わたしは光をにぎっている('19)   中川龍太郎

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<時代の変化が怒涛の勢いで押し寄せてきても、「善き文化」は受け継がれていく>

 

 

 

1  「目の前のできることから、一つずつ、できないことより、できそうなことから…小さなことでもいいから」

 

 

 

「澪と同じ、二十歳だったかな。私がここに来たのは」

「行きたくないよ」

「一人で守っていける?…見る目、聞く耳、それがあれば大丈夫」

 

湖畔の民宿で、祖母・久仁子と、その孫・澪(みお)の会話である。

 

病が原因で、民宿の閉鎖を余儀なくされた久仁子から背中を押され、上京することになった澪。

 

亡き両親に代わって養育してくれた、その祖母から渡された一冊の詩集。

 

山村暮鳥(明治・大正期の詩人)の「わたしは光をにぎっている」である。

【以下、「余白の詩学」を参考にしました】

 

自分は光をにぎつている

いまもいまとてにぎつている

而(しか)もをりをり(折々)は考へる

此(こ)の掌(てのひら)をあけてみたら

からつぽではあるまいか

からつぽであつたらどうしよう

 

上京した澪が、チラシ配りのエチオピア人に訊き、道案内してもらったのは、下町(提示された映像から、池上商店街と思われる)の銭湯・伸光湯(しんこうゆ)だった。

 

澪を迎えたのは、亡父の旧友である、銭湯の主人・三沢京介。

 

仕事が見つかるまで好きに使っていいと、部屋を提供されたのである。

 

澪は早速、スーパーの仕事を見つけた。

 

銭湯の常連客の緒方銀次は、おでん屋で自主映画を撮っていた。

 

老主人にインタビューをしたあと、帰って来た澪もカメラを向けられるが、顔を隠している。

 

「今も澪ちゃんは、今しかいないんだよ。一瞬ずつ、人間は、細胞だって、心だって、変化していくわけでしょ?同じ風は二度と吹かない。それと同じ。それを切り取りたいの、僕は」

 

そこに、銭湯の常連客の人、OLの島村美琴(みこと)が入り込んで来た。

 

「気を付けてね。こういう口だけの男が、東京には腐るほどいるから…過去のことばかり言う男には、未来はないからね」

 

澪の歓迎会で、3人は待ち合わせしていたのである。

 

しかし、接客業が苦手な澪は、バイト先のスーパーをあっさりと辞めてしまった。

 

折も折、祖母から電話が入った。

 

「ちゃんと生きてますか?…目の前のできることから、一つずつ、できないことより、できそうなことから…小さなことでもいいから」

 

電話を切った澪は、寝転(ねころ)んで耳を澄ますと、京介が銭湯の洗い場を掃除する音が聞こえてきた。

 

澪はその様子を見に行き、自分自身も掃除を始めるのだった。

 

まもなく、銭湯の仕事は、京介と二人の共同作業となっていく。

 

澪はフロント(番台形式ではなく、フロント形式)に座り、常連客とのやり取りもスムーズになり、自ら進んで商店街でみかんを調達し、みかん湯を作って客をもてなした。

 

ところが、少女の客の母親から、そのみかんにアレルギーを起こすというクレームをつけられた。

 

ひたすら謝罪する、京介と澪。

 

「こういうのは、事前に告知することになってんだよ」

 

京介の緩(ゆる)やかだが、「想像力の欠如」を戒める指摘である。

 

澪は、早速、掲示板に紙を貼った。

 

そこに銀次がやって来て、自主映画のポスターを頼まれた。

 

澪はその映画を見に行き、銀次に映画館の中を案内される。

 

銀次は、その一角に住み込んでいるのである。

 

「このアーケードは、50年の歴史がある。もう、この通りは殆どチェーン店ばっかりになっちゃったけど、それでもこの天井の下では、何人もの人たちが、いろんなことを思ったり、考えたりしながら、歩いたり、立ち止まったりしてきたわけだ」

 

澪に語った銀次の、映画製作のエッセンスを吐露する言辞である。

 

 

 

2  「見る目と、聞く耳、それがあれば、大丈夫…最後までやり切りましょう」

 

 

 

夜の公園のベンチに座っていると、先日、道案内をしてくれたエチオピア人が自転車で通りがかり、自分の店に澪を誘った。

 

澪はエチオピア人のコミュニティーとなっている酒場で、楽しいひと時を愉悦する。

 

一方、京介は都市の再開発事業の会合に出かけていく。

 

伸光湯の立ち退きは時間の問題だったのだ。

 

最後まで粘っていたが、立ち退きを受け入れざるを得ない京介は泥酔して帰り、澪にその事実を伝え、謝罪した。

 

そんな折、祖母が逝去したという知らせを受け、澪は京介を伴い、実家に戻った。

 

広い座敷の布団に安置された、祖母の死顔を見つめる澪。

 

澪は部屋を見渡し、叔母に訊ねた。

 

「ここも、壊しちゃうの?」

「古いからさ。お祖母ちゃんも、壊すタイミング探してたし」

 

澪は日暮れた湖畔に佇み、湖に入っていく。

 

澪は、湖上を走る船上で、祖母と話した時のことを思い出していた。

 

「本、読んでないでしょ。言葉は、必要な時に向こうからやってくるものなのよ。形のあるものは、いつかは姿を消してしまうけれど、言葉だけは、ずっと残る。言葉は、心だから。心は、光だから」

 

相当に気障(きざ)な台詞だが、本篇のメッセージである。

 

民宿に戻った澪は、お風呂に浸かっている。

 

伸光湯を潰すことになった京介の無念さを、故郷の地で思い起こしていた。

 

「見る目と、聞く耳、それがあれば、大丈夫…最後までやり切りましょう。どう終わるかって、多分、大事だから。うん、ちゃんとしましょう」

 

映像に映し出された澪の、凛として放った、それ以外にない自己表現である。

 

そんな渦中で、弥々(いよいよ)、商店街は立ち退きの日を迎えようとしている。

 

自分は光をにぎつている

いまもいまとてにぎつている

而(しか)もをりをり(折々)は考へる

此(こ)の掌(てのひら)をあけてみたら

からつぽではあるまいか

からつぽであつたらどうしよう

 

復唱される山村暮鳥の詩である。

 

銀次が撮ったフィルムの映像が、「伸光湯の感謝祭」と銘打ったスポットで、商店街やお客さんを集めて上映されていく。

 

映画館をはじめ、商店街の店の閉店を告知する張り紙と、壊される古い家屋、伸光湯の閉店の張り紙と、薪を焼(く)べる京介、長年、店を営んできた商店主たちの笑顔が次々に映し出されるのだ。

 

けれど自分はにぎつている

いよいよしつかり握るのだ

あんな烈しい暴風(あらし)の中で

摑んだひかりだ

はなすものか

どんなことがあつても

おゝ石になれ、拳

此(こ)の生きのくるしみ

くるしければくるしいほど

自分は光をにぎりしめる

 

澪が読む山村暮鳥の詩が、フィルムの映像に被さっていく。

 

上映後、澪は京介に別れを告げ、去って行った。

 

一年後。

 

京介は、マンションの一室で、一人暮らしを繋いでいた。

 

ある日、公園でおにぎりを食べた後、タウン誌(?)の情報で目にした銭湯に足を運ぶ。

 

向かった銭湯の名は「鹿島湯」。

 

暖簾(のれん)を潜(くぐ)り、中に入ると、正面のフロントには澪が座っていたのだ。

 

驚いたように、京介の視線は釘付けになる。

 

ラストカットである。

 

人生論的映画評論・続: わたしは光をにぎっている('19)   中川龍太郎

 より

その手に触れるまで('19)   ダルデンヌ兄弟

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<内実の乏しい観念系で武装した少年が、その曲線的展開の中で決定的に頓挫する>

 

 

 

1  「僕は大人だ。大人のムスリムは女性に触れない」

 

 

 

「さよならの握手は?」

「さよなら」

「私と握手するなと、導師(イマーム)に言われた?」

「僕は大人だ。大人のムスリムは女性に触れない」

「他の子は握手する」

「間違ってる」

 

イネス先生に、帰り際に呼び止められたアメッドは握手を拒否し、そのまま急いで教室を出て行った。

 

兄ラシッドと共に、アメッドは食品店を経営する導師の元に向かい、いつものように、教徒たちが店の裏の部屋に集まり、祈りを捧げる。

 

帰宅すると、先生と握手しないことで、母親がアメッドを叱りつけた 。

 

「イネス先生は、識字障害克服の恩人よ。毎晩、読み書きと計算を教えに来てくれた…導師に洗脳されて以来、部屋で祈ってばかり」

「僕の意思だ」

「一か月前はゲーム三昧だった。それが急に…袖の短いTシャツまで嫌がり始めた。お前たちの従兄みたいな、あんな最期は絶対に嫌よ」

 

しかし、アメッドは聞く耳を全く持たず、母親を〈飲んだくれ〉とアラビア語で呟き、反抗する。

 

アラビア語の歌謡曲」の授業を、イネス先生が提案していると導師に伝える。

 

「あの教師は背教者だ。預言者の聖なる言葉を、歌で学ぶなど冒涜的だよ」

 

ラシッドは、イネス先生の説明会にはサッカーを理由に、「行けない」と答えるが、この辺りがアメッドと切れている。

 

「信仰よりもサッカーか?あの教師の目的は何だ」

 

導師がラシッドを問い詰める。

 

無言だった。

 

「僕らをコーランから遠ざける」

 

代わりに、アメッドが答えた。

 

「我らの宗教が消え、ユダヤや異教徒と混ざり合う」

 

導師は説明会に参加して、反対の声を上げさせたいのである。

 

「歌を通じて、使える単語を増やしたいの。コーランに出てこない日常的な単語を学ぶ」

 

イネス先生は、参加者に歌の授業の目的を説明した。

 

ここで、参加者から様々な意見が噴出する。

 

アラビア語を学ぶのは、いい信徒になるため。それ以外のことは、あとでいい」

「カイロにいる姉の子は、モスクと学校両方で学んで上達した」

 

そこで、ラシッドが言葉を挟んだ。

 

イスラム教が廃(すた)れてしまっても、イネス先生はどうでもいいんだ」

 

その意味をイネス先生が追求すると、ラシッドは下を向いて答えられない。

 

ここでも、アメッドが代弁する。

 

「先生の新しい彼氏は、ユダヤ人でしょ」

「何が言いたいの?」

 

イネス先生の問いに答えず、二人は説明会から出て行ってしまう。

 

ラシッドはサッカーへ行き、アメッドは導師の食品店の手伝いに行った。

 

導師は、「殉教」したアメッドの従兄を引き合いに出して言い切った。

 

〈邪魔者は殺せ〉

 

あろうことか、アメッドにイネス先生の殺害を示唆するのだ。

 

イネス先生が食品店にやって来て、アメッドを外に呼び出したのは、その時だった。

 

コーランは、他の宗教との共存を説いてる。私は父から、そう教わったわ」

ユダヤ教キリスト教は敵だ」

「握手しなくていいから、放課後クラスに来て」

 

イネス先生の殺害を決意したアメッドは、自宅でジハード決行のシミュレーションを立て、ナイフを靴下に挟んで、イネス先生のアパートへ向かう。

 

イネス先生の部屋に入ると、〈アラーは偉大なり〉とアラビア語で呟き、ナイフで刺そうとするが、ドアを閉められ、呆気なく頓挫する。

 

アメッドは走って逃げ、導師の元に向かった。

 

「殺せとは言ってない…警察が来る前に自首しろ」

「どこかに逃がして」

「急には無理だ…お前が教師を襲ったのは、ネットの導師の影響だ」

 

導師は無責任に言い逃れ、かくてアメッドは自首して、少年院での収容生活が開かれていく。

 

 

 

2  「“努力して、真のムスリムになってほしい。そうすれば僕を誇りに思ってくれるはず”」

 

 

 

二度目の面会にやって来た母は、導師が逮捕されたことを伝え、泣きながら訴える。

 

「変わらなきゃダメよ。これが現実なんて思えないし、夜も眠れない」

 

その後、アメッドは収容当初辞めてしまった、農場での「更生プログラム」に復帰し、会いたいと伝言してきたイネス先生と会うことを母親に電話で伝えた。

 

その電話を受けた母親は笑みを湛(たた)えつつも、落涙する。

 

担当の教育官が酪農家に連れていき、宗教上の理由から、犬との接触を避けるアメッドだったが、その農家の娘・ルイーズと共に、家畜の世話に専心していく。

 

それでも、祈りは熱心に欠かさず行うアメッド。

 

教育官は心理士との面会で、イネス先生と会うのはまだ早いとアメッドに伝えた。

 

アメッドは酪農家を去る際に、歯ブラシを隠し持って少年院に戻った。

 

そして、金属探知機を避け、持ち込んだ歯ブラシを擦(こす)り、尖(とが)らせる作業を行うのだ。

 

アメッドは、自分が変わったと見せかけ、イネス先生と会い、再び、殺害を決行しようと考えているのである。

 

しかし、この「ジハード」もまた、時期尚早だった。

 

2度目の心理士の面会で、再び、「被害者と会うのはまだ早い」と告げられ、面会は延長される。

 

ペンを教官から借り、母親に出紙を書くアメッド。

 

「“努力して、真のムスリムになってほしい。そうすれば僕を誇りに思ってくれるはず”」

 

アメッドは何も変わっていなかったのだ。

 

後日、アメッドは担当判事らの立会いの下、イネス先生と面会する場が設定された。

 

警察のボディーチェックを逃れ、トイレで先の尖った歯ブラシを靴下に忍ばせる。

 

イネス先生は部屋に入り、アメッドの顔を見るや、取り乱して泣き出したので、担当判事が即座に退出させてしまった。

 

「君の行為の結果だ。分かるね」

「また会えますか?」

 

心理士に連絡すると答えた担当判事は、アメッドを諭した。

 

「農場の仕事を続けなさい。あれに助けられる若者は多い」

 

かくて、農場での生活が続く。

 

真面目に農作業に専念するアメッド。

 

一緒に働くルイーズはアメッドに好意を持ち、休憩中にアメッドの眼鏡を外した顔を見たり、眼鏡を借りてアメッドを見たりして、物理的に最近接する。

 

「こっち見て。キスしたい」

 

そう聞くと、ニコリを笑ったアメッドにメガネを返した。

 

「ビーツの畑を見る?」

 

「アメッドを信じる」と、担当教育官の許可を得て、二人だけで畑に向かった。

 

畑に蹲(しゃが)んで話しながら、ルイーズは再びキスをしようとすると、アメッドは立ち上がって避ける。

 

それでも立ち去らないのは、本当はキスしたいからだと、ルイーズは言って、アメッドと口を合わせるが、アメッドは立ち上がって遮断する。

 

農家に戻って来たアメッドは、洗面所で何度も口を濯(ゆす)ぎ、礼拝を始めた。

 

「僕は罪を犯しました。二度と繰り返しません」

 

その直後、アメッドはルイーズの部屋を訪れた。

 

帰り際の挨拶を待っていたと言うルイーズ。

 

「あなたが来た最初の日から、特別な気がしてた。あなたは?」

 

アメッドも小さく頷いた。

 

ムスリムになる気はある?今日、畑でしたことは罪だ…」

「無理強いしたなら、ごめん」

「君が改宗すれば、罪が少しはマシになる。結婚前ってことには、変わりはないけどね…改宗する?」

「断ったら、私とは終わり?」

「うん」

「じゃ、さよなら」

 

ルイーズはそう言うや、その場を去っていった。

 

アメッドは施設に帰る際、教育官に嘘をつき、ルイーズがいる納屋へ行った。

 

「僕が好きなのに、なぜ改宗しない?」

「強制は嫌い」

「僕は地獄行きだ」

「天国も地獄も存在しない」

 

それを聞くや、アメッドは「不信心者!」とルイーズを突き飛ばした。

 

「出て行って!」

 

叫ぶルイーズ。

 

二人の関係が終焉した瞬間である。

 

帰宅途中、アメッドは隙を狙って走行中のドアを開け、車から飛び降りて林へ逃げて行った。

 

教育官はアメッドを追い駆けるが、アメッドは林を抜け、バスに乗り込んで去って行く。

 

そして、向かった先は放課後教室。

 

アメッドは教室に入る前に、鋭利な凶器を探し、花壇を吊るすフックを抜いて胸ポケットにしまい込んだ。

 

しかし、教室には鍵がかかり、建物の中に入れない。

 

アメッドが犯した未遂事件の影響が、そこに読み取れる。

 

外壁を登り、屋根に上がったアメッドは、更に、外壁を伝って窓から侵入しようとするが、その瞬間、背中から落下してしまった。

 

地面に仰向けになったまま、体を起こすことができないアメッド。

 

脊髄か骨折か、判別しにくいが、重傷を負ったのだ。

 

「ママ…ママ…」

 

左腕の力で這い、フックで金属を叩いて音を出し、助けを求めるアメッド。

 

中からイネス先生が出て来て、寝転んでいるアメッドに気づく。

 

「アメッド、聞こえる?」

「うん」

「救急車を」

 

立ち上がろうとするイネス先生の腕を掴むアメッド。

 

「イネス先生…先生…許して。ごめんなさい」

 

そう言って、アメッドはイネス先生の手を強く握るのだった。

 

印象深いラストシーンである。

 

人生論的映画評論・続: その手に触れるまで('19)   ダルデンヌ兄弟 より

 

 

 

「コスモポリタン」を無化した女の情愛が、地の果てまで追い駆けていく 映画「スパイの妻」('20)の表現力の凄み  黒沢清

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1  「私が怖いのは、あなたと離れることです。私の望みは、ただ、あなたといることなんです」

 

 

 

一九四〇年 神戸生糸検査所

 

英国人のドラモンドが、軍機法(軍機保護法)違反で憲兵たちに連行された。

 

貿易会社を経営する優作の元に、取引先の友人でもあるドラモンドがスパイ容疑で逮捕されたと、優作の幼馴染の泰治が報告にやって来た。

 

神戸憲兵分隊長である泰治は、外国人を相手に仕事をする優作と、共通の幼馴染の妻・聡子の先行きを心配し、警告する。

 

神戸の豪邸に住む優作は、趣味である8mmフィルムの映画を製作し、妻・聡子にスパイ役を演じさせていた。

 

優作が多額の罰金を払い釈放されたドラモンドが、自宅を訪れ上海に発つことを、聡子に告げる。

 

その優作は、大陸を一目見たいと、趣味の映画の撮影機材を持ち、甥の文雄を連れて、満州へ旅発った。

 

聡子が女中を連れ、山に自然薯(じねんじょ)を掘りに行くと、天然の氷を取りに来た泰治と偶然出会い、自宅に来るよう誘う。

 

福原邸に呼ばれた泰治は、ここでもまた、洋装し、舶来のウィスキーを飲む暮らしを享受する聡子に警告する。

 

予定より遅れて帰国した優作を出迎え、抱き締める聡子。

 

しかし、優作が一人の女を連れて帰って来たことに、聡子は気づかなかった。

 

昭和15年、福原物産忘年会の場で、優作が制作した映画が上映された。

 

社員全員に砂糖と餅が支給され、一年の勤労が労われた。

 

その場で、文雄は小説を書くために会社を辞め、有馬温泉に籠ることを発表する。

 

「大陸で、実際の戦争を目にして思いました。いつ呼ばれるか分からぬ身ですから、そうなる前に、何か一編でも後世に残せるようなものをしたためておきたい」

 

会社に残る聡子と優作。

 

「文雄さん、どこか前と変わってしまった」

「冒険心に火が付いたのさ。満州で…聡子、僕はアメリカに行くかも知れない」

 

対日輸出制限をしたアメリカが敵になる前に、渡米すると言うのだ。

 

「見ておきたいんだよ。もう一度…摩天楼を見ないで死ねるか!」

 

後日、優作が帰国の際に連れてきた女・草壁弘子の水死体が見つかった。

 

この件で、泰治に呼び出された聡子は、優作の斡旋で、弘子が文雄の逗留する旅館に女中として働いていたことを知らされた。

 

殺人事件に優作は関わっていないが、文雄との痴情の縺(もつ)れが疑われているようだった。

 

「お呼びしたのは、あらかじめ、心構えをしていただきたかったからです」

「どんな心構えを?」

「あなたと、あなたのご亭主が、これからどう振舞われるか、我々はそれを注視しています」

 

何も知らされていなかった聡子は、食事中に優作を質した。

 

「お願いです。本当のことをおっしゃって下さい。こんな気持ちは結婚以来、初めてです。私は急にあなたのことが、分からなくなりました」

「問わないでくれ。後生だ。僕は断じて恥ずべきことは何もしていない。ただ僕は、君に対して嘘をつくようにはできていない。だから、黙るしかない」

「そんなの、嘘と変わりません」

「君がどうしても問うなら、僕は答えざるを得ない。だから、問わないでくれ。僕という人間を知ってるだろ。どうだ、信じるのか、信じないのか」

「卑怯です。そんな言い方」

 

涙声で反駁(はんばく)し、黙考した聡子は、優作の問いに答えた。

 

「信じます。信じているんです」

「この話は、これで終わりだ。いいな」

 

その夜、聡子は悪夢にうなされた。

 

優作が聡子と泰治の関係を疑い、死んだ弘子と一緒に、優作の嘘の上手さを笑っているという夢だった。

 

優作の遣いで、旅館の文雄の元にやって来た聡子は、事実を聞き出そうとする。

 

「あなたは何も分かっていない。あなたが、安穏と暮らすために、おじさんがこれまでされたご苦労を、何もご存じない!」

「おっしゃってる意味が、分かりません!」

「その通り!あなたは、何も見なかった。あなたには、分かりようがない!」

 

そう叫んだあと、胸を抑える文雄は、今度は静かに吐露する。

 

「失礼しました。何も知らない者にこそ、わずかな希望があるのかも知れない」

 

そう言って、紙包みを聡子に渡す。

 

「これをあなたに託します。決して開封せず、おじさん以外の誰にも渡してはいけない…英訳がやっと終わった、おじさんにはそのように」

 

聡子は、文雄から預かった書類を優作に渡す際に、封を開けて中身を見てしまう。

 

「やはり、知らなければ、何も信じることはできません」

 

優作は聡子に、これまでの経緯を説明する。

 

満州へ行った優作と文雄は、医薬品の便宜を打診するために、関東軍の研究施設に行くことになった。

 

道すがらに、電車の中から、人間の遺体が焼かれる小山をいくつも目撃する。

 

それはペストによる死体の山で、関東軍の細菌兵器の犠牲者であった。

 

関東軍が秘密裏に、生体実験が行なっている事実を内部告発しようとする軍医は処刑され、その愛人であった看護婦である弘子にも身の危険が迫り、優作たちは行きがかり上、彼女を救うことになった。

 

弘子は、その軍医から動かぬ証拠として、生体実験を詳細に書き残したノートを託されていたからだ。

 

聡子が文雄から受け取った書類は、その実験ノートと英訳した書面だった。

 

そこには、ペスト菌の散布だけではなく、捕虜を使った生体実験の様子まで克明に記録されていた。

 

「こんなことは、決して許されるものではない!」

 

優作の話を聞かされた聡子は、この文書をどうするのか尋ねた。

 

「英訳したノートをどうするおつもりです?」

「この証拠を、国際政治の場で発表する。特にそこがアメリカなら、戦争に消極的なアメリカ世論も対日参戦へと確実に導くことができる」

アメリカが参戦すると、どうなります?」

「日本は負ける。遅かれ早かれ、必ず負ける」

「それでは、あなたは売国奴ではありませんか!」

「…僕は、コスモポリタンだ。僕が忠誠を誓うのは国じゃない。万国共通の正義だ。だから、このような不正義を見過ごすわけにはいかない」

「あなたのせいで、日本の同胞が何万人死ぬとしても、それは正義ですか?私まで、スパイの妻と罵られるようになっても、それがあなたの正義ですか?あたしたちの幸福は、どうなります?」

「不正義の上に成り立つ幸福で、君は満足か」

「私は正義より、幸福を取ります」

 

話は平行線だった。

 

「あなたを変えたのは、あの女です。あの女がその胸に棲みついたんです!」

 

聡子は、優作不在の会社に行き、倉庫の金庫に保管された実験ノートを持ち出し、あろうことか、それを神戸憲兵分隊を仕切る泰治に差し出したのだ。

 

文雄は逮捕され、激しい拷問を受けるに至る。

 

優作もまた憲兵に連行され、文雄は自分がスパイであることを認め、実験ノートの持ち出しを単独で遂行したという自白の事実を聞かされる。

 

そして泰治は、優作の掌(てのひら)に、拷問で剥(は)がされた文雄の両手の爪を、散り散りに載せたのである。

 

「誰が通報した?」

「あなたもよくご存じの方だ。私はその人を不幸にしたくない。まだ間に合います。心を入れ替えて、お国のために励みなさい。それで、この件は終わりだ」

 

自宅に戻った優作は、聡子を嘲罵(ちょうば)した。

 

「密告屋!しかも、泥棒まで。君は、幼馴染の口車に乗って、僕ら二人を売った。よくもまぁ、そんな涼しい顔をしてられるな!」

「文雄さんは、あなたを守る。私はそれに賭けました」

 

文雄の両手の爪を見せられた聡子は、平然と言ってのけた。

 

「大きな望みを果たすなら、身内も捨てずにどうします?」

「君のせいで、文雄は地獄行きだ」

「文雄さんは、あなたを守る。私はそれに賭けました」

大望を遂げるための犠牲です。文雄さんも、お分かりでしょ。だから、あなたも帰ることができたんです」

 

そう言いながら、聡子は残る英語版の実験ノートを取り出した。

 

しかし、原本がなければ信用されないという優作。

 

「あなたが私を責めたいのは分かります。それでもあなたは、私を信用くださらなくてはなりません。もう、あなたには私しかいないんです」

 

こう言うや、優作に厳しい視線を放った聡子は、窓を閉め、優作が持ち帰ったフィルムを上映した。

 

そこには、実験ノートの原本の中身と、研究所の建物、実験の様子、犠牲者の捕虜とその死体が映し出されていた。

 

最も重要な情報を共有せざるを得なくなった優作は、正直に吐露する。

 

関東軍による人体実験記録フィルムを再撮影したものだ。弘子に入手させた。帰国と交換条件で」

「このフィルムと英訳のノートがあれば、あなたの志を果たすことができます。アメリカへ渡りましょ!私たち二人で」

 

情報を共有した夫婦は、証拠の品を廃屋に隠した。

 

「僕はスパイじゃない。僕は自分の意志で行動している。スパイとは全く違うものだ」

「どちらでも結構。私にとって、あなたはあなたです。あなたがスパイなら、私はスパイの妻になります」

 

映画館での日本軍の仏印進出のニュースを見た後で、バスに乗る二人の会話。

 

アメリカがとうとう石油の対日輸出を禁止したそうだ。ABCD包囲網の完成だ。これで、正規の手段では、アメリカへ行けなくなった」

「優作さんは、あの女とアメリカへ行くつもりだったんですか?」

「まさか。単に保護者のフリをして、二人分の渡航申請をしただけだ。その方が怪しまれない。行くのは彼女一人だけだ」

「本当ですね?」

「もちろん」

「では、やっぱり、優作さんと行くのは、私ということになりますね」

「だが、どうやって。方法は一つしかない。亡命だ」

 

自宅に戻ると、早速、出国の計画を話し合う。

 

優作が提案したのは、危険を分散するために、二手に分かれて渡米するということだった。

 

聡子はフィルムを持って貨物船のコンテナに隠れて2週間を過ごし、優作はノートを持って上海に行ってドラモンドに託した人体実験の映像フィルムを買い戻し、最終的にサンフランシスコで二人が落ち合ってから、ワシントンへ向かうという計画だった。

 

一人で行く不安を訴える聡子に対し、船長も懇意で十分な手配をする説得を試みるが、不安を払拭できないと言う聡子。

 

「どこかで、誰かを信じるしかない。この大仕事を二人だけで やり遂げようとしてるんだ…強くなってくれ」

「捕まることも、死ぬことも怖くありません。私が怖いのは、あなたと離れることです。私の望みは、ただ、あなたといることなんです」

 

かくて、夫婦の亡命作戦が開かれるのだ。

 

 

人生論的映画評論・続: 「コスモポリタン」を無化した女の情愛が、地の果てまで追い駆けていく 映画「スパイの妻」('20)の表現力の凄み  黒沢清 より

自己運動の底部を崩さず、迷い、煩悶し、考え抜いて掴んでいく ―― 映画「星の子」('20)の秀逸さ 大森立嗣

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1  「分かってる。私は大丈夫だよ。誰にも迷惑かけないし、お金も何とか自分でできると思う」

 

 

 

林夫妻の間に虚弱児として産まれた、ちひろ

 

「未熟児だって。ただただ健康に」(2005年2月13日)

「体温37.1度 脈拍121回 湿疹が手足顔に」

 

乳児湿疹に罹患するちひろの母が記した、ダイアリーの一節である。

 

泣き止まぬちひろを前に、父母と幼い姉が座り、母と姉は赤ん坊の泣き声と一緒に泣いている。

 

「どうしたらいいか分からない」

 

母の嘆息である。

 

そんな折に出会ったのは、新興宗教団体の知人が勧める“金星のめぐみ”という万能水。

 

藁(わら)をも掴む思いで、ちひろの両親は、早速、“金星のめぐみ”を乳児の皮膚に試してみる。

 

「ミルク7回1回吐いた。おしっこ4回少し黄色 うんち3回 目に見えて赤みが引いてる!」(ちひろの母のダイアリー)

 

成果が少しずつ現れ始め、両親は、“金星のめぐみ”を販売する新興宗教にのめり込んでいく。

 

「特別の生命力が宿った水ですからね。いかがですか?私は風邪を、一切引かなくなりました」

 

“金のめぐみ”で浸したタオルを頭に載せるという儀式を、会社の同僚(?)から教えられる父。

 

「治った!これは治ったと言える!!」

 

2005年に始まった「10年ダイアリー」に書き込んだのは、閉じた日記の表紙をポンと叩く母。

 

教団の発行する通販誌、“星々のちから”に紹介された商品を買い、機関紙には、乳児のちひろが病気から救われたという両親の「奇跡の体験談」が掲載される。

 

かくて、完全に確信的信者となったちひろの両親は、生活と人生そのものを宗教と共に身を投じるに至ったのである。

 

15年後。

 

中学3年になったちひろに好きな人ができた。 

 

新任の南先生である。

 

「あの先生のどこがいいの」と案じるのは、小学校時代からの親友なべちゃん。

 

なべちゃんの言葉に聞く耳を持たず、ちひろは南先生のプロフィールを集め、授業中に先生の似顔絵を描くことに没頭する。

 

両親がのめり込むカルト系の新興宗教との関与を除けば、ごく普通の思春期を繋いでいた。

 

―― ちひろの回想シーン。

 

家を出た姉まーちゃんの服を着て、姉の言葉を思い出していた。

 

「元はと言えば、ちーちゃんのせいだよ。病気ばっかりするから」

 

父と喧嘩をして家を出て行った姉のまーちゃんが、久しぶりに戻った際にちひろに吐露した言葉である。

 

「まーちゃんから生ゴミのにおいがしたから、鼻の息をとめてた」(母のダイアリー)

 

「もう帰りません。バイバイ」

 

そのまーちゃんが、残した置手紙である。

 

―― ちひろの回想シーン。

 

「ゆうぞうおじさんがやさしかった。変なの」(母のダイアリーから受け継いだ、ちひろの日記)

 

「凝り固まった筋肉を、ほぐしてくれるっていうのかな。長時間外してたり、“金星のめぐみ”自体しばらく飲まないでいると、すぐ分かりますよ。数値に出ますからね」

 

この父の言葉に、義兄の雄三は、きっぱりと反駁(はんばく)する。

 

「それ、“金星のめぐみ”じゃぁ、ありませんよ。公園の水道の水ですよ…入れ替えたんだ」

「“金星のめぐみ”は?」と父。

「全部、捨てました…あんたら、2か月間も、公園の水道水飲んで、喜んでただけなんだよ!これで目が覚めただろ、いい加減!」

「嘘言わないで!」と母。

「まーちゃんが協力してくれた」と雄三。

 

その事実を確かめ、狂乱するように叫ぶ両親。

 

「帰れ!帰れよ!」

「もう二度と来ないで!」

 

伯父さんと協力して水道の水を入れ替えたまーちゃんも含めて、ここだけは、家族一丸となって攻勢をかけるのだ。

 

居丈高(いたけだか)に、本来的に穏やかで優しい両親を糾弾(きゅうだん)されれば、黙視できないのは至極当然のことである。

 

自らも傷ついてしまうからである。

 

―― ちひろの回想シーン。

 

「空も飛ぶようになる」とカイロ 。

「気づく時がくるの。気づいた人から、変わっていくの」とショウコ。

 

子供たちに向けての、教団幹部の話である。

 

「あんたは騙されているの?」となべちゃん。

「私?騙されてないよ」

 

放課後の教室での、新聞委員の作業中での会話である。

 

―― ここで、ちひろの回想シーンは閉じていく。

 

早く帰るようにと教室にやって来た南が、3人を車で送ることになる。

 

「あそこに変なのがいる!」

 

ちひろの家の近くの公園に到着し、車から降りようとしたちひろを、南が制止した。

 

「2匹いるな…完全に狂ってる」

 

それは紛れもなく、“金星のめぐみ”の儀式を行う両親の姿だった。

 

南の言葉に傷ついたちひろは、嗚咽を漏らしながら夜の道を疾走する。

 

家に戻ると、いつものように、優しい父母が迎えてくれた。

 

食事を勧めても、「いらない。欲しくない」と言うちひろ

 

そう言って、虚脱するちひろを案じる両親は、ちひろの頭にタオルを載せ、“金星のめぐみ”をかけようとする。

 

「やだ!やだ!」

 

激しく拒絶するのだ。

 

察するに余り有る反応である。

 

翌日、登校し、廊下でちひろとすれ違った時、南は声をかけた。

 

「何でお前とドライブしたことになってるんだ」

 

ちひろが南に好意を持っているという情報が、クラス内で共有されていたのである。

 

苛立つ南に、ちひろは告白する。

 

「先生、昨日公園にいたのは私の親です…嘘です」

 

嘲笑するような南の顔を見て、ちひろは走って、その場を去った。

 

廊下の隅に縮こまり、ここでも嗚咽を漏らす少女。

 

何かが解凍されたような少女は、親戚の法要に一人で出席した。

 

ちひろは伯父夫婦と、その息子と4人で、喫茶店で話をしている。

 

ちひろの将来を心配する伯父の家族は、高校入学を機に家を離れ、伯父宅から高校へ通うよう説得する。

 

「私は…今のままでいい」

 

ちひろの弱々しい反応である。

 

説得を続ける伯父の家族に対し、ちひろは自分の置かれた境遇について、今度はきっぱりと反応した。

 

「分かってる。私は大丈夫だよ。誰にも迷惑かけないし、お金も何とか自分でできると思う」

 

ちひろを両親から引き離し、救い出したいという伯父家族の思いを跳ねのけるのだ。

 

近くの海に出て、思いを巡らすちひろ

 

真剣に黙考する少女が、そこにいた。

 

 

人生論的映画評論・続: 自己運動の底部を崩さず、迷い、煩悶し、考え抜いて掴んでいく ―― 映画「星の子」('20)の秀逸さ 大森立嗣  より

ある少年の告白('18)   ジョエル・エドガートン

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<同性愛の矯正治療の無意味さを弾劾し、克服していく>

 

 

 

1  「妄想が罪なら、神に赦しを求める」

 

 

 

「何も起きなければよかった。でも、起きたことを神に感謝する」

 

主人公・ジャレットのモノローグである。

 

「全員で、“光を輝かせろ”。ここに集う完璧でない方は、手を上げて」

 

そこに集う全員が手を上げた。

 

ジャレットの父で、牧師マーシャルの言葉である。

 

その中には、ジャレットと母・ナンシーの姿もあった。

 

「救済プログラム」という名の矯正治療を行う施設がある。

 

ナンシーに車で送られたジャレットは入所手続きを済まし、9時から5時までの12日間に及ぶ、この「救済プログラム」に参加することになった。

 

ナンシーは施設近くのホテルに泊まり込み、そこでジャレットを送迎することになった。

 

施設では、携帯・日記などの私物は取り上げられ、保管される。

 

そればかりではない。

 

喫煙・飲酒・ドラッグの禁制・治療内容はすべて内密にする守秘義務、更に、トイレはスタッフの監督下で利用すること、治療期間中の読書・映画・テレビの禁止等など、細かな禁止事項やルールが、参加メンバーたちの日常になっていく。

 

早速、初日のサイクスの授業が開かれていく。

 

「“私は性的な罪と、同性愛によって、神の形の空洞を埋めた”」

 

サイクスのこの言葉を、11人の参加メンバー全員が復唱するのだ。

 

「“だが、砕けてはいない。神が私を愛する”」

 

同様に、メンバーが一斉に復唱する。

 

「…これからの12日間は、とてもキツいが、実りは大きい。目的は、ただ一つ。我々の身を神に戻すことだ。再び神を招き入れ、神が我々を想像した真意を理解すること。ここへ来る道のりは、つらかっただろう。だが、今日からは楽になる。共に力を合わせ、すばらしい旅に出発するからだ」

 

こうして、全員の和やかな笑顔と拍手によって、治療訓練がスタートする。

 

「“同性愛者に生まれる”というが、それは違う。嘘だ。私はカウンセラーで牧師だ。そのように生まれたか?違う。それは行動と選択の結果だ…行動の原因を知り、断ち切ることを学べば、もう“烙印”を押されない」

 

その原因とは、“家族関係図(ジェノグラム)”に示されるという。

 

ジェノグラムとは家系図のようなもので、親類の行動パターンを記号で示した表である。

 

Hが同性愛、Dはドラッグ、Aはアルコール依存症、Mは精神疾患、等々である。

 

「彼らが君たちを作った」

 

全員が床に寝そべり、紙を広げ、指示されたように、各人の家系図と彼らの罪を書き始めていく。

 

ジャレットは、高校時代に恋人のクロエに性的関心が持てなかったエピソードを思い出していた。

 

5時になり、迎えに来たナンシーに、レストランで施設の様子を聞かれるが、他言無用とされているので、「一生懸命頑張る」としか反応できなかった。

 

ただ、宿題として親族の問題行動について知るために質問をするが、ナンシーは「まともな一族よ」であると答えるが、「女性的な雰囲気」の叔父がいたことを付け加える。

 

翌日の講義。

 

男らしさを教授するのはブランドン。

 

「本当の男とは、信心深い男のことだ。私は深く神を信じる。だが、以前は違った。息子が“家族関係図”を書けば、私の名の横に多くの記号が並ぶ…だが、諸君のような性的問題とは無縁だ…苦しむ君たちは、学ぶ必要がある。生き残る術を。刑務所では、生き残るために何でもやる」

 

自らの矯正の成功体験から、男らしさを教授するブランドンが、屋外で体を鍛えるためのメニューを開始する。

 

教室に戻り、自分の罪を一覧にし、神に赦しをもとめるという、“心の清算”を、メンバーの前で発表するという授業が始まった。

 

その日は、サラという少女が自身の問題行動を話し、赦しを求めた。

 

ホテルに戻ったジャレットは、その“心の清算”の宿題に取り組んでいた。

 

そこで、大学時代のエピソードを回想する。

 

クロエと別れた後、大学の寮で知り合ったヘンリーについて書こうとしているのだ。

 

友人となったヘンリーは、ある日、ジャレットの部屋に泊まり、無理やり彼をレイプした。

 

「僕はどうかしている。すまなかった」

 

ヘンリーはジャレットに謝罪し、自分が同性愛者であり、過去にも同じことをしたと告白する。

 

それ以来、ジャレットは自分自身の中に、同性愛の感情が芽生えていることに悩み始める。

 

大学のカウンセラーと名乗る何者から、自宅にかかってきた電話で、ナンシーはジャレットの行動の変化を聞かされた。

 

問い詰める父・マーシャル。

 

「同性愛者か?」

 

ジャレットは、電話の主がカウンセラーではなく、ヘンリーであることを両親に話す。

 

ジャレッドに忌避(きひ)されたと思い込んだ故の、ヘンリーの行動だったと思われる。

 

そのヘンリーが教会で少年をレイプしたことを聞いた父は、事実なら通報すべきだと主張する。

 

「我々には、神に与えられた権利が。だから、男と女が結びつき、新たな命を創造する。それほどの責任を与えるくらい、神の愛は大きい」

 

しかし、「それは違う」と真っ向からに反発するジャレット。

 

「(クロエと)別れたのは、僕に関する話が本当だから。男のことを考える」

 

ジャレッドの告白である。

 

言葉を失う両親。

 

「理由は分からない。ごめんなさい」

 

父は早速、牧師仲間を家に呼び、この問題を相談する。

 

「心底から、変わりたいと願うか?」

 

父親に問われたジャレットは、長い沈黙の後、「はい」と答えた。

 

ここから、ジャレットの矯正施設行きが決まったのである。

 

回想シーンが閉じて、現実の非日常の世界に立ち返っていく。

 

スタッフ同伴でないと入れないトイレに、一人で入ったジャレットは、それを見たブランドンに「カマ野郎」と蔑まれる。

 

苛立つジャレットに、メンバーの一人のゲイリーが声をかける。

 

「実態が分かってきた?大丈夫か?」

「平気だ。何でもない」

「助言しておく。役を演じるんだ。信じさせろ。“治ってる”と。“できるまで、フリをしろ”だ。長期間“家”に入れられてしまうぞ…君もそうなりそうだ…無事帰れたら、次のことを考えればいい。でないと、すべて放棄させられる。人間関係も。君もスピーチをでっち上げておけ。“治療”を信じるなら別だ。変わる気ならな」

 

その後、“心の清算”に頓挫したキャメロンが、皆の前で、悪魔祓いの儀式が行われることになった。

 

聖書で、家族やメンバーが次々に叩くのだ。

 

如何わしい現場に立ち会って、施設の治療方針を受容できないジャレットの懊悩は深まっていく。

 

そして、長期入院となったサラと目が合う。

 

それは、ゲイリーが言う、「長期間“家”に入れられてしまう」現実の重みの実感だった。

 

「一緒にいてほしい。神は打ち砕かない」

 

大学の「神 VS.サイエンス」の展示会で知り合ったゼイヴィアの声が蘇る。

 

そんな状況下で、ジャレットの“心の清算”の発表の日がやってきた。

 

隔離されていたキャメロンも、戻って来ていた。

 

ジャレットは、自分の思いを発していく。

 

「男性を想った。学校の子たち、テレビや町で勝手に想像した。大学で、男性と手を握り、朝までベッドに。この行為や、様々な妄想を後悔している」

 

ここで、サイクスがそれだけではないと決めつけ、正直に話すことを求める。

 

「話すんだ。他には?」

「一度も、朝まで一緒にいたけど、何もしていない」

「神に嘘をつこうとするな。すべて、ご存じだ…ヘンリーのことを話せ。お父さんから聞いた」

「その話はフェアじゃない。僕の罪じゃないから」

 

どうしても、性的関係もなく、妄想だけで「救済プログラム」に参加したことを信じないサイクスは、ジャレットに告白させようと強いるが、ジャレットはそれを頑として拒否する。

 

「それも罪じゃないんですか?妄想が罪なら、神に赦しを求める。でも、作り話はしてない」

 

サイクスは、“嘘の椅子”を持って来るや、反駁(はんばく)するジャレットの怒りを吐き出させようとする。

 

「君の、その怒りを前向きに活かしたい」

 

ジャレットは椅子に座ろうとしないが、目の前の椅子に父親がいると想定し、憎しみをぶちまけるように指示するのだ。

 

「怒ってない」

「いや、君は怒っているんだ」

「なぜ、僕が怒らないといけないんです?」

「いいから座れ。座れ」

「犬じゃない!誰にも責任はない!誰かを憎むなんて無意味だ!」

「憎んでないなら、君の怒りは、どこから?」

「あなただ!」

「その怒りを使え!」

「父を憎むフリはしない。憎んでない!」

「君は憎んでいる」

「何が分かる!!みんな、狂ってる!」

 

そう言い捨てて、ジャレットは教室を出て行く。

 

「僕は、あなたを憎んでる!」

 

ジャレットは預けた荷物を奪い、阻む教官を振り切り、トイレに逃げ込んで、ナンシーに迎えに来て欲しいと、涙ながらに電話する。

 

サイクスは、ジャレットの行動は、「一時的な感情によるものであり、自然なことだ」と言い放ち、二人で話そうと語り掛ける。

 

そこに、ナンシーがやって来た。

 

ドアを叩くナンシーに対し、サイクスは応じようとしない。

 

「彼は今、動揺してるだけです」

「今すぐ、開けなさい!開けないなら警察を呼ぶ」

 

そこで、一部始終を見ていた大柄なキャメロンが、教官に突き飛ばし、「開けてやれ!」と叫ぶ。

 

サイクスが扉を開けると、ナンシーはジャレットと共に、車に走っていく。

 

「彼は破滅します」

 

後方から、サンクスは言い放った。

 

「一体、あなたの資格は何?一度も聞いてない。医者?心理学者?ちゃんとした本物?違うわね。思った通り。恥知らず!」

 

立ち竦むだけのサイクス。

 

ナンシーは車内でも叫ぶ。

 

「私もだわ。(サイクスに向かって)恥知らず!」

 

レストランで、ナンシーはジャレットに、マーシャルが施設に戻るように言っていることを伝える。

 

「家で話そうと伝えたわ。(私は)絶対に戻さない」

 

ナンシーは、父親と牧師たちが集まり、男たちだけで施設に入れ、苦痛を与えることが必要だと話し合った際に、何かが違うと感じつつも、黙って従った自分を悔いていた。

 

「私には、はっきり分かった。こんな苦痛は間違いだと。でも、あなたを救わず、口を閉ざし続けた。この先、後悔し続けるわ。でも、もう黙っていない。その時が来たのよ。お父さんを説得する」

 

しかし、牧師であるマーシャルは簡単に認めることができなかった。

 

教会で信者たちの前で、教会に来ているだけの不信心者を指弾する。

 

暗に、息子に向かって説教しているのだ

 

そんな折、キャメロンが自殺したとナンシーから告げられたジャレットは、自宅にやって来た警察の質問に答えるが、衝撃を隠せなかった。

 

正治療による「救済プログラム」の胡散臭さが露わになったのである。

 

 

人生論的映画評論・続: ある少年の告白('18)   ジョエル・エドガートン より

生きちゃった('20)  石井裕也

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<友愛の結晶点を描き切って閉じていく>

 

 

 

1  「私の夢は、庭付きの家を建てることです。妻と娘のために。それと、犬も欲しい」

 

 

 

高校時代の友人、武田と奈津美(なつみ/登場人物名は全て公式ホームから)と3人で過ごした厚久(あつひさ)の回想シーンから、物語が開かれる。

 

厚久は奈津美と結婚し、5歳の娘・鈴を育み、今も、夢を共有する武田との友情を延長させていた。

 

プロのミュージシャンになること・起業すること ―― これが二人の夢だった。

 

その夢の実現のために、中国語と英語のレッスンを続けている。

 

「不思議だよな。英語だとすらすら本音を言える」

 

映像のコアとなる表現が、親友と心を通わす武田の口から吐露された。

 

レッスンの帰りに、武田は厚久の家に寄り、奈津美と鈴との団欒の中に溶け込んでいる何気ない風景が提示される。

 

しかし、この風景を大きく変容させる事態が出来(しゅったい)する。

 

本の配送会社に勤めている厚久が、勤務中に眩暈(めまい)がして早退して家に帰ると、妻の奈津美が見知らぬ男と情事に耽る現場に出くわしてしまうのだ。

 

目撃された妻と目を合わすが、衝撃を受けた厚久は、動転して言葉も発せずに、家から飛び出していく。

 

そのまま、自転車で娘・鈴の幼稚園に迎えに行く厚久の心には、抜けない棘が刺さっている。

 

「悪いんだけど、鈴に風邪移さないで」

 

娘と二人で食事をする奈津美は、具合の悪い厚久にそう言うだけで、昼間の情事の件に触れることなく、恥じる様子もない。

 

そればかりか、押し黙っているだけの厚久に対し、奈津美は言い放った。

 

「あなたからは、愛情感じないから、私はずっと苦しかった。あたしの気持ちは、あっちゃんには分からないと思うけど、苦しかった。この5年、ずっと」

「ずっと?」

「うん、ずっと」

 

妻の顔を呆然と見つめる厚久。

 

「あたしと付き合う前、あっちゃん、早智子(さちこ)さんという女の人と婚約していたでしょ。あっちゃん、婚約破棄してまで、私と付き合った。あのとき、早智子さんには悪いことしたよね。あの人のこと、相当傷つけたよね。私がバカだったって思うんだよね。早智子さん、今頃、どうしてるんだろう。可哀想」

 

そう言って、嗚咽を漏らす奈津美。

 

「何で今更、そんな話」

 

ここでマターを一転させ、奈津美はシビアな話に遷移させていく。

 

「鈴は、私が育てるから、お金のことは任せる。鈴が育てるのに必要な金額は、また改めて相談するってことでいいかな。今すぐには決められないし。それと、これは申し訳ないんだけど、鈴の幼稚園を変えるわけにいかないから、このまま、ここに住みたいと思ってる。意味分かるでしょ…何か、言って?私を全否定してもいいんだよ」

「…うん、全部分かった。でも、分からなくなっちゃったのは、じいちゃんがいたのかいなかったのか…」

 

タンスの上に飾ってある祖父と、二人の兄弟の写真を見ながら、そう答えるばかりの男が、そこに置き去りにされた。

 

夢の具現化から遠ざかる一歩 ―― これが、置き去りにされた男の最初の被弾だった。

 

「私の夢は、庭付きの家を建てることです。妻と娘のために。それと、犬も欲しい」

 

英語のレッスンを受ける男が、担当の女性教師に話した英語だが、最後の授業であるとも告げ、武田と共に帰路に就く。

 

月謝が払えなくなったからである。

 

言わずもがな、中国語のレッスンの途絶も同じ理由。

 

「いいんだよ、あんな嘘つかなくて。庭付きの家の話」

 

その帰路で、親友を思いやる武田の助言に対し、厚久は家を持つことも、武田と起業することも夢であることに変わりがないと答える。

 

まもなく、武田のもとに奈津美が訪ねて来た。

 

「奈津美、お前、ずるいよ」

 

武田の最初の一撃には、親友を裏切った女への感情が存分に込められていた。

 

「武ちゃんは、何を知ってるの?何も知らないで私を責めるのは、ずるいよ。あっちゃんも、ただ被害者面してるんだとしたら、それもずるい」

「…厚久は、お前が大変だった時に、婚約を破棄してまで、お前を救おうとしたんだ」

「知ってるよ。だから?だから、悲しいよね。私は救って欲しかったわけじゃない。愛して欲しかっただけなの。離婚の話してるときも、あっちゃんは、ずっと違うところ見てた。私の目なんて、見なかったよ。そういう夫婦だったの。分かる?じゃ、結局、どうするのが一番だったの?やっぱり、武ちゃんと結婚してれば、良かったんじゃないかな」

「冗談でも、やめろ」

「でも、私は好きだったよ。高校生のとき、ずっと」

「そういうことは、言うなよ。頼むから」

「あっちゃんは、婚約してた。早智子さんて人が、家にいた。ごめんなさい、ごめんなさいって何度も謝るの。あっちゃん、それから変わっちゃった。分かってたよ。私は結婚すべきじゃなかったの。でも、そのときもう鈴がお腹の中にいたし、頑張るしかなかったけど、やっぱり駄目だった。悔しいけど。あっちゃんが愛したのは、私じゃなかった。だから、この5年は、鈴だけのためにやってきた。でも、あたし。今、好きな人がいるの。人を好きになるっていう自分の気持ち、あたし、絶対否定しない。それが間違いだと思ったら、悪いけど、こんな理不尽な人生やってられないから。女でいるって、重要なの…」

「もういい、いい加減にしろ!男と女の話は、お前らでやってくれ!俺はそんなに暇じゃない…ごめん、嘘だ。何かあったら、電話しろ」

 

翌日、武田は厚久に会い、離婚の原因について問い質す。

 

「今、寂しいか。離婚して、泣いたか」

 

首を横に振る厚久。

 

「ムカつかないのか。何でだ。鈴ちゃんには会いたくないのか」

「どっちにしたって、言わない方がいい。言いたいよ。でも、言おうと思っても、何でだろ、声が出ないんだ。日本人だからかな。心の中では泣いてるよ。でも、実際、涙が出ないんだ」

「俺は、お前を信じてるけど、お前が悪かったのか?」

「ああ」

「何をした」

「彼女を悲しませた」

 

半年後、奈津美は同性相手が働かず、生活費に困っていた。

 

男は、デリヘルでも何でもできるだろと開き直るのだ。

 

「デリヘルなんて、簡単にできるよ。だって、大事な娘と、好きな人のためでしょ。できるよ。簡単な気持ちで、あなたといるわけじゃないの。私も、もうどこにも行けないからね。これだけは言っとくけど、絶対に別れない。覚悟決めてるの。当たり前でしょ」

 

奈津美は厚久に電話をかけ、少しだけ振り込んでくれと頼む。

 

分かったと答える厚久は、何かを言いかけるが、それ以上話せなかった。

 

「ごめんね、ごめんね」

 

奈津美は厚久に謝り、涙を流す。

 

お盆に実家へ単身で帰った厚久は、そこで初めて奈津美と離婚したことを家族に告げた。

 

大麻を吸い、引き籠りがちで仕事に就けない兄も、その話を又聞きし、驚いている。

 

その兄は、後日、弟が住んでいるであろう家に訪ねると、そこには、奈津美と鈴、そして、同棲相手の男が住んでいた。

 

外に出たその男を、厚久の兄は付け回し、あろうことか、殺してしまうのだ。

 

半年後、厚久と両親が徹が収監されている刑務所にやって来た。

 

ラーメン店で父親が客に頼んで、親子3人の家族写真を撮る。

 

「バカだな。くだらない奴ほど、のうのうと生き残る」

 

厚久の父親は、こんなことを平然と言ってのける男なのだ。

 

刑務所近くの公園へ行き、今度は、母親の提案で刑務所をバックに家族写真を撮る。

 

一方、殺された同棲相手の男の借金の返済を求めて、強面の3人が奈津美の家に上がり込んでいた。

 

切羽詰まった状況下に捕捉された奈津美は、逃れる術もなく、連帯保証人としてサインするに至る。

 

片や、厚久が元の自宅へ来たが、そこにはもう誰も住んでいなかった。

 

玄関のドアを叩き、「ごめん」と言いながら、早智子が厚久の元にやって来た時のことを回想する。

 

早智子は自分が子宮に問題があると分かり、子供が産めない体だったことを告げ、結婚しないで良かったんだと吐露するのだ。

 

「いいなあ、私も女の子が欲しかったから。可愛がってあげてよね」

 

厚久は、その言葉を受け、涙ながらに謝罪する。

 

「ごめん、奈津美を大切に思ってる」

「分かってるけど、そんなにはっきり言わないでよ。好きじゃないから、私にはそうやって、本音を言えるんだよね」

 

そこに、奈津美が帰って来たところで、回想シーンは閉じる。

 

譬(たと)え誤解であったとしても、厚久と早智子の睦み合う現場を、奈津美に目視されたという一件が負い目と化した男が、ここで決定的に沈み込んでいく。

 

全ては、この早智子に話した奈津美への思いを言語化しなかったこと ―― これに尽きるだろう。

 

鈴を実家に預け、デリヘルの仕事に就く奈津美。

 

これが、窮乏生活を強いられた奈津美の〈現在性〉だった。

 

 

人生論的映画評論・続: 生きちゃった('20)   石井裕也 より

町田くんの世界('19)   石井裕也

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<余りある利他心が、「健全な個人主義」に収斂されていく>

 

 

 

1  必死に走り続ける「町田くん」の青春譚

 

 

 

「善」の記号性を被(かぶ)せたような高校生が、スクールカーストが常態化しているスポットで、心弾む気持を捨てることなく呼吸を繋いでいる。

 

件(くだん)の高校生・「町田くん」は、「善」の絶対記号のようだった。

 

「キリスト」などと揶揄され、その存在の異様性が際立っているのだ。

 

バスで席を譲ったり、子供の風船を追いかけて疎水に落ちたり、束ねて運ぶ本を書架に戻してあげたり、元気のない女子を励ましたり、部活でレギュラーになった男子に声をかけ、喜びを分かち合ったり、等々。

 

そこに「善行」という意識が微塵も拾えず、これらのアクトを、いつでも率先して起こすから驚くのである。

 

「人間好き」を体現する、そんな「町田くん」が、「人間嫌い」を公言する同級生の猪原に興味を持ち、いつもと同じように、普通の利他的行為に振れていく。

 

ハンカチを借り、そのお礼を言うために走って追いかけたり、凛として、「これは何か違う。彼女、大切な人なんです」と言い切って、同じ学校の生徒にナンパされている彼女を連れ戻したり、等々。

 

さながら、ムイシュキン(「白痴」の主人公)を彷彿させるような、ただの世間知らずで、洞察力欠如の印象を与える「町田くん」にとって、特定・非特定を問わない他者の「困った状態」に無関心ではいられないのである。

 

「雨だと、家に閉じこもっていても許されるから。ここにいていいよって言ってくれてる気がするんだ」

 

孤独の本質を射抜くような猪原の言辞である。

 

そんな猪原が「町田くん」に好意を抱くようになる。

 

「町田くん」は、その好意の意味が理解できない。

 

同学年の西野との会話が面白い。

 

「恋って、どういう気持ち?他の好きと、どう違うの?」

 

恋を知らない「町田くん」の言葉に驚きながら、真剣に説明する西野。

 

「他の好きと、根っこは一緒だと思うよ。それがちょっとしたきっかけで、爆発するみたいに、魔法みたいに恋になる」

 

今度は、それを猪原に聞くのだ。

 

「どんなことがきっかけになるんだろう。好きな気持ちが爆発するみたいに恋になるきっかけって何?」

 

問われた猪原の方が狼狽(ろうばい)する。

 

「分かんないよ、そんなこと」

 

そう、反応するだけだった。

 

しかし、異性に対する恋愛感情を持ち得ない「町田くん」に翻弄される猪原は、もう、ギブアップ。

 

父の言葉が推進力になって、猪原に対する感情が異性愛であることを実感する「町田くん」は、ギブアップした猪原を、「生まれるんだ!新しい町田!」と叫びながら追い駆けるのだ。

 

しかし、もう手遅れだった。

 

ロンドンに留学する意志を固めた猪原に対する「町田くん」は、意気消沈するばかりだった。

 

珍しく落ち込んでいる「町田くん」を励ます高校生たち。

 

その高校生の中に氷室もいた。

 

「町田くん」をバカにしていた彼は今や、「一生懸命」に生きる「町田くん」に感化された一人だった。

 

以下、それを印象づけるような二人の会話。

 

氷室は、付き合っていたサクラから贈られた時計を投げ捨てた。

 

その時計を拾う「町田くん」。

 

「ダメだよ、氷室君。君はもっと、人の気持ちを大事にしなきゃ、ダメだ。これはゴミなんかじゃない」

「何?偉そうに説教?人の気持ちを大事にしろ?あはは、そんなの聞き飽きたし、何百回も言われたわ」

「それだけじゃない。君は自分の気持ちを考えないから、人の気持ちも分からないんだ。もっと自分を大事にしたほうがいい」

「はぁ?何だよ、じゃ、お前分かんのかよ。え?その気持ちとやらを」

「分からないから、言ってんだ!どうするんだ、俺」

「知らねえよ。てか、やっぱ、お前、変だ」

「そんなの聞き飽きた。今まで、何百万回も言われたよ!」

 

「町田くん」に近づいて、胸倉を掴む氷室。

 

「おい、何でお前は、いつもそんな一生懸命なんだよ。あぁ、ムカつくな。言っとくけどな。そんな、必死に一生懸命生きても、いいことないぞ!」

「でも、氷室君、今、一生懸命な顔をしてる。難しいけど、頑張って想像してみないと…これには、さくらさんの一生懸命な気持ちがこもってる。想像しないと」

「想像…」

 

そんな会話だったが、氷室の表情から怒気が消えていた。

 

物語をフォローしていく。

 

仲間に尻を押され、再び動き出す「町田くん」。

 

サカエの自転車を借り、必死に走り続ける「町田くん」の前に、風船を飛ばされた子供が現れたので、自転車を降り、風船を取ろうとするが、猪原のことが忘れられない「町田くん」は子供に自分の思いを率直に伝え、そのまま、風船に導かれ、大空を飛翔していく。

 

そんな折、猪原が空港へ行くための電車に乗り合わせた雑誌ライターの吉高は、没になった原稿を猪原に渡し、読んでもらうことになる。

 

そこには、「町田くん」のことが記述されていた。

 

「この世界は悪意に満ちている。弱い者をいじめ、自分のことしか考えない。命を簡単に踏みにじり、他人の不幸を喜ぶ。思いやりなんて存在しない。この世界は悪意に満ちていて、まるで救いようがない。長い間、そう思いながら暮らしてきた。でもある日、私の前に一人の青年が現れた…世界は悪意に満ちている。本当に、そうだろうか…彼が、町田君という名の青年が見る世界は、きっと美しいに違いない」

 

その文章を読み、感銘を受け、目を潤ませる猪原。

 

「町田君に会いたくなりました」

 

そう言うや、車窓から空を飛ぶ「町田くん」を目視した猪原と吉高は降車し、「町田くん」が気づくまで、彼の名を呼び続けるのだ。

 

猪原に気づいた「町田くん」は、ジャンプする彼女の手を掴み、抱き上げ、二人で大空を飛翔していく。

 

その光景を見て驚く氷室とさくら、西野とサカエ、そして「町田くん」の家族。

 

「これから、どうすればいいんだろう」と「町田くん」。

「分からない。けど、ゆっくり行こう」と猪原。

 

ところが、カモが近づき、風船を割ってしまうのだ。

 

地上に落下する二人が落ちたのは、自校のプールだった。

 

「何でだろ。分かんないけど、まだ生きてる!」と「町田くん」。

「何でだろう。生きてるね!きれい!ねえ、町田君。町田君には、何が見えてるの?優しい人ばっかり?醜くて、どうしようもないような人間は、町田くんには、見えてないの?」

 

猪原は「町田くん」に問いかける。

 

「町田くん」は、明瞭に言い切った。

 

「今は、猪原さんが見える。猪原さんしか見えない。他のものは、見えなくなってしまいそうなんだ。それって、いいことなんだよね?猪原さん、君が好きだ」

「私も!」

 

ラストシーンである。

 

 

人生論的映画評論・続: 町田くんの世界('19)   石井裕也 より