ハンセン病差別の底知れぬ地獄

 

1  「絶対終生隔離」という凄惨さ

 

人類史の中で、その感染力の高さから世界的に流行したコレラ、ペストと切れ、感染力の低いにも拘らず、感染力の高さが吹聴されたことでハンセン病患者ほど差別されてきた人たちはいないだろう。

ハンセン病は怖ろしい。

この一語が全てだった。

宿痾(しゅくあ)というスティグマが張り付けられたら、もう変わらない。

変わりようがないのだ。

直近で書いた「沖縄狂想曲」でも言及したように、米軍の残虐な仕打ちを怖れ、肉親同士が殺し合った地獄(チビチリガマ)を経験し、大本営(陸軍の参謀総長と海軍の軍令部長)の命令によって、本土決戦の準備の時間稼ぎのためにのみ、3か月間に及んだ地上戦で20万人を超す死者を出す「沖縄戦」(半分弱が民間人)を戦わされた沖縄の人々に対する、当事者意識がない本土サイドの露骨な差別はあまりに理不尽だった。

終戦後、「銃剣とブルドーザー」によって「沖縄を無期限管理」とする米軍の方針によって土地の強制収用が断行され、住民が守ってきた先祖の墓は平気で破壊され、好き放題に基地が作られていく。

「何ですか、これは。どこまで沖縄の人は我慢すればいいのですか」

時の大田昌秀知事の怒りの炸裂は、米軍のみならず、日本政府に向けられた。

その革新知事が満を持して建立したのが糸満(いとまん)市摩(ま)文(ぶ)仁(に)に平和の礎(いしじ)。

国籍を問わず、軍人や民間人を区別せず沖縄戦などの全ての戦没者を刻銘(戦没者の氏名を刻むこと)したのである。

しかし、信じられない事態が発生する。

刻銘の中にハンセン病患者の名がないのだ。

1995年6月に建設された「平和の礎」にハンセン病者の刻銘が許されたのは、小泉政権下で、ハンセン病問題の解決(ハンセン病国賠訴訟で元患者らが熊本地裁判決で全面勝訴を勝ち取った)が図られた2004年以降のことで、それまで、沖縄におけるハンセン病療養所設置(沖縄愛楽園)は県議会をはじめ、そこだけは本土と歩調を合わせるように、各地で猛反対に遭っていて患者は放置されていた。

差別される沖縄でも、死に近接することで穢(けが)れの観念の極北と化すハンセン病者は底知れぬ差別の餌食になっていた。

宿痾(しゅくあ)というスティグマを負ったハンセン病者は、米軍と本土から踏み台にされた沖縄住民たちの、その踏み台にされていたのである。

自分より劣る者と決めつけて比較することで、自我を安寧に保持する「下方比較」(かほうひかく)の心理学である。

江戸時代の座敷牢に代わって、精神障害者らを私設の牢屋に閉じ込めた公認のシステムを「精神病者監護法」と括って、ハンセン病者と精神障害者らを閉じ込める「私宅監置制度」が国家の指針によって制定されたのである。

1900年のことだ。

この「私宅監置制度」は「精神病院法」と共に1950年に廃止、代わって、国民の精神的健康の保持向上を目的に「精神衛生法」が公布・施行され、全自治体に公立精神病院の設置が義務付けられていく。

にも拘らず、米軍管理下の沖縄では1972年の「本土復帰」まで、人権無視の「私宅監置制度」が残っていたという現実を、私たちは重く受け止めなければならない。

そして1931年、従来の法律を改正し、患者たちの猛反対を押し切って「癩予防法」が成立し、強制隔離というハンセン病絶滅政策が開かれていく。

全国に国立療養所を配置し、全ての患者を入所させる体制が確立したのである。

何より理不尽なのは、戦後になっても状況が変わらないどころか、ハンセン病差別の底知れぬ地獄の風景が、「世間」という名の大衆社会からの視線の尖りによって、より酷薄なる状況が露呈したこと。

療養所に押し込まれたことで「世間」への出入りが困難になったり、また「世間」に埋没し、隠れ忍んでいた人も医療の対象外になったり、「普通」の生活の営為が遮断されてしまうのだ。

自宅で療養する患者もハンセン病と診断されると、市町村や療養所の職員、医師らが警察官を伴って患者のもとを訪れることで近所に知られ、その家族も偏見や差別の対象にされるので、患者は自ら療養所に行くという選択肢しかなかった。

かくて、いわれなき差別を受けたハンセン病患者は、棘(とげ)があるために逃亡不可の柊(ひいらぎ)の垣根(隔ての森)に隔離される生涯を送るのだ。

「絶対終生隔離」である。

地域から患者を一掃すること。

「癩予防法」に先立って市町村で実施された「無癩県運動」の広がりを支えたのは、警察・宗教界・愛国婦人会。

この国の「絶対終生隔離」が確立するのだ。

「絶対終生隔離」という地獄はハンセン病の特効薬の開発(1943年のプロミンの開発)があり、日本でも使用されるようになっても微動だにせず、隔離政策が揺らぐことはなかった。

そして1953年に制定された「癩予防法」が1996年に廃止されるが、この間、「優生保護法」(1948年)の制定によってハンセン病は優生保護法の対象とされ、断種・堕胎(「優生手術」という名の不妊手術、人工妊娠中絶)の合法化を導くに至る。


【優生保護法 第一条 この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする】
【患者に対する断種は、「癩予防法」制定の中心人物であり、現在の国立療養所多磨全生(ぜんしょう)園(えん)(東村山市)の院長だった「救癩の父」光田(みつだ)健(けん)輔(すけ)が、療養所内で結婚を許す条件として断種を行ったことが先鞭となって、全国の療養所に広まった。光田健輔の影響力は強く、政財界人との交流で彼の意見は国策に反映されていった。2024年7月、最高裁は不妊手術の強制が憲法13条(幸福追求権)違反の判決を下した】

「ハンセン病は国家の恥」⇒「ハンセン病患者は危険な病者、且つ犯罪者・放浪者だから閉じ込めておけ」という陰謀論の如き風潮は、「ハンセン病は治る病気」という科学の叡智を呆気なく踏み躙(にじ)っていったのだ。

【2025年5月1日現在、全国13か所の国立ハンセン病療養所の入所者数は639人、平均年齢は88.8歳。/また現在でも世界で年間14万人が発症するハンセン病。そのうち約半分を占めるのがインドである。ハンセン病患者はカーストにすら属さない「不可触民」とみなされ、差別の対象となっていた/また現在、ハンセン病の治療はリファンピシンを中心とする「多剤併用療法」が採用されている】

 

 

時代の風景: ハンセン病差別の底知れぬ地獄   



658km、陽子の旅('22)   掬い取られた命の、それ以外にない滾り  熊切和嘉

 

1  「お父さん、私のこと一回、諦めたよね。私のこと、どう見てたか全部分かってんだからね。あん時も、あん時も傷ついた。覚えてないだろうけど、私、まだ許してないから」      

 

 

心に沁み入る素晴らしい映画だった。

 

【42歳 独身 青森県弘前市出身。人生を諦めなんとなく過ごしてきた就職氷河期世代のフリーターの陽子(菊地凛子)は、かつて夢への挑戦を反対され20年以上断絶していた父が突然亡くなった知らせを受ける。従兄の茂(竹原ピストル)とその家族に連れられ、渋々ながら車で弘前へ向かうが、途中のサービスエリアでトラブルを起こした子供に気を取られた茂一家に置き去りにされてしまう。陽子は弘前に向かうことを逡巡しながらも、所持金がない故にヒッチハイクをすることに。しかし、出棺は明日正午。北上する一夜の旅で出会う人々―毒舌のシングルマザー(黒沢あすか)、人懐こい女の子(見上愛)、怪しいライター(浜野謙太)、心暖かい夫婦(吉澤健、風吹ジュン)、そして立ちはだかるように現れる若き日の父の幻(オダギリジョー)により、陽子の止まっていた心は大きく揺れ動いてゆく。冷たい初冬の東北の風が吹きすさぶ中、はたして陽子は出棺までに実家にたどり着くのか…/公式ホームより。なお登場人物名は公式ホームから】

 

古いアパートの一室で、カップ麺を啜(すす)りながら、自宅のパソコンでカスタマーサービスのオペレーターとして在宅でメール対応の仕事をする主人公の陽子。

 

仕事が終わったら、ベッドに横になり、好き勝手にパソコンでネット配信の洋画を観ながら笑い声をたてている。

 

これが陽子の日常である。

 

就職氷河期世代の年収が少ない現実と重なっているのか。

 

従兄の茂から陽子の父親が大動脈解離で急逝したことを知らされ、茂一家と共に弘前に行くことになる陽子だが、サービスエリアで子供に気を取られた茂一家に置き去りにされてしまう。

 

サービスエリアで、知らない子供のボールを取って上げる人のいい茂。

 

置き去りにされて焦る陽子だが、ようやくヒッチハイクを受け入れる女性・立花久美子(以下、久美子)と出会い、「いいよ」と言われ安堵する。

 

同じサービスエリアで茂の車と行き違いになる。

 

「いなかった」と茂。

「ああ、そうかぁ」と茂の妻。

「や、まいったなぁ」と茂。

 

一方、陽子は久美子がサービスエリアで食事中、若き日の父の幻影を前に、独言する。

30・34

「別に行ったって行かなくてもいいんでしょ。どうせ、何も分かんないでしょ…お父さん、私のこと一回、諦めたよね。私のこと、どう見てたか全部分かってんだからね。あん時も、あん時も傷ついた。覚えてないだろうけど、私、まだ許してないから」

 

後部座席の陽子を隣に座らせ、饒舌な久美子は私事を語っていく。

 

「私、地元のデザイン会社で働いてたんだけどね、社長が会社のお金使って夜逃げしちゃってさ、急に無職。本当に使えない奴だけどさ、まさか夜逃げするとはねぇ。しょうがないから知り合いに紹介してもらって、東京の会社に面接に行ったの。今、その帰り」

 

その間、ハンバーガーを食べながら、話に耳を傾ける陽子。

 

久美子の話が続く。

 

「多分、採用されると思うんだけど、採用されたで、されたでまた問題で、子供と離れ離れになりそうなんでよね。絶対、引っ越したくないって聞かなくて。近くに母が住んでるんだけど、引っ越すならそっちから学校に行くって言い張っててさ。もう中学生だしさ、そろそろ親の事情とか理解してくれるかなぁって思ってたんだけど、全然…あなた子供は?」

「…ないです」

「結婚は?」

 

首を振る陽子。

 

「何で?…黙り込んじゃった。あんまり、自分のこと話すの苦手な人?」と久美子。34・54

 

謝るように頷く陽子。

 

「別に謝らなくていいよ。人それぞれなんだから。でも、私には無理だな。男も子供もいない人生なんて考えられない」

 

笑み含みで話す久美子は、サービスエリアで幸せそうに振る舞う人々を嫌悪する思いに振れたあと、「あなたもそう思ってるでしょ。思ってるよ。いいじゃん。どうせ一期一会(いちごいちえ)の関係なんだから、溜(たま)ってること全部吐いちゃいなさいよ」

 

結局、何も反応できず、久美子の話を聞くだけだった。

 

「聞いてもらって、すっきりした。ありがとうね」

 

別れ際の久美子の笑みに、陽子は唐突に切り出した。

 

「あの…お金貸してもらえませんか…今、私、2432円で電車も乗れなくて困ってるんです…絶対、返しますんで」

「別れ際に、急に語り出したね。まいったなぁ。今、持ち合わせないんだよね」

 

最後の一言を残して、久美子の車は去っていく。

 

乗車させてもらった陽子には感謝の挨拶もできず、パーキングエリアの狭いスペースをうろつくだけだった。

 

夜になり、寒さに震えている陽子の前に、ヒッチハイクで旅をする小野田リサ(以下、リサ)が現れ、二人でパーキングエリアで車を待っている。

 

体を温めるために短距離走をしたり、陽子に抱きついたりして退(しりぞ)けられるリサ。

 

そこに車がやって来て、「一人分なら乗せられる」と言われ、気乗りがしない陽子を見て、リサのみが乗ることになった。

 

自分のマフラーを陽子に巻き、「ありがとうございました」と言って別れていく。

 

思い切って弘前の生家に連絡するが、「12時までに来れそだか?どこそいるの」と言われ、電話を切ってしまった。

 

まもなく、陽子は3・11の取材をするフリーランスの若宮修という男の車に乗っていた。

 

若宮の目的は陽子の体だった。

 

それを交渉の材料にさせられたのである。

 

今、モーテルに泊り、満足する男に選択肢を提示された時、陽子は若宮の思い通りの選択肢に振れてしまったのだ。

 

寒さに耐え切れなかったのだろう。

 

そして今、その選択を強いられた怒りを胸に、若宮に襲いかかる陽子がいる。

 

「何で怒ってるの。僕、無理強いしたわけじゃないよね。あなた、自分で選択したんでしょ。それ忘れないでね。あなたは僕に青森まで送らせたかった。それで自分の体を使用した。そうだよね。予想外のアクシデントが起こっちゃたんだからしょうがないでしょ」

 

嗚咽を漏らす陽子が、そこにいる。

 

一人になった陽子に若き日の父が現れ、「来ないでよー!」と叫ぶ陽子を平手打ちにする。

 

逃げ続ける陽子は浜辺(相馬市の大洲海岸)に身を晒し、「痛い、痛い」と言って笑っているのだ。

 

 

人生論的映画評論・続: 658km、陽子の旅('22)   掬い取られた命の、それ以外にない滾り  熊切和嘉

 

 

あの娘は知らない('22)   小さくも、欠くべからざる旅

 

深く心に残る映像センスが眩(まばゆ)い秀作。感動もひとしおだった。

 

 

1  「どんなに分かり合えた人と出会えたと思っても、誰とも分かり合えない絶対の孤独があるんじゃないですか」

 

 

 

幼くして家族を亡くし、海辺の町にある旅館・中島荘を営む中島奈々(以下、奈々)は、休業中の9月上旬、一人の青年・藤井俊太郎(以下、俊太郎)が「どうしても泊まりたくて」と言って訪ねて来る。

 

「怪しい者ではないです。大切な人が亡くなりまして。この旅館に泊まってたみたいで。…恋人が…恋人がこの街で死んで、ここに泊まってたようで…」

 

共に喪失感を抱える奈々と俊太郎との初めての出会いである。

 

「あのぅ、何か教えてもらえませんか?どこへ行ったとか。どんな話してたとか…何でもいいんです」

「あなたみたいに突然いらして、荷物も殆ど持ってなかったので、不思議な人だなという印象がありました。あとは笑顔…笑顔が印象的でした」

「そうですか…」

 

その夜。

 

一人で海の方に向かう俊太郎と、それを見る奈々。

 

翌日の夜も海に行く俊太郎と、その傍らに座る奈々。

 

煙草を吸う二人。

 

恋人が死んでから煙草を吸い始めたという俊太郎。

 

その恋人が奈々に、初めて煙草を吸った時の話を聞かされる。

 

「唯子(ゆいこ)なんて?」と俊太郎。

「口をすっきりさせたくて」と奈々。

「知らなかった」

「知らない人の方が言えることってありません?」

 

二人はその後、スナックに入るが、奈々の同期生らが奈々がレズであるという場に出合わせた俊太郎は不快のあまり、奈々を連れて海に向かう。

 

「俺ねぇ、唯子がどこに行ったのか、探しに来たの。警察が大体、どこへ行ったかを調べて遺族に教えてくれるものだけど…唯子の親にあまりよく思われてなくて、何も教えてくれてなくて…唯子がさ、この街に来ていること自体、知らなかった…普通に仕事してるのに、連絡も取ってないし…付き合ってても…こんなに好きでも知らないことだらけだ…」

 

そう言うや、海に向かってずんずん歩いていく俊太郎。

 

そのあとを追う奈々。

 

海水をかけ合う二人。

 

「しっかりして下さい」と言って、泥酔した俊太郎を抱えるように歩く奈々。

 

路傍に倒れ込んでしまう二人。

 

「奈々さん。それ唯子に似てる」

「…あたし、好きでもない男の人としたことあるんですよ。その時、私に好きな人がいて…彼にも好きな人がいて…お互い叶わない恋をしてた…ねぇ…してる時に、私は好きな人のこと考えてて…でも彼も好きな人のこと思ってて…その時、一番愛を感じたんです…お互いが誰かを想う…その想いが二人に中にしっかりあったように気がして…分かります?」

「…分かる」

 

奈々は俊太郎に優しく唇を重ねる。

 

翌日、地元に詳しい奈々を随伴し、恋人の足跡を辿る俊太郎の旅が拓かれる。

 

「俊太郎さんは唯子さんの、どんなところが好きだったんですか?」

「手を離したらどっかへ行っちゃいそうな、掴もうとしても掴めないところが好きだった。変な奴だったんだよ、あいつ」

 

ロープウェイで頂上に上った二人。

 

「この街を出ようと思ったことは?」

「ないです。逃れられないような気がするの」

「逃れられない安心感というのがあるのかな…」

「俊太郎さんって何を考えてるかよく分からないけど、たまにちゃんとしたこと言いますよね…そういうところが唯子さんが好きだったんですかね?」

 

その夜、先日のバーに行き、マダムに唯子のことを聞く俊太郎。

 

「ちょうど1年前くらいかな。その時も奈々ちゃんと一緒に。奈々ちゃんがここに来るのに、誰かと一緒にいるの珍しいから」

「奈々さんも来たんですか?」

「そうよう」

 

夜の雨の中二人。

 

「好きな人と会ったんですよ、昨日…高校の時のこと、謝られて。それから、子供作ったら変わるよって言われました。愛とか恋とか、家族持ったことないから。私には女が分かんないんだよ。笑っちゃいました。やっぱり街なんか出るんじゃなかった。そもそもなんで来たんですか」

「えっ」

「誰かが私の前に現れなければ、静かに一人でいられたのに」

「変わりたいから変わったんじゃないの」

 

湯船に浸(つ)かっている。

 

「奈々さんいる?俺ねぇ、子供作れない体なの。昔、大きくなった時、うちの親が検査しろって、唯子だけするわけいかないから俺もした。したらさ、こんなことある、どっちも子供持つなんて難しいって…泣かれたよ、養子でもいいじゃん、それでも俺は幸せだよって言っても首を振って泣くだけ、初めて見たんだ…泣くの…4年間も付き合っててさ、初めて見た…奈々さんと別れた後、昨日のスナックに行ったんだ。唯子とこの街、回ってたの?」

「はい…どうして黙ってたのって聞かないんですか?人は知られたい生き物なんですって。本当のことを知って欲しかったのかも…唯子さんも…唯子さんはこの街で死んでません。行きますか、唯子さんが亡くなったところ」

 

以下、漁船の中での奈々の言葉。

 

「唯子さんが初めて来た時、明るくて、元気で。私とは正反対の人だった。葬式に行った夜に唯子さんがベランダに立っていて、そのまま死んじゃうんじゃないかって顔してて、二人でベランダで煙草吸っていて、次の日から、私が街を案内しました」

 

初島という小さな島に漁船が着いた。

 

「唯子さんのこと。言わなくてごめんなさい」

「俺、あんなに知りたかったのに、今、知りたくない気がする」

 

以下、初木(はつき)神社(じんじゃ)に行き、「初島の伝説」について語っていく奈々。

 

「昔、初木姫という姫がおり、ある時、伊豆沖で遭難してしまい、一人でこの小島に漂着してしまいました。姫は毎日海辺を彷徨って、対岸に人がいるのだろうかと、焚火を焚いて合図したところ、伊豆山の伊豆(いず)山彦(やまびこ)という男(お)神(がみ)がこれにこたえました。姫はこれに力を得て、橋を作って伊豆へ渡りました。そして二人は出会いました。伊豆山に渡った姫は山に登り、木の中に住む二人の子供を見つけて育てました。その子供が成長し、二人は夫婦となり、やがて子孫は繁栄していきました」

 

【初島とは熱海からフェリーで30分の小島。初木神社がある。初木姫伝説については、「知る ―― 初島の伝説】を参照」】

 

「最後に会った日。養子でもなんでもとって、私は幸せに暮らしていくよ。とても笑顔で。もう少しこの島に残ると。それからは私も知りません…唯子さんが死んだ理由は俊太郎さんとか子供とか、そういうんじゃなくて、別に理由があったんじゃないですか。どんなに分かり合えた人と出会えたと思っても、誰とも分かり合えない絶対の孤独があるんじゃないですか」

 

明日からの営業開始に向けて従業員が戻って来た。

 

奈々の両親が亡くなった場所で花を供え合掌する二人。

 

ベテラン従業員の横田が俊太郎を手招きして語っていく。

 

「しかし、奈々ちゃんが休みの日にお客さん、泊めちゃうんなんてなぁ。いいや、むしろ良かった。ご両親とお祖母ちゃん亡くしてから、ずーと遊びもせず、一人だったから」

 

その夜。

 

俊太郎の誘いで奈々は浜辺に出向く。

 

「結局さぁ、ここに来て分かったのは、俺は大バカ者ということだよね。唯子のこと、何も知らないで幸せになろうなんて」

「その優しさに唯子さんは救われてたんだね…私だったら幸せだったかも…」

「何だ、それ」

 

そう言って、二人は海に向かって歩いていく。

 

キスする二人。

 

次の日の夜。

 

奈々は啜り泣いている。

 

「…本当は…お母さんと…もっと…なんでお祖母ちゃんまで死んじゃったの…お互いがんばって生きようっていったじゃん…唯子さん…なんで皆(みんな)、置いていくの…」

 

ここで、懸命に押し殺していた感情が、静かに、しかしそれだけは共有したい思いを止められず、万感の思いを込めて吐き出されてしまうのだ。

 

奈々の手を優しく握る俊太郎。

 

奈々の両親が亡くなった場所で花を供え合掌する二人。

 

ラスト。

 

翌日、俊太郎は奈々と別れを告げ、〈祈り〉を花言葉にするサンダーソニアの花を部屋に置いて、帰途に就く。

 

人生論的映画評論・続: あの娘は知らない('22)   小さくも、欠くべからざる旅  井樫彩

 

 

道化師の夜(‘53)   自尊心の崩壊と、掻きむしられる屈辱感の行方  イングマール・ベルイマン

 

1  「逃げ出したい。銀行に預金を持ち、尊敬できる妻と暮らしたい。善良な市民として」

 

 

 

アルベルトを団長とする巡業サーカス団(アルベルチ・サーカス)が豪雨に見舞われて、サーカス団はサーカス小屋を作るのに四苦八苦していた。

「給料は支払われず、食い物も底をついた。芸人の多くは着るものがない。あんたがつらいのはわかるが、天気はどうにもならん」

「動物に手をつけるしかない」

「やめて。そんなことしたら、あんたを殺すか、自分が死んだほうがマヒさ」

「どうする気だ、アルベルト。何とか言えよ」

「好きにすればいい。でも後悔することになる。アメリカのサーカス団は各地を巡業し、バンドが演奏、象はラッパを吹く。誰もが笑顔にあふれ、通りに列を作った人々は喝采を送り、がなり声が、その夜の興行を告知する。ワゴンも馬を捨てるな。最高の衣装を着るんだ」

「衣装は置いてきちまった」

「残ってるのを使えばいい。エクバーグが舞台に立ち、アントンは進行役だ」

「悪くないな」と反応するサーカス団員ら。

 

これで、一気に盛り上がるサーカス団員。

 

アルベルトのサーカス団が辿り着いた町は、妻のアグダと二人の子供を残してきた懐かしき

町だった。

 

アルベルトの帰郷に嫉妬するのは、アルベルトの愛人のアン。

 

若い女曲馬師である。

 

「私を捨てないでね」

 

アンの一言に、「心配するな」と答えるアルベルト。

 

近くにいるサーカス団長のシェベルイに衣装の借用を頼むアルベルトに対して、「いくら払える?」とシェベルイは問う。

 

「いくらなら?」とアルベルト。

「払えぬほどの額」とシェベルイ。

「なぜ侮辱を」

「我々は互いに恥知らずなくず集団。侮辱くらい堪え忍ばねば。我々は芸術を、あなた方は策略を練る。最善を尽くしても、我々はツバで返す。なぜか。あなた方は生活に、我々は誇りに命にかけている」

 

そう言いながら、シェベルイはアンを気に入ったからか、「あんたの勝ちだ。衣装は必要なだけ持っていくがいい」と言うのみ。

 

そのアンは他の劇団員のフランに言い寄られるが、「ひざまずいて。床に頭を打ちつけて」などと、屈辱的な言葉を浴びせるばかりだった。

 

興行の宣伝で賑わう町。

 

「あなたを失ったら私はどうなるの」

「愛してるよ」

「いえ、愛してないから奥さんと会うんだわ」

 

繰り返される問答に嫌気が差して、「勝手にしろ!」と言って小屋を出て行ってしまうアルベルト。

 

3年ぶりに自宅に戻ったアルベルトに妻のアグダは冷たかった。

 

「あなたは子供を叱り、私はいつも怯えていた。つらい年月だった」

「なぜ黙ってた」

「愛していたから」

「過去のことだ」

「初めは夢中になり愛に変わった。でもあなたがいなくなると、ひと晩ですべてが消えた」「捨てたのではない。お前は聡明で俺はだらしない…ここは静かだ。変わらない夏も冬も。年が移っても、すべてそのまま」

「私は満たされている」

「俺は空虚なまま」

 

その頃、アンは若きフランを篭絡(ろうらく)しようとするが、逆に手籠(てご)め状態となる。 

 

一方、アグダの家では、アルベルトは自分の思いの全てを、意を決して打ち明ける。

 

「君とやり直したい。年なのでサーカスはムリだ。戻りたくない。ここで静かに暮らし、2人で子供を育てよう…君は黙ったままか」

「何と言えば?」

「一緒に暮らすこと」

「いいえ、それはお断り。自由や平穏な心を奪われるのはごめんだわ」

 

帰路、アンを見て彼女の不倫を疑うアルベルトは激しい口論となる。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      

フランに脅されて彼と寝たことを告白したアンに対して、アルベルトは突き放つ。

 

「お前は奴に会いに行った。サーカスにも俺にもうんざりしてたからだ。俺たちはおしまいだ。地獄に堕ちるしかない」

 

そこに道化師のフロストが、「今夜のショーは評判になるぞ」と言いながら入って来た。

 

そのフロストに向かってアルベルトは吐露する。

 

「振り返ってみたが、誰ひとり憎んじゃいない。アンだって。不貞を働いたが。なのにお前は俺を嫌う。誰よりも自分を嫌ってるが、俺は人間が好きだ。誰にもやさしい。恐れてもいない。サーカスの地方巡業も好きじゃないんだ。逃げ出したい。銀行に預金を持ち、尊敬できる妻と暮らしたい。善良な市民として」

 

ここまで言った後、アンの顔を見て言い放つアルベルト。

 

「アン。お前はそんな妻にはなれん」

 

人生に絶望したアルベルトは拳銃を取り出し、自殺しようと図るが無理だった。

 

そして迎えた巡業の夜。道化師フロストの滑稽な演技が客席を楽しませるが、その後、出て来たアンの曲馬の演技でフランの声援に気づいたアルベルトがフランを睨みつけ、フランも睨み返した。

 

【曲馬とは馬を操る芸のこと】

 

アルベルトがフランを鞭で彼の帽子を叩(はた)き、その帽子を取りに来たフランと対決の運びとなる。

 

この対決を主導したのは衣装を無料で貸したシェベルイだった。

 

2人は取っ組み合いになり、一方的にやられっぱなしのアルベルトが倒されてショーは終焉するに至る。

 

アンがフランに向かっていったのはこの時だった。

 

見知らぬ女性をフランが随伴させていたことへの怒りだろう。

 

打ち拉(ひし)がれたアルベルトと、アルベルトを案じるアン。

 

小屋に籠っ拳銃(リボルバー)に1発だけ実弾を装填するロシアンルーレット(1回目で当たる確率は約16.7%)て銃の引き金を引くが、外に向かって発射した3度目で音が出て、思わず銃を手放した。

 

直後、心配したフロストが「アルベルト。死んだのか。生きてるんだな。ドアを開けろ」と叫んだ。

 

「放っといてくれ」とアルベルト。

「わかった。知らんぞ」とフロスト。

 

自殺を決行できなくて惨めさを存分に味わったアルベルトは今、劇団員がいる外に拳銃を手に持って出て、アルマが可愛がっている熊を射殺した後、号泣する。

 

アルベルトに寄り添うアンを随伴させ、再び巡業の旅に出る。

 

 

人生論的映画評論・続: 道化師の夜(‘53)   自尊心の崩壊と、掻きむしられる屈辱感の行方  イングマール・ベルイマン

沖縄狂想曲('23)   「沖縄」とは何か

 

1  「銃剣とブルドーザー」 ―― 米軍の土地接収事業という暴力性

 

 

 

1450年代。琉球王国は他国と親密な関係を築き、世界の架け橋となって繁栄したと言われている。

 

1879年、日本が琉球(りゅうきゅう)を併合し、450年続いた琉球王国(成立は1429年)が消滅して沖縄県となった。

 

沖縄では14世紀に琉球王国が誕生し、中国や東南アジアなど周辺諸国と交易しながら、「大交易時代」と呼ばれる一時代を築いた。

 

1609年に薩摩藩の武力侵攻を受けて以降は、薩摩の支配下に置かれたが、諸外国との交易は続き、日本や中国の文化も吸収しながら、独自の琉球文化を形成していくことになる。

 

琉球文化には、三(さん)線(しん)(三味線の起源の一つ)の伴奏によって踊る沖縄民謡、盆踊りのエイサー、獅子舞などが知られている。

 

当時の王府があった首里城など県内の9か所の遺跡は、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界文化遺産に登録され、当時の繁栄を現在に伝えている。(グスクとは城塞的遺構)

 

しかし、その琉球王国も、1879年に明治維新の余波を受けて幕を閉じ、沖縄県が誕生する。

 

1941年12月8日、日本軍が真珠湾を奇襲し、沖縄県民も徴収され、戦争に巻き込まれていくようになった。

 

1944年10月10日、米軍による沖縄本島への空襲・1010(じゅうじゅう)空襲。

1944年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。国民は「生きて虜囚(りょしゅう)の辱めを受けず」と教えられていたため、多くの住民が集団自決するに至った。

 

読谷村(よみたんそん)チビチリガマ。

 

米軍の残虐な仕打ちを怖れ、肉親同士が殺し合う。そこは、まさに地獄だった。画像は丸木位里(いり)、丸木俊(とし)の大作『沖縄戦の図』

この洞窟への避難者約140人のうち83人が非業の最期を遂げた、チビチリガマの集団自決。3・58

 

以下、「NHK チビチリガマの集団自決」、「沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~」からの引用です。

 

【Q:4月1日にアメリカ軍が上陸してきましたけれども。そのとき千代さんはどこにいましたか。

 

チビチリガマ(洞窟)にいました、4月。4月…私はもう最後でした、チビチリガマに。他の人たちはもう、チビチリガマとか、波平(なみひら)(地区)はシムクガマといって2つありますけど、大きな洞窟が、で、私たちはもう最後、死ぬつもりで出なかったですから、もう最後にこのチビチリガマから死に切れずに出たんです。

 

Q:死にきれないっていうのはどういうことですか。

 

弟が、3つ下の弟がいますけどね、これがもう、私は持ってる食糧全部食べて死ぬつもり、着替えて、もう家族輪になって死のうと言ってやっているのを、3つ下の弟が、「お父さんもお兄さんも帰ってきたらどうするか、私が死んだら兄さんたちはどうするか、誰もいないとどうするか、出よう」と言って、この一言で「そうだね」、と言って、そして母が、もう男はいないから母が先頭になって皆この、腰のひもを捕まえて、一人一人出てきたんですよ。もうそのころは火を焚(た)いて窒息死ですよ。あの、看護婦してる人が2人いましたけどね、部落の人が、で、この人たちはもう注射なんか持っていましたから、先に死んで、この家族は、他の家族の人たちはもう死に切れないで、そこで布団とか衣類なんか全部焚(た)いて、その煙が中に入っていたんですよ、ガマの、洞窟の中に入って行って、その、窒息死です。で、私も一週間くらいは黒いつばが出ましたよ。窒息。で、私たちは死に切れないで、この、弟のその一言で一人一人皆やってきたら、皆こっちも真っ暗だからあっちこっちにあの、痛めて、血も出ていましたよ。

 

そして、あのころ、姉の子供が2歳でしたかね、まだ赤ちゃん抱いてましたから、姉もちょっと体弱いから、母が、母はまた気丈な人でしたから、母が抱っこして上に出てきたら、アメリカさんがいっぱいいて、どうも、アメリカさんは非常に親切でしたよ、あのころ。どうもしない、出てこい出てこいして、上まで出て行ったらチョコレートあげようとしたけど、私はもう毒が入ってるから食べるなよと言って、食べなかったですが、アメリカさんはまた自分たちで食べてみて大丈夫大丈夫と言って食べたんですけどね、そしてトラックに乗せられて、あの、とうや(都屋)の収容所と言いますかね、そこに行かれて、その途中、もう私は海に捨てられに行くんだともう覚悟してましたけど、アメリカさん非常に親切で、あの、皆がいるところに連れていかれて、これが捕虜です。チビチリガマの、死に切れないで出てきた人も60名くらいいますよ。死んだ人も半分半分くらいは死んでます、向こうで。

あの、チビチリガマで。2つ、波平という部落は非常に、村でいちばん大きな部落ですけど、あの、ガマが2つあるんです。シムクガマというのとチビチリガマというのと。して、シムクガマはいっぱいして入れないで、私たちはあの、年寄り、80歳くらいなるおばあさんがいましたから、このおばあさんを担いで、あの、私と2つ上の兄と2人で、モッコ(運ぶ道具)にかついで避難なんかしたんですね。で、それであの、山原(やんばる・本島北部)なんかにも行けないで、チビチリ行こうとしたんだがもう行けないで、チビチリガマに戻ってきたんです。

 

Q:千代さんね、半分ぐらいは生き残ったって言ったんですけれど。半分ぐらいは何で死んだんですか。

 

半分、もう、自決です、本当に。もう戦争、皆戦ってますよ。あの、大人たちは。もう、竹やり持って、死ぬつもりで、皆出来る人は出なさいよーして、あれは誰か、命令があったのかわかりませんけどね、皆竹やりを持って突撃して行ったらバラバラバラバラーとやられたんです。出ると。出ると同時に。そしてもう、出られないでどんどんどんどん追い込められて、もう年寄りと子供たちは逃げきれなくて追い詰められたんですよ。そして死に切れないで、年寄りもたくさん出ていましたね、死に切れない年寄りたちが。

 

Q:そのとき怖かったですか。

 

ああもう、死ぬと思ってましたから、怖かったとかそういうことを考える…もう海に投げられるしか考えてませんでしたからね、トラックに乗せられて、出てきたらそんなに怖かったかな…。とにかくもう、戦争は大変でした。戦争は。もう、父も、父なんかもう最後の防衛隊ですよ。47歳で、馬と馬車を持って、最後の防衛隊。そして弾薬輸送、はこばー(運搬係)だったそうです父なんかは。兄なんかはもう、普通の召集、兵隊で行ったんですけどね。身内2人あっちに、礎(いしじ)(平和の礎・糸満市摩(いとまんしま)文(ぶ)仁(に)にある沖縄戦の犠牲者の名を刻んだ石碑)にいます。もう二度と、本当に二度と戦争はもう、やりたくないですね。本当に。もう、でも、体験者はもう私たちが最後じゃないですかね。もう皆いなくなって、私が6年生とか、高等1年生ですからね。私がいちばんもう、2、3歳ぐらい上までいますかね、そんなですね。60何名かはチビチリガマから出ています。

 

Q:同じ60何名(チビチリガマの死者は83人と言われてる)の人がガマで亡くなったんですか。

 

亡くなって、私は足、踏んで出てきていますよ。もう、息も絶えて、あの、たくさん煙を飲んだ人たちはもう息もできなくなってうなってました。それを今度は足で踏んで、ずっと奥に奥に逃げて行きましたから、足で踏んで、一人ずつ腰のひもを捕まえて、あの、倒れてる人を足で踏んで出てきました。

 

Q:その感触は覚えていますか。

 

覚えてますよ。もう、集まって、家族集まって輪になって、食糧も全部食べて、「死のうねー」と言ってやりましたからね。これはもう、はっきり覚えてます。

 

かわいそうでした、本当に。私もやがて、やがてでしたよ。一週間くらいたんがでて、黒いたんが出て、あのときは忘れられませんね。だから生き残りの人たちもこの、亡くなった人たちに対して、済まないという気持ちで皆結束して、これはもうあの人たちに対して済まないから言わないでおこうねと言って、皆口を閉ざしてなかなか言わなかったですよ。生き残りの人たち。だけども、そういう先輩の方々も皆亡くなっていますからね。あんまり分からないはずです。私の年代がもういちばん若い。年が上で。もう、あのころ、勉強もあまりしないで、もう、あの、何運んだかね、木の皮削りに行ったり、あんなでしたからね、沖縄は。学校も勉強もしないで、だからできないようになったかなーと思いますよ/証言者は大湾千代さん。読谷村(よみたんそん)に生まれ、読谷村のチビチリガマでの集団自決で生き残った】(「NHK チビチリガマの集団自決」)

 

【3か月間に及んだ地上戦で20万人を超す死者を出した「沖縄戦」。そのうち9万4千人は、沖縄の住民だったとされています。

 

大湾千代さんは、米軍の上陸地点となった沖縄本島中部・読谷村に住んでいました。当時、読谷村には住民総動員で作られた陸軍の北飛行場がありました。大湾さんは、およそ140人の地元住民とともに洞窟、「チビチリガマ」に潜んでいましたが、米軍につかまれば残酷な方法で殺されると言われていたことから集団死が発生しました。家族の手によって殺されるという悲劇で、幼い子供を中心に83人が命を落としました。

 

大湾さんはかろうじて集団死を逃れることができましたが、防衛隊に参加させられた47歳の父と兄そして、姉を沖縄戦で失いました。

 

戦後、読谷村の大部分は米軍に土地を奪われ、村の面積の95%が米軍施設となり、生きるために八重山に開拓民として移り住んだ人もいました。また、村内では、不発弾処理がひんぱんに行われた上に、演習による死亡事故が起こり、人々を苦しめました。いまも、村土の半分が米軍施設という状況が続き、生まれ育った土地に住むことのできない人々が少なくありません。

 

大湾さんは、戦争の記憶と家族を失ったこと、チビチリガマで多くの人が亡くなったことにいまも苦しんでいます。また、飛び交う米軍機を見たり、その轟音を聞いたりすると、昭和19年10月の「十・十空襲」を思い出すと言います】(「NHK 沖縄戦 心の傷 ~戦後67年 初の大規模調査~」)

 

沖縄決戦と呼ばれ、沖縄での組織的戦闘を行った大本営直轄の第32軍(沖縄守備軍)の使命は勝つことではなく、米軍を消耗させることだった。

 

大本営は本土決戦の準備の時間稼ぎのために、沖縄を捨て石にしたのである。

 

【第32軍は、1944年3月22日に、大本営直轄の沖縄守備軍として創設された】

 

松代(長野県)にある「松代(まつしろ)象山(ぞうざん)地下壕」に大本営を移し、本土防衛体制を構築して米軍を迎え撃つこと。これが32軍の使命だった。

 

主要政府機関や皇居を移すため、海から離れ、山が固いという理由で選ばれた松代の地下壕造営には、1万人の日本人、沖縄人、朝鮮人が駆り出された。

 

「沖縄戦の位置づけというのは、大本営ができて天皇を守る体制、国を守る体制、本土を守る体制ができるまでの時間稼ぎのために沖縄を使った。その流れの中で、『32軍よくやった』という打電を受け、牛島満(中将)は自決した」

 

沖縄戦は、本土を守る体制ができるまでの時間稼ぎのための戦争だったのだ。

 

1945年6月23日、第32軍司令官・牛島満(みつる)の自決によって、沖縄での組織的戦闘は終結する。

 

生き延びた生存者は収容所へ移送される。

 

壊れた家を修復する。拾ってきた物で新しい家を建てる。

 

新しい生活が始まったのだ。

 

しかし1950年2月、「沖縄に恒久的基地建設を始める」とGHQは発表し、住民の強制的土地接収を遂行していく。

 

それは、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれるほど暴力的なものだった。

 

1954年1月、米大統領は「沖縄を無期限管理」と明言する。

 

「自分たちの土地で、自分たちの沖縄県なのに、自分たちの物じゃないなと。その米軍基地というもの。戦争の道具・装置というものが、これはちょっと違うだなと…」

 

「強制収用というものは軍事基地ですよね…我々の仲間の血を流して獲得した土地である。占領地だという意識ですね」

 

また、先祖の墓が基地内にあるという強制収用があった、と証言する僧侶。

 

1952年2月、読谷村(よみたんそん)で強制的土地接収が始まり、そこでソ連と米国の冷戦時代に世界中に造られたのが、あらゆる軍事通信の傍受・分析を担う「象(ぞう)の檻(おり)」だった。

 

「トリイステーション」(トリイ通信施設/沖縄県読谷村にあるアメリカ陸軍の基地)となる場所は、「反戦地主」として知られる知花昌一さんたちが代々受け継がれてきた土地だった。

 

この土地の返還を求めて家族と共に明け渡し訴訟を起こしたが、日本政府は1997年4月、「米軍用地特別措置法」を改正し、使用期限を事実上、半永久的に延長可能とした。

 

「僕は国会にまで行って抗議をして、そこでパクられたんですよ」

 

【Wikipediaによると、知花(ちばな)昌一(しょういち)さんは、不法占拠状態に対して国に国家賠償訴訟を提起していたが、国が供託金を既に払っていることを理由に請求を棄却する判決が2003年11月に確定した】

 

【「銃剣とブルドーザー」とは、沖縄戦後から米軍が基地を拡大するために武装兵を送り込み、ブルドーザーで沖縄住民の家屋や土地を破壊し、暴力的に実施された土地接収事業のこと。住民は収容所に送られ、広大な土地が接収されて基地建設が進められた。/「象の檻」は、沖縄に集中する米軍基地問題の象徴の一つでもあり、住民の日常生活の傍に巨大な諜報施設が存在する異様な光景は、沖縄の抱える重圧を物語っている】

 

アメリカの文化や米軍兵のデザートに憧れていたという人や、服をもらって喜ぶ人、アメリカ人に親近感を抱くなどという沖縄の人も多くいたにも拘らず、やっぱり「基地の問題は…」というところに落ち着くのである。

 

年間で4万回以上の離発着が行われている嘉手納(かでな)飛行場。

 

「嘉手納飛行場の訓練で、本当に低空で飛んできて、何回も夜中から。夜は飛ばさないと、そういう嘘を言う。日本政府と約束しても守らないですね。それを守らないのは日本政府が弱腰じゃないかと思う」

 

タッチアンドゴー(離着陸訓練)などによる基地周辺の騒音は、大きい時で100デシベルを越える。電車が通る時のガード下の音量、即ち、隣同士で話しても聞こえないレベルの騒音である。

 

【アメリカ空軍が運営する嘉手納飛行場(嘉手納基地)は、4000級の滑走路2本を有し、100機以上の軍用機が常駐する極東最大の米軍基地である。軍人・家族、軍属、日本人従業員を含め人員2万人以上に上る。面積においても品川区とほぼ同等の20平方km(東京ドーム約420個分)、日本最大の空港である東京国際空港(羽田空港)の約2倍である/ウィキ】

 

1960年代後半、コザの街は米軍兵で賑わっていた。

 

彼らの多くは貧しい家庭で生まれ育っており、金を稼ぐために入隊した者が多かった。

 

でもベトナムへ行って命を失うことになれば、貰った金も意味がなくなる。

 

ベトナムに派兵される、その前の日に、有り金を全て使ってしまう者が数多くいた。

 

もう生きてアメリカに帰ることはできないかも知れない。そんな思いを抱えながら、兵士たちが酒を飲み続けたのが、この街である。

 

1959年、米軍戦闘機 うるま市に墜落 17人が死亡、210人が重軽傷

 

2004年8月 米海兵隊のヘリコプターが沖縄国際大学に墜落・炎上

2016年12月 名護(なご)市にオスプレイが墜落

2023年8月 オーストラリア沖でオスプレイが墜落 3人死亡

 

【オスプレイ(V-22)はアメリカ海兵隊の輸送機で、飛行機とヘリコプターの両方の特性を兼備し、飛行機のように速く、ヘリコプターのようにホバリング(空中停止)が可能。日本には、陸上自衛隊が17機を配備している。またオスプレイの事故は、プロペラとエンジンを繋ぐクラッチが離れ、それが再結合する際に衝撃が発生する現象(ハード・クラッチ・エンゲージメント)によって発生する】

 

米軍兵による事故・犯罪が多発するという沖縄特有の厄介な問題があり、沖縄県民でないと分からない問題が多々ある。 

 

「沖縄以外に住んでいても大きな事件は報道されるんですけれども、こちらに来ると、それ以上に、もう毎日毎日、事件や事故のことが米軍関係で報道されていて、自分も通勤で車で走っていると、米軍車両が事故を起こしたりするのを見て、自分たちが報道で知ることのない事件や事故が如何に多いかということに本当に驚きました」

 

「本土」では理解に及ばず、沖縄県民でないと実感できない問題が並はずれて多いのだ。

 

「本土」で沖縄の印象を聞くと、以下の通り。

 

「沖縄、好きですよ。青い海と温暖な気候。また行きたいな!」(OL)

「毎年、サーフィンに行っています。海の色、違うでしょう?」(大学生)

「行ったことないんですよ。奇麗な海見て、仕事のこと忘れたいよ」(会社員)

「え、基地問題?よく分かんない。まあ、仕方ないんじゃない」(OL)

「台湾有事が叫ばれている今、やはり沖縄の米軍がいないとね」(会社員)

「基地問題?関係ないんじゃない?沖縄、あ、毎年行きます。ゴーヤチャンプルー、好きですよ」(会社員)

 

【「本土」とは、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」(沖特法)によると、沖縄以外の日本の地域を「本土」と定義している。要するに、「本土」の概念は、離島・属国・植民地などとの対比で使われるのである】

 

 

人生論的映画評論・続: 沖縄狂想曲('23)   「沖縄」とは何か  太田隆文

敵('25)   自ら在るべき〈死〉を呼び込み、春を待望する男

 

1  「残高に見合わない長生きは悲惨だから」

 

 

 

瓦屋根の日本家屋で一人暮らしをする70代半ばの儀助。

 

フランス文学を専門とする元大学教授である。

 

シャケを焼き、朝食を摂る。

 

洗面所で歯を磨く。

 

食後は手動のミルでコーヒー豆を挽(ひ)き、コーヒーと朝刊を手に書斎に入り、いつものルーティンを守っていく。

 

講演の依頼の電話を受け、一律10万の講演料である旨を確認する。

 

自分の預貯金の額が尽きる日=死ぬ日をXデーと決めている儀助は、グラフィックデザイナーの湯島に対して遺言書は殆ど書き終わったと言うのだ。

 

そんな中、かつての教え子・椛島(かばしま)が訪ねて来て、物置の片づけを手伝いに来てくれた。

 

空(から)井戸(いど)になっている古井戸を改修して、水が湧き出る井戸にすると言って帰って行く。

 

更にもう一人、訪ねて来た靖子から、「先生みたいに、素敵で成熟した人間にいつかはなれるのかと思ってたのに、難しいですね。全然、差が縮まらない」と言われてたじろぐ儀助。

 

かつての美しい教え子・鷹司(たかつかさ)靖子(以下、靖子)に言われ、平静を失っているのだ。

 

「余計なもの見つけて、わざわざ自分から病気になりに行くこともないだろ。健康診断は、人を健康にしないよ。まぁ、健康すぎるのも問題だけどね。残高に見合わない長生きは悲惨だから」

「いざとなったら、周りとか国とかに頼ればいいじゃないですか」

「どんな国の政府だって、収入がなくて税金を払えない人に長生きしてほしいとは思わないでしょ。頼りにしないと決めた方が逆に落ち着く」

「生きていれば、何かいいことがありますよ」

「そのいいことが続けられなくなった時に、どうするって話。君も一度、あと何年持つか、計算してみたらいい。不思議と生活にハリが出るから」

 

人間ドックに入るという湯島との会話である。

 

キムチを食べて血便が出て、大腸の内視鏡検査を受けるが、注意をされただけだった。

 

「夜間飛行」というバーで、フランス文学を専攻する大学生・菅井歩美(すがいあゆみ/以下、歩美)と出会い、フランス文学の話になり、話が弾む。

 

儀助がパソコンで「敵が来ると言って、皆が逃げ始めています。北の方から来るらしいけど、もう近くにいるという噂も。逃げる準備について知りたい方は」というスパムメール(迷惑メール)を目にするが、すぐ削除する儀助。

 

この一件から、儀助の日常に異変が生じる。

 

 

人生論的映画評論・続: 敵('25)   自ら在るべき〈死〉を呼び込み、春を待望する男  吉田大八

ぼくのお日さま('24)   代替不可能な「自己効力感」を手に入れた少年の物語

 

1  「あげるんじゃないよ。貸すんだよ。その靴じゃ、いつまでたってもスピンはできないよ」

 

 

 

北国の雪深い田舎町。

 

スポーツが苦手で吃音の少年タクヤの視界に入ってきたのは、アイスリンクでドビュッシーの「月の光」に合わせて、フィギュアスケートの練習をする少女さくら。

 

柔らかな冬の外光がアイスリンクに差し込み、流れるように滑る少女を照らし、そこだけが特化したようなスポットは美しい輝きを放ち、雪国の苛酷さを異化しているようだった。

 

かつて、フィギュアスケート選手として活躍した荒川に個人指導を受けている少女の流線型のフォルムは、満たされている思春期の煌(きら)めきを存分に表現していた。

 

「肩の力抜いて、肘は上げたまんま、肩の力抜く。目、下げない、目、下げない。下、向かない」

 

的確な荒川の指導に、「はい」と素直に答え、リンクに戻る少女。

 

さくらは掴んだ左足を真上に伸ばし、I字スピンする。

 

【I字スピンとは、足を高く持ち上げて回転する姿勢のことで、アルファベットの「I」の字に見えることに由来】

 

瞬きせず、さくらに魅了されるタクヤ。

 

優雅なポーズを決めるさくら。

 

立ち尽くすタクヤ。

 

さくらが手を下ろし、荒川を探す。

 

その荒川は、さくらに見入っているタクヤを凝視している。

 

さくらは視線を落とし、背を向け、力なく滑っていく。

 

日が暮れて、荒川がリンクを見ると、フィギュアスケートの基本・「スパイラル」に挑戦し、転びながら「スパイラル」に何度も挑むタクヤを見て、笑みを零すのだ。

 

【スパイラルとは、片足を腰より高い位置にキープしながら滑ること】

 

荒川がタクヤにフィギュアスケート用の靴を与えたのは翌日だった。

 

「あげるんじゃないよ。貸すんだよ。その靴じゃ、いつまでたってもスピン(回転すること)はできないよ」

 

この喜びを伝えようとしても、「あ、あ、あ、あ…ありがとう」と吃音になり、荒川はリンクの外に消えてしまった。

 

【現在では、吃音は遺伝や脳の発達に大きく関係していることが分かっている。因みに、タクヤの父も吃音症であるが映像提示されている】

 

以降、荒川はタクヤにフィギュアスケートを教えるようになる。

 

まず、スケーティングの練習から始まり、スピンの練習に入っていく。

 

家では、裸で練習するタクヤ。

 

最後に回転の練習へと進む。

 

そして、3回転して着地を成功して、荒川と喜びを爆発させるのだ。

 

「できた!」と荒川。

「できたぁ!」とタクヤ。

 

「やったー!」ハイタッチする二人。

 

「すごいじゃん。できたじゃん」と大喜びの荒川。

 

この二人の様子を、ロッカールームからさくらが凝視し、去っていく。

 

タクヤは見る見るうちに上達する。

 

タクヤを指導する荒川はさくらを呼び、野球やアイスホッケーなど、スポーツが苦手なタクヤとでペアを組みアイスダンスに挑戦することを二人に提案した。

 

その計らいは、さくらにとっても有効になると考えたからだ。

 

アイスダンスの音楽を聞かせた後、説明する荒川。

 

「これが第1プレミナリーの課題『ダッチワルツ』ね。で、これをちゃんとできるようになって、バッジテストに受からないと大会も出れないから。OK?」

「はい」とタクヤ。

「次のバッジテストまで、あと1ヵ月ちょっと。それ逃すと、だいぶ先になるから、やれるとこまでやってみよう」

 

頷くさくら。

 

【プレリミナリーとは、主要な段階に入る前の準備のこと。またダッチワルツとは、ワルツの音楽に合わせてリンクを1周すること。更にバッジテストとは、国際スケート連盟が定めた等級であり、初級から1〜8級までの階級があり、数字が上がるにつれて難易度が上がっていく】

 

以降、3人はアイスダンスの練習に夢中になって取り組み、真剣な眼差しでホワイトボードを使って説明する荒川の話に耳を傾けるさくらとタクヤ。

 

ペアを組んでアイスダンスの楽しさを見つけていくのだ。

 

人生論的映画評論・続: ぼくのお日さま('24)   代替不可能な「自己効力感」を手に入れた少年の物語  奥山大史