかった」

 

ジャンはアンヌにキスをしようとするので、振り払って帰っていく。

 

寮の共同の浴室で、他の学生から夜遊びしていることを批判されると、アンヌは「黙れ!クソ」と振り切ろうとする。

 

「迷惑かけないで…寮にはルールがあって、皆守ってる」

「守れないなら出て行って。昨夜も出かけたのを知ってる」

 

孤立するアンヌは、部屋で一人涙するのだ。

 

7周目に入って、試験の成績が振るわず、アンヌに期待をかけていた教師から声を掛けられる。

 

「教師には才能が分かる。君を認めてた…試験はどうする気だ。受けない?」

「受けます」

 

不振の理由を訊ねられるが、アンヌは答えられなかった。

 

自暴自棄になったアンナは、いつものクラブで男たちから誘われるがままに踊ったり、散歩へ連れ出されようとすると、見兼(みか)ねたジョンやブリジットらが阻止する。

 

反発するアンナだったが、寮で心配するブリジットとエレーヌに、お腹を見せる。

 

「ウソでしょ。なぜ、そんな」とブリジット。

「処置する」

「やめて」

「どうしろと?お願い。誰か探して!」

「どうやって?」とエレーヌ。

「私たちには関係ない」とブリジット。

「だけど…」

「刑務所に入りたい?好きにして。でも巻き込まないで」

 

愈々(いよいよ)、孤立するアンヌの中絶への冥闇(めいあん)なる風景に終わりが見えないかった。

 

  

人生論的映画評論・続: あのこと('21)  欲望の代償の重さ  オードレイ・ディヴァン より

ムーンライト('16)   男らしさという絶対信仰が溶かされていく

  • リトル

 

 

 

フロリダ州マイアミ。

 

悪ガキたちに追いかけられ、廃墟のアパートに逃げ込んで来た黒人少年シャロン

 

その様子を見ていた麻薬売人のフアンが廃墟を訪れ、隠れているシャロンを食事に誘う。

 

警戒して黙っているシャロンを自宅へ連れて行き、一緒に暮らす恋人のテレサに託すが、やはりしゃべろうとしない。

 

夕食を食べるシャロンを見て、フアンが「食う時だけ口が動くな」と笑う。

 

「大丈夫よ。気が向いたらしゃべって」とテレサ

「名前はシャロン。あだ名は“リトル”」

 

下を向いたまま、シャロンがやっと口を開いた。

 

リバティーシティアメリカ最悪の街)に、母ポーラと暮らしているというシャロン

 

家に送ってほしいか訊ねられると、「いやだ」と答える。

 

一晩泊めたシャロンを家に送ると、ポーラが帰宅して来た。

 

自分が世話をした事情を話したフアンに、素っ気ない態度で接するポーラ。

 

仲間たちのサッカーの遊びの輪に入らず、一人離れていくシャロンを、友達のケヴィンが追いかけて来た。

 

「イジメられて平気か?」

「何で?」

「抵抗しない」

「どうするんだよ?」

「タフなところを奴らに見せろ」

「僕はタフだ」

「知ってるよ。でも奴らに分からせないと。そうだろ。毎日イジメられたいか?」

 

徐にケヴィンの頭を抱え、取っ組み合いが始まる。

 

家にフアンがやって来て、シャロンを海へ連れて行き、泳ぎを教えるのだ。

 

「感じるか?地球の真ん中にいる」とシャロンを支え、海に浮かせるフアン。

 

「覚えておけよ。世界中にいるぞ。最初の人類は黒人だ。俺はこの街に長い。出身はキューバ。知らないだろうが、キューバは黒人だらけだ。俺もガキの頃はお前みたいなチビで、月が出ると裸足で駆け回ってた。あるとき、ある老女のそばを、バカやって叫びながら走り回ってた。老女は俺をつかまえて、こう言った。“月明かりを浴びて走り回ってると、黒人の子供が青く見える。ブルーだよ。お前をこう呼ぶ。ブルー”」

「名前がブルーなの?」

「いいや。自分の道は、自分で決めろよ。周りに決めさせるな」

 

家に送ると、ポーラが乱暴にシャロンを家に入れ、ヤクをやっている男を奥の部屋へ押し込めた。

 

フアンが街路で仕事中、見慣れない車が停車し、近づき覗くと、車内でヤク漬けになっている男とポーラが目に飛び込んだ。

 

「ここから消えろ!」

「うちの子を育てる気?私の息子を?やっぱり、図星ね」

「母親だろ!」

「私にヤクを売ってるくせに!…私はあんたから買う。それでもシャロンを育てる?あの子の歩き方を見た?」

「黙ってろ」

「イジメの理由をあの子に言える?あんたはクソよ」

 

フアンはそれ以上何も言えなかった。

 

家に帰ったポーラに冷たい視線を向けるシャロンに、ポーラが何かを叫ぶ。

 

シャロンはフアンの家を訪ねた。

 

「“オカマ”って何?」“オカマ”

「ゲイを不愉快にさせる言葉だ」  

 

「僕は“オカマ”?」

「違う。もしゲイでも、“オカマ”と呼ばせるな」

「自分で分かる?」

「ああ。たぶん」

「そのうちね」とテレサ

「今すぐ分からなくていい」

「ヤクを売ってるの?」

「ああ」

「僕のママは、ヤクをやってるのよね?」

「ああ」

 

シャロンは無言で席を立って、フアンの家を出ていった。

 

ヤク漬けの母にうんざりする少年の思いが捨てられたのである。

 

  

人生論的映画評論・続: ムーンライト('16)   男らしさという絶対信仰が溶かされていく  バリー・ジェンキンス より

百花('22)  複層的に覆う負の記憶が解けていく

1  「息子がね。また迷子になってしまったんですよ」

 

 

 

自宅の団地でピアノ教室を開く葛西百合子(以下、百合子)が、シューマンピアノ曲子供の情景 7番 トロイメライ」を弾いている。

 

玄関の音がしたので立ち上がると、百合子が一輪の花を持ってキッチンに入って来た。

 

再び「トロイメライ」が聴こえてきて、部屋を覗くと百合子がピアノを弾いているが、途中でメロディが乱れる。

 

百合子が見える世界の再現である。

 

晦日の夜、音楽ディレクターをしている息子の葛西泉(以下、泉)が百合子を訪ねて来たが、真っ暗な部屋に百合子の姿がない。

 

泉は慌てて外に出て、夜の町を走って探し回り、公園のブランコに座っている百合子を発見する。

 

「半分の花火が見たいの」と呟いている百合子に、「母さん」と声をかけると、立ち上がって、「寂しかったわ」と泉の胸にもたれかかってきた。

 

思わず「やめてよ」と言って、泉は百合子を突き放し、我に返った母は、買い物に行こうと思ったと弁明し、家に戻って年越しの食事を支度する。

 

新年の挨拶を交わし、ソファの隣に座った百合子は、「今日、泊っていくんでしょ?」と甘えるように泉の腕を掴むので、ちょうど妻・香織(かおり)からの電話を取り、仕事のトラブルだと嘘をつき、泉は早々に帰って行った。

 

香織の妊娠検査に付きそう泉は、百合子から電話があったことを聞かされる。

 

その際に「半分の花火」の話をしたと言うが、泉はその言葉に覚えがなかった。

 

泉と香織が勤めるレコード会社に共に出勤し、バーチャル・シンガーKOEのプロジェクトに出席する。

 

「KOEは記憶のアーティストです。楽曲・歌声・容姿…1000人以上のアーティストから学習させています。加えて感情を育てるために、様々な記憶をデータ化し、KOEにも体験させています。ディープラーニング機械学習の発展形)によって人工的に外見を作る際に…人類の記憶の中にある理想のアーティストを目指して調整を重ねている段階です」(チームの田名部のアナウンス)

 

その頃、スーパーで買い物をしている百合子が、楽しそうに走り回る二人の少女に、「走ると危ないよ」と声をかけ、再び買い物を続け陳列棚を一回りすると、また少女たちが走るので声をかけるという動作を繰り返す。

 

通路の先に一人の男性が立っているのを見つけた百合子は、「浅葉さん!」と呼びかけながら出口に向かう男を追いかけ、買い物かごを持ったまま店の外に出たところで店員に捕捉されてしまった。

 

仕事中の泉に電話が入り、万引きで警察沙汰となった百合子を引き取りに行く。

 

そこで泉が香織の妊娠を報告すると、手を叩いて喜ぶ百合子。

 

病院でMRIを撮り、医師から進行性のアルツハイマーと診断され、薬で進行を遅らせることはできるが効果は限定的との説明を受け、泉はショックを受ける。

 

泉は、百合子と楽しく過ごした少年時代を思い出していた。

 

「これからが大変だと思います。お母さんをしっかり支えてあげてください。認知症になったからと言って、何もかもを忘れたり、分からなくなったりするわけじゃありません…敬意と愛情を持って接してあげてください」

 

百合子は傘を持って雨に打たれながら泉を探し、団地の階段を何度上がっても同じ2階のドアに突き当たり、その部屋に上がって通路を進むと、泉が「走れメロス」を音読している教室に入っていく。

 

豪雨の中、ヘルパーが目を離した隙に、百合子がいなくなり、泉は「お母さん!」と呼びながら必死に母を探す小学生の自分と重ねながら、走り回るのだ。

 

警察に保護された百合子は、泉の顔を見ると、「どこに行ってたの?ずっと探していたのよ。でもよかった。やっと見つけた…」と言って、満面の笑みを浮かべる。

 

「息子がね。また迷子になってしまったんですよ。もう暗くなるし、雨も降ってくるし。泉はね、傘を持ってなかったんですよ。どこかで凍えてるんじゃないかって心配で…」

 

夏になり、産休に入った香織と共に百合子を訪ねる。

 

道すがら、香織は百合子との同居を提案する。

 

「でも、もう決めたから」

「泉と一緒にいたいんじゃないかな」

 

まもなく、百合子を海辺の介護施設に入所させることになった。

 

百合子は気に入った様子だったが、帰り際、バスに乗ろうとする泉の手を引っ張り、「お花、買ってきてね」と手を握る。

 

泉はその手を振り切り、バスの後部座席に座ると、母を振り返ることもなかった。

 

実家に戻り、テーブルや冷蔵庫のゴミの片づけをする泉。

 

小学生の時、母に置き去りにされ、満足に食事も摂れず、祖母に電話をかけた過去の記憶が蘇る。

 

百合子の部屋のベッドの傍らに認知症の本が置かれ、複数のメモ用紙が挟まれていた。

 

食材や自分の名前、ヘルパーさんの名前や来る時間など、忘れないように書き留めていた百合子の、認知症の進行に抗う努力を目の当たりにして涙する泉。

 

ベッドの下から手帳が見つかり手に取ると、思わず嘔吐する泉。

 

若い頃の百合子が、神戸の阪神電鉄のすぐ横に走るアパートで、浅葉(あさば)と同棲生活を始めた。

 

母の手帳には、その時の様子が書かれていたのである。

 

浅葉は百合子のピアノの生徒で、家族を残して神戸の大学に教授として単身赴任する際に、百合子を誘ったのだった。

 

神戸の街で、同級生の恵(めぐみ)に遭遇した。

 

小さな姉妹が走り回り、百合子は「走ると危ないよ!」と声をかける。

 

浅葉は1月1日の百合子の誕生日にプレゼントを忘れなかったが、仕事で帰れないこともあり、百合子は「寂しかった」と身を寄せる。

 

それは、認知症になって無意図的に想起されるエピソード記憶だった。

 

【記憶には意味記憶エピソード記憶、手続き記憶という 3種類の長期記憶がある】

 

浅葉が不在の夜明け、阪神大震災の激しい揺れに襲われた百合子は、ベッドから起き上がって浅葉の名を呼び、倒壊した街を彷徨う。

 

走り出して海に出た百合子は、朝陽を浴びながら、「泉」の名を呟く。

 

浜辺で、小学生の泉と海を見る情景が浮かんだ。

 

いつしか、「泉!泉!」と海に向かって絶叫するのだった。

 

  

人生論的映画評論・続: 百花('22)  複層的に覆う負の記憶が解けていく 川村元気   より

暗殺・リトビネンコ事件('07) 「銃弾で死ぬか、毒殺されるか」という悍ましい負の連鎖

【本作は、優れた構成力による衝撃的なドキュメンタリーの必見の作品です(筆者)】

 

1  「どうして彼らはあんなに怒ってるのか。僕が“聖域”を侵したからだ。“集金システム”の暴露だ」

 

 

 

「私の身に何かあった時は、このビデオを公表し、世界に伝えてほしい。彼らは暗殺など平気だし、今でもやってきている。国内でも国外でも」(リトビネンコのモノローグ)

 

「悪夢以上のことがサーシャ(リトビネンコ)に起きてしまった」(アンドレイ・ネクラーソフ監督のナレーション)

 

リトビネンコの病室から出て来た監督へのインタビュー。

 

「幽霊のようだった。ショックだ。誰がやったのか!ひどすぎる…ずっと痛みに苦しんでる」

 

2007年4月末、帰宅した時の自宅の様子を語る監督。

 

「誰かが何も盗まず荒らしていた。冬の終わり頃、英国の捜査当局に今回の暗殺事件で聴取を受けた。あの時は充分話せなかったと今にして感じている。本作が私の証言だ」

 

「彼は毒殺で、世界の注目を集めたが、ロシアでも98年にも“時の人”に。テレビでFSB上司の汚職や殺人指令を告発したのだ」(監督のナレーション/以下、ナレーション)

 

直後、元FSB中佐リトビネンコらの記者会見の様子。

 

「FSBは賄賂まみれだ」

 

「この騒ぎは一時的で、彼の名はすぐ忘れられた…99年モスクワで連続爆破。数百名が死ぬ惨事はなぜ起きたのか」(ナレーション)

 

「爆破テロの犯人は、間違いなくチェチェン人どもだ」(モスクワ市長 ルシコフ)

 

【ルシコフは現国防大臣のショイグと共に、政権与党の「統一ロシア」の党首に就任し、強力なプーチン政権与党の結成に尽力】

 

99年の年末のエリツィンの退陣表明。

 

「去り行くミレニアムの最後の日に、私も大統領の職を去ることにした…ロシアはもう決して、過去には逆戻りしない…」

 

「休戦4年目でチェチェンとの戦闘が再開。チェチェンの同胞に対する人種的偏見ゆえに、我々はこの紛争を“戦争”と呼ばない」(ナレーション)

 

ここで、チェチェン紛争の被害者の映像が流される。

 

「2000年末、私の撮ったチェチェン・ドキュメンタリーが、独立系テレビで放映」(ナレーション)

 

会場でこの短編を見てどう感じたかを聞かれ、視聴者の一人が感想を語る。

 

「私は政治学者だが、主張が一面的だ。死んだ子たちの中からもテロリストは育ったろう…」

 

監督が持論を展開していく。

 

「戦争と呼ぶ場合は、“多少の犠牲は仕方ない”と言える。一方、我が国の指導者たちにとっては、対テロ作戦の方が都合がいい。だが、こんな対テロ作戦はあり得ない。欧米と比較してどうのこうのではなく、モラルも問題なんだ。国家は報復行為に走ってはならない。テロリストと同じ土俵で戦えばテロ国家になる」

 

「私は攻撃の残虐さを非難した。爆破テロの報復だと思っていたからだ。だが、別の疑問が人々の心に潜んでいた」(ナレーション)

 

小さな集会場での上映会での討論会では、一人の母親が戦争には断固反対で、映像を観てショックを受けたと話すが、一方で爆破テロがなければこうならなかったと談ずる。

 

「誰がやったの?いったい誰が?」

 

次にインサートされたのは、リトビネンコが爆破テロはFSBの工作であると告発し、ヒースロー空港(ロンドン)で政治亡命を申請するカット。

 

監督は知人に連絡してリトビネンコの所在を探し、政商ベレゾフスキーの事務所とコンタクトが取ることができた。

 

英上院でも審議会があり、チェチェン問題が議題で、チェチェン指導者ザカーエフが出席して発言する。

 

「我々は平和を望む。同時多発テロの時でもチェチェン政府は共にテロと戦うとすぐに表明した…」

 

【ザカーエフとは、チェチェン共和国の独立派指導者アフメド・ザカエフのことで、ロシア政府に国際指名手配され、2003年英国に政治亡命して以来、同国に滞在。現在は欧州各地を回っている】

 

ここにベレゾフスキーも出席。

 

「90年代、ベレゾフスキーはロシアの有力政治家で、無名のプーチンを支援し大統領にしたが、その後、決裂…2002年11月の寒い夜、ついにリトビネンコの住所を知った」(ナレーション)

 

リトビネンコとの対面。

 

「FSBとは、いったい何をする機関なのか」

「ロシアの諜報部だが、実体は政治的な秘密警察だ。彼らは容赦なく過激な手法を使うスパイ対策やテロ防止のためでなく、政権を維持するための機関なんだ。

99~2000年にかけてのプーチン政権誕生でも、FSBは秘密手法をフル活用した。本来はスパイやテロに対してのみ使うことが許される手法だ。軍部が政権を狙う場合は戦車や大砲を使うだろうが、そんなことをしたらみんなが気づく…ソ連時代のKGBは党の武装組織、そして、現在のFSBは一部の官僚たちの武装組織と言える」

 

以下、リトビネンコのインタビュー。

 

プーチンは大学へ入る前、KGBに協力を志願した。それで利用されたんだ。彼は在学中、級友の密告を求められた。おそらくKGBで最低1年は訓練を受けたろう彼が協力したのは、後のFSBとなる第5局だ。彼らの関心は1つ。“敵対的思想との戦い”がすべてだ。つまり反体制派の弾圧。プーチンの任務は学内で異分子を見つけること。誰が党や政権に批判的か。それを文書で報告する」

 

プーチンは、KGBの元同僚チェルケソフを北西ロシアの大統領全権代理に任命」(ナレーション)

 

KGB前でKGBの解体とチェルケソフの裁判を求める人たち。

 

リトビネンコのインタビュー。

 

「チェルケソフは言う。“反体制派の逮捕投獄は刑事事件として扱った。法に従っただけだ”。新しい社会体制になり、“合法国家”となった。公正な選挙。民主主義。一方、秘密警察はその存在自体が非合法となった。彼らを合法にする方法は、現政権の非合法化だ…自分たちの活動は合法になる。民主国家を非合法にするには?国家を戦争へと駆り立てればいい。チェチェン侵攻計画が練られた。FSBの前身FSKの長官らの主導だ」

 

【チェルケソフとはヴィクトル・チェルケソフのことで、「強硬派」を意味するシロヴィキの典型的政治家】

 

第一次チェチェン戦争におけるFSBが起こしたテロ事件について語るリトビネンコ。

 

「グロズヌイ(チェチェン共和国の首都)に戦車部隊が唐突に派遣されたんだ。当然攻撃され破滅。彼らはエリツィンに言った。“敵が戦争を仕掛けてきました”。和平派の議員団は、戦争を阻止するため、話し合いに出かけようとした。そんな時、また爆破テロ。しかもその前に副首相が、“テロリストが国内に潜入した情報あり”と、不安を煽る声明を出していた。つまり世論操作の後で爆破テロ。最初はヤウザ川で鉄橋が爆破され、シェフレンコ大尉が死亡。その後も鉄道爆破が続く…次にバスの爆破。この時は軍将校ボロビエフが有罪となって逮捕された。鉄橋爆破犯の大尉は『ナラコ』の社員で、そこの社長はFSB工作員。バス爆破犯もFSB工作員。全部FSBだ…戦争を始めたエリツィンは、非民主的で非合法な大統領と化した」

 

「戦争も流血も真っ平。呪われろ、エリツィン

「自由をくれたと思ったのに!」

 

国民の非難を一斉に浴びるエリツィン

 

「お前の手は息子らの血にまみれている!」

 

議会でもチェチェンへの攻撃が批判される。

 

リトビネンコのインタビュー。

 

「僕もチェチェンで戦ったよ。壊滅した村で捕虜をとった。尋問したのは17歳のチェチェン人の少年だった。しっかりして知的な教養ある若者だ。なぜ戦闘に加わったのかと聞いてみた。何て答えたと思う?17歳の少年はこう言った。“こんな戦争は嫌いだ。戦いたくない。それでもクラス全員が戦いに出た”それを聞いて僕は大戦の映画を思い出した。当時もクラス全員が前線に出ていった。今、チェチェンの少年たちが同じように戦ってる。これでチェチェンに勝てると思うかい?」

 

「90年代は自由だった?テレビ番組は自由に作れた。車で自由に買い物に行けた。そんな自由を喜んでいた。だが新しくて派手な現実の裏まで見通せなかった」(ナレーション)

 

元FSB将校で、リトビネンコの元上司アレクサンドル・グサクとリトビネンコのインタビューが交錯する。

 

「モスクワだけで34の犯罪組織があった」(グサク)

 

「組織犯罪の捜査を初めてその数の多さに驚いた。普通の国でこんな多数の投獄者はあり得ない。まるで犯罪者の国だ。何しろ、成人の50%が服役経験を持ってる」(リトビネンコ)

 

「…真面目な男だ。その働き方は献身的とさえ言える。つまり、捜査官として優れた能力を持ち、驚くほど粘り強い。しかも悪と戦う決意や正義感がとても強い」(グサク)

 

次に、リトビネンコ夫人マリーナのインタビュー。

 

「彼を利用できると思ってた人たちは、固い壁に突き当たる。そこで憎しみが沸き起こるのね。素直で扱いやすくてしめしめと思ったのに、結果はまるで正反対…彼を敵と呼び始める」

 

98年に収録された将校時代のリトビネンコ、グサク、ポンキン、キャスターのドレンコのビデオが流される。

 

そこで、不当解雇でFSB長官を訴えるトレパシキン中佐の逮捕の指令で、黙らせる手法について語られる。

 

そのトレパシキンのインタビュー。

 

上司の命令で悪質な犯罪組織を逮捕・起訴しろと言われるが、「いざ逮捕し始めると、犯罪者を守る“保護網”が登場した…操るのはFSBや参謀本部や警察などだ。そして暗にこう言う。“彼はいいが、彼は釈放だ”。起訴すべきだ。冗談じゃない」

 

【トレパシキンは、FSBの内部改革を求めるが、その後、逮捕されるに至る】

 

再び、4人のビデオでリトビネンコが語る。

 

「つまり、目的は彼の口封じだ。命令に強い不信感を持った…ある年の総括的な会議(97年末)で、上司カミシニコフが“ベレゾフスキーを消せ”と…カミシニコフはあるテロリストと通じ、FSBの捜査情報を流していた…憶測じゃない。証拠もある…そんなとんでもない男が僕にベレゾフスキーを消せと」

 

そのベレゾフスキーへのインタビュー。

 

「社会の本質的なあり方について、こういう仮説が成り立つ。最も効率的な政治システムとは、自己実現のための機会が最大限に、市民一人ひとりに与えられている状態だ。ただし、その際、市民に求められるのは一定の自制だ。とりわけ全体主義だった社会が自由主義社会へと移行するためには、十分な数の市民が納得し自発的に自己規制する必要がある」

「内面的な制限ですね…自由主義は身勝手と違う…人間が知恵を得るにはどれだけの代償が必要か。古い常識を脱するのは、何と難しいことかと思うよ」

「ロシア人には特に難しいと?」

「ある種の定説だ。ロシア人の精神性には隷属志向がある。だから統制社会を喜んで受け入れる。私も矛盾してるよ。自由主義を提唱しながら、一方でこう言うなんて。ロシア人は本来従属的で自由に慣れていないと。自由社会の自己責任をこれから引き受けられるだろうか。私は大丈夫だと思うよ。一党独裁が消えた後。ほんの10年で多くの起業家が出てきた。無党派の政治家も増えたし、ジャーナリズムも昔とは別物だ。歴史的な大きな1歩をロシアはもう踏み出せる。今の自由と独立の精神を強固にすることが課題だ。ところが現在の政権は、逆に自由を壊してる。ここが重要な点だ。上位下達の権力構造、メディア支配。こんなことをしてたら、ロシアに芽生えた自由精神は破壊されてしまう」

 

【オリガルヒの代表的人物ベレゾフスキーは、プーチンと敵対し、英国に政治亡命した後、2013年に変死する。死因不明と記録されるが、暗殺と見做されている】

 

キャスターのドレンコの取材を受けた時、映像の公表は死んだ時のみと取り決められていた4人のビデオが、8か月後にテレビで放映された。

 

そのビデオでリトビネンコが語る。

 

「公安の人間がテレビに出るべきではない。だが今、そうせざるを得ない。死は恐れていない。恐れるなら、こんな仕事はしてない。無論、妻と子は心配だ。とはいえ、たとえ危険を冒しても、今腐敗を止めなければ、世の中はスターリン時代よりもひどいことになる」

 

現在のリトビネンコ。

 

「FSBの上層部は、ほとんどが恥知らずで、しかも不可能はない。あの時のFSB長官がプーチンだった。言うしかない。無論止められた。“告発などやめろ”。やめれは出世させてやると。喜劇的ですらあったよ。“何が不満だ。他の仲間を見習え。年軒か店を見つけ脅して賄賂を取れ。月5000ドルは稼げる。だからバカなまねはよせ。適当な店がなければ、我々が探してやる”…副局長は興奮のあまり、ほかの同僚もいるのに、こう罵った。“ユダヤの政商一人殺す愛国心もないのか。国の富半分を盗んだ男だぞ”」

 

監督に語るリトビネンコ。

 

「反乱だ。まさに反乱。しかも公安機関の部署でだ。FSB全体が固唾を呑んだ。こんなのは前代未聞だろう。しかも、そこは最も秘密にすべき殺人専門の部署だ」

 

「問題なのは、彼らも98年のあの時、市民としてまっとうな勇気ある行動をした。犯罪行為をきっぱり拒否したんだ。上からの命令は絶対という立場にいながら、その組織に逆らった。彼らは僕と手を携え、肩を組んでくれた。それには感謝してる。6人の中には勤続25年以上のベテランもいた。それでも声を上げ、組織の過ちを指摘した。だが国は、その声に耳を傾けるどころか、我々を潰しにかかった」

 

今度はリトビネンコの行為を一刀両断する、FSB長官プーチンの会見。

 

「彼は刑事上の責任がロシア連邦に告訴された。容疑は職権乱用で拘留時の市民への殴打。さらに窃盗容疑…爆発物の窃盗だ」

 

しかし、法廷で「今回挙げられた起訴事実は、すでに以前捜査されたものであり、いかなる証拠も見つかっていない」と無罪判決を受けたその直後、FSBから再逮捕・連行されるのだ。

 

「まだ閉廷してません。場をわきまえなさい」

 

以下、リトビネンコを慕う、彼の部下のインタビュー。

 

「…彼は立派な人だ。俺は途方に暮れてる。連中は嘘の証言を俺から引き出して、彼を有罪にしようとしてる。だけど恩人を刑務所に送れるか?彼のおかげで俺はまともになれたんだ。“金だけで動くな。ローマ、まっとうな道を行くんだ。悪党やクズになるな”って。今俺は追われてる…ギャングからも国からも追われてる。頼る人もいない。もうおしまいだ」

 

記者会見に出た仲間は、次々に潰されていく。

 

上司のグサクは殺人容疑で逮捕され、リトビネンコを裏切る言辞を発する。

 

「4年間審問を受けた。私はすべてに答えたし、有罪になってない…私がリトビネンコをどう思ってるか?ただのクズだ」

 

リトビネンコのインタビュー。

 

「信じてる人は結構いるんだ。FSBは人殺しをやると。僕も友人に言われた。“暗殺はよくあるんだろう。なぜそれで騒いでるんだ?”…そのことで彼らを責める気はない…FSBはあらゆる手を打ってきた。組織の総力を上げて叩き潰しにきたんだ。その手法はどれも、かつてKGBが得意としていた名誉棄損、恐喝、脅迫、証拠捏造、事件のでっち上げ。FSBという巨大な戦車が反乱者を潰し始め、何人かは粉砕された」

 

2003年に逮捕されたトレパシキンが、別の監獄へ移送される前に電話で話ができた。

 

「例の記者会見で覆面をしてた男は、投獄されるのを逃れるために、元の課に連絡を取った。先方はこう言った“リトビネンコ潰しを手伝うなら許してやろう”」

 

リトビネンコのインタビュー。

 

「最初の裁判で僕を無罪にしてくれた裁判長にも、FSBは働きかけた。彼が拒むと、こう脅された。“無罪にしたら、次はお前だ”。この裁判長は解任され、左遷された。次は従順な判事が選ばれ、こう言われた。“3年だ。執行猶予でもいい。とにかく必ず有罪にしろ”」

 

「執行猶予付きで3年かな…逃げる必要はない」(プーチン

 

リトビネンコのインタビュー。

 

「“裏切り者は必ず殺す”。僕は彼らの敵になった…逃げることにした。なぜか?息子がいるからだ。あの子も殺されかねない。6歳の息子を見て考えた。僕はどうなってもいいが、彼を守ることが最優先だ」

 

トレパシキンの裁判について、リトビネンコは語っていく。

 

「各裁判所にFSB将校がいる。“法衣を着たFSB”だ。“いいかね。彼は刑務所に行くべきだ”。無理があって判事が渋ると、“上がそう言ってるんだ。その方は恩を忘れない。いいアパートに住みたくないかね…”そこで判事は思案する。確かに今の給料は安い…そして判事は“有罪”と書く。一丁上がり。これで彼は“お仲間”になる。万事言いなり。賄賂も取る。こうしたことはすべて逐一FSBに報告される。次にFSBが彼を訪ねてきて、報告書をちらつかせ、“でも君は忠実だから忘れよう”と(紙を破る仕草をする)」

 

リトビネンコは言い切った。

 

「どうして彼らはあんなに怒ってるのか。僕が“聖域”を侵したからだ。“集金システム”の暴露だ」

 

プーチンのロシア」という国家の本質を射抜くリトビネンコの極めつけの言辞である。

 

  

人生論的映画評論・続: 暗殺・リトビネンコ事件('07) 「銃弾で死ぬか、毒殺されるか」という悍ましい負の連鎖 アンドレイ・ネクラーソフ  より

線は、僕を描く('22)   二つの青春 ―― その浄化の旅

1  「なんもないところに、何かがポツンてある感じがしっくり来てる」

 

 

 

千瑛と署名の入った椿を描いた水墨画を見入り、涙を流す大学生の青山霜介(そうすけ、以下霜介)。

 

神社での水墨画の展示会の設営のバイトに来ていた霜介は、西濱湖峰(にしはまこほう、以下湖峰)に促され弁当を食べに行くと手を汚してしまい、初老の男性にハンカチを渡された。

 

それが、著名な水墨画家、篠田湖山(こざん、以下湖山)であることを、湖山が揮毫会(きごうかい)の舞台に上がり、紹介され初めて判った。

 

見事な筆さばきに惹きつけられた霜介は、思わず立ち上がって目を輝かせる。

 

作品を描き終え、万雷の拍手を浴びる舞台上の湖山が、霜介に「私の弟子になってみない?」と、大学の友人の古前(こまえ)と川岸や大勢の観客の前で声をかける。

 

「想像さえしてなかった。真っ白な紙にある、無限の可能性を。そこに一本の線が描かれるまでは」(霜介のモノローグ)

 

後日、湖山の弟子である湖峰の運転で、借りたハンカチを届けに湖山宅を訪れた。

 

弟子の件を丁重に断る霜介だったが、墨絵教室の生徒としてならと湖山に言われ、早速、水墨画『春蘭』の手ほどきを受けた。

 

【『春蘭』とは、竹・梅・菊・蘭という「四君子」(しくんし)の一つであり、水墨画の基礎として描かれてきた春に咲く蘭のこと】

 

湖山は昼寝し、庭の掃除をしていた湖峰が霜介の様子を見に行くと、楽しそうに筆を動かしている。

 

硯や小皿を片付けるため廊下を歩いて迷っていると、一室で一人の若い女性が薔薇の水墨画を描いていた。

 

「千瑛」と署名するその女性が、画(み)に見惚(みと)れている霜介に気づき、霜介が自己紹介すると既に知っているようだった。

 

そこに湖山がやって来て、改めて霜介を千瑛に紹介し、「画材道具を見繕(みつくろ)ってやってくれ」と頼んで去って行く。

 

大学で古前と川岸に、その女性の話をすると、“美しすぎる絵師”と注目されている湖山の孫の篠田千瑛(ちあき)であると川岸に教えてもらう。

 

「伝統をモダンアートに昇華させた天才」と紹介されているスマホ記事の画像を示す。

 

「気に入ったんだ。水墨画?」と川岸に聞かれた霜介は、「なんもないところに、何かがポツンてある感じがしっくり来てる」と答えた。

 

湖山に墨のすり方を教わるが、湖山は寝入ってしまい、代わりに千瑛から手ほどきを受ける。

 

「先生はね。“弟子をとる”とか豪語しといて、人に教えることが絶望的にできない人なの。私だってまともに教えてもらったことないし」

 

千瑛は話ながら筆を墨と水に馴染ませ、「三墨法」(さんぼくほう/濃中淡という三つの墨の色のグラデーションを表現する技法)を教える。

 

「筆の中に濃さの違う3層の墨を作る…竹の幹になる。水墨は筆の中にどんな色を作るか、それをいかにコントロールするかが勝負なの」

 

2人は湖峰に呼ばれ、湖峰が作った食事を共にし、そこで霜介は千瑛に会いたいと願う川岸と古前の依頼を伝える。

 

「うちの大学で水墨画の講義をしていただけませんか?」

 

乗り気でない千瑛に、湖山が「いい話だ」と口を挟み、結局、引き受けることになった千瑛の訪問を、古前らは熱烈に歓迎する。

 

大勢の学生が教室に集まり、竹を描きながらの千瑛の講義が始まった。

 

水墨画には、基本となる4つの画題があります。蘭、梅、菊、そして竹。それらの描き方には、それぞれ水墨の基礎となる技術が用いられているからです。水墨画の世界では、それらを合わせて“四君子(しくんし)”と言います」

 

早速、学生たちも竹の水墨画を描いてみる。

 

懇親会の席で千英が霜介に語りかける。

 

「青山君は、不思議な線を描くよね。なんか、子供みたいな目をして楽しそうに描くのに、どっかなんか、線に憂いがあって、今まで見たことない感じ。先生が目を付けたのも、ちょっと分かる気がする」

 

飲めない霜介が間違って千瑛のウーロンハイを飲んで潰れて、古前らが霜介をアパートに送ると、部屋中に『春蘭』の画が散乱していた。

 

タクシーで千瑛を家に送り、別れ際に古前が千瑛に声をかける。

 

「先生、霜介のこと、お願いします。あいつが何かにやる気を見せたの、ほんと久しぶりで。家族に不幸があってから、ずっと塞いだままだったから…先生、宜しくお願いします」

 

霜介は湖山宅でもアパートでも水墨画の修行を続け、次の画題の『梅』を描き上げた。

 

そんな中、千瑛は今、行き詰っているという話を湖峰から聞かされる。

 

「しばらく自分の作品を描けていないというか、何を描いていいのか分かんないって感じかな。湖山先生にご指導いただきたいのに、思うようにもらえてないから焦ってんだな。千瑛ちゃん、今年こそ四季賞狙ってるから」

「シキショウ?」

「…絵師なら誰もが志す水墨画界における最高の栄誉だよ」

 

霜介もやるからには目標にするといいと言うのだ。

 

水墨画の良し悪しは、技術や才能だけでは語れないもんがあるからね」

 

霜介の練習画を見て湖山が批評する。

 

「悪くない」

「ありがとうございます」

「でも、これは君の線じゃない。私や千瑛をお手本にとても忠実だ」

「それは良くないことなんですか?」

「悪くはない」

 

四君子の次の画題の『菊』には手本を出さないと言われるや、湖山が主催する秋の作品展への出展を促され、落款印(らっかんいん/絵画などに押す印鑑)を渡されるのだ。

 

「青山君、形にこだわっちゃいけないよ。もっと力を抜いて…」

 

湖山会の作品展に出品した霜介の作品を観ていた女性に近づくと酷評され、がっくりと肩を落とす霜介。

 

「…けど、何か、とても優しい」

 

霜介は、「目に留めて頂いただけでも嬉しい」と反応し、四季賞を目指しているかと聞かれ頷いた。

 

「そう。だったらもっと命懸けて描かないとね。この菊は、生きてない」

 

最後は辛辣だった。

 

この女性は、「昔は東の湖山、西の翠山(すいざん)」と言われるほどの絵師で、現在は四季賞の審査員長を務める藤堂翠山であると、湖峰に教えてもらう。

 

昨年、この翠山に千瑛は酷評され、それから焦り始めたと言う。

 

レセプションパーティーにフランスの大臣がやって来て、湖山の揮毫会が始まるというところで、肝心の湖山が行方不明になり、美術館の主催者側は慌てる。

 

代わりに千瑛に白羽の矢が立って了承を得るが、翠山がやって来て阻止する。

 

「やめておきなさい。中途半端な水墨画をお見せするべきじゃない。大臣にいらぬ誤解を与えるだけ」

 

「今は緊急事態なので」と言うスタッフの申し出を抑えつける翠山。

 

「本当の優れた水墨画は、命さえ描き切るものです。それほどの力のある絵師は、この場にはいない」

 

中止しかないとなったが、そこで霜介が発言する。

 

「千瑛さんなら、大丈夫だと思います。水墨画とか、命とか、僕にはまだ分かりませんが、でも、僕は感じたことあります。千瑛さんの絵から。とにかく、千瑛さんなら先生の期待に応えられる…」

「青山君!もういいから」

 

千瑛が遮って皆が下を向いたその時、中庭からどよめきが起こる。

 

湖峰が揮毫会の舞台で腕を組んで仁王立ちし、白紙のパネルを見つめていたのだ。

 

霜介が呼ばれ、大筆(おおふで)と墨を持って行くと、湖峰は楽しそうに筆を運び、迫力ある波間の龍の画を描き上げた。

 

霜介は圧倒され、大臣は大いに満足し、会場から万雷の拍手が沸き起こるのである。

 

  

人生論的映画評論・続: 線は、僕を描く('22)   二つの青春 ―― その浄化の旅  小泉徳宏  より