遺書を残し、「前線」に出ていく若者たち ―― 未知のゾーンに入った「2019年香港民主化デモ」

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1  「常在戦場」で呼吸を繋ぐ若者たちの「現在性」


香港の若者たちは、一体、何のために闘ってきたのか。

逃亡犯条例改正案に反対するデモが始まってから、半年が過ぎようとしている。

身の安全を守るため、デモ参加者はマスクで顔を隠す。

事態の本質を理解できない一般大衆から「暴徒」と非難され、香港政府も「香港の治安を守る」ために、デモ参加者を「暴徒」と呼び、彼らの破壊的暴力を断じて許さないと息巻く。

香港政府を動かす中国共産党政権は、「徹底した弾圧も辞さない」として、武装警察ばかりか、人民解放軍出動(兵士は軍服で街に出ることは原則として禁止されている)のパフォーマンスをも見せている。

こんな愚かなパフォーマンスに拘泥する習近平は、つくづく頭が悪いと思わざるを得ない。

米国の上下両院で、「香港人権民主法」を成立させるに至った香港問題ばかりではない。

「反テロ法」を作って、ムスリム少数民族ウイグルを「絶望収容所」(裁判を経由することなく、「職業教育訓練センター」という名の強制収容所)に送り込み、人権弾圧を加速する。

ハイテク監視装置(AIによるサイバー空間監視)の徹底した民族包囲網を駆使する、中国政府によるウイグル弾圧の実態を記した内部文書が明らかになったことで、国連も動かざるを得なくなった。

チベットと同様に、文化破壊を平然と断行する「共産主義政権」とは、一体、何者なのか。

コミンテルンの指導下で、1921年7月に、陳独秀、李大釗、毛沢東らが各組織を結集して、結成した中国共産党は、「上海クーデター」(4・12クーデター)による党存亡の危機⇒第二次国共合作国共内戦中華人民共和国の建国⇒文化大革命⇒改革開放路線⇒天安門事件を経て、今、「マルクス・レーニン主義毛沢東思想、鄧小平理論、『三つの代表』の重要な思想および科学的発展観」(中国共産党規約 第18次全国代表大会における、第一章 党員第三条)を基礎にする党規約を作り、そこに、「習近平による新時代の中国の特色ある社会主義思想」(「習近平思想」)を盛り込んだ新たな党規約が、中国共産党第十九回全国代表大会(2017年10月)で確認された。

しかし現時点において、中国共産党の基本理念が、「共産主義の実現」を目標にしながらも、「共産主義を実現するための初級段階として(の)社会主義」を具現化するプロセスにあることを謳っている。

憲法に明記される「習近平思想」の骨子は、「経済強国」・「軍事強国」という、「強国・強軍体制」の確立・強化にあり、この始動が、既にウイグル問題のうちに露呈されている。

壮絶なウイグル弾圧に対し、「情け容赦は無用だ」と言い切った習近平を、日本政府は天皇陛下が最大級の応接をすることが求められる「国賓」として招待するのだ。

一貫して、ウイグル弾圧どころか、香港問題に何のコメントを発しない日本政府の、この腰砕けの姿勢に呆れて物も言えない。

周庭から批判されているように、我が国は、本気で人権を重視する国家なのか。

先の「香港人権民主法」に対し、習近平は、デモ隊を支援したとする複数のNGO(ヒューマン・ライツ・ウォッチフリーダム・ハウス)への制裁を含め、米軍の艦艇・航空機の香港での整備を認めない制裁措置を発表したが、米国との間で、理論上、未だに「相互確証破壊」が成立していないのだ。

大量の中国人を送り込んで「文化破壊」を強化するという、「強国・強軍体制」(DF-41=東風41ミサイル)に拘泥し続ける習近平の頭の悪さは、元スパイの告白による、他国の国益を蝕(むしば)む露骨なスパイ活動(オーストラリア政府は、高度な情報戦に特化した特別部隊を創設すると発表)や、亡命チベット人がいるネパールに5倍以上の経済援助を明示する、等々、「権力の使い方」の脆弱性に現れているので、今後、ダライ・ラマ14世(テンジン・ギャツォ)逝去後のチベットウイグル、そして、犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを認める「逃亡犯条例」の改正案に反対を機に惹起した、一連の香港問題(「2019雨傘運動」⇒「2019年香港民主化デモ」)にどのように反映されるか、大いに不安がある。

―― 「和理非」という3文字が、今、香港デモに参加する若者たちの間で使われている。

「平和的・理性的・非暴力的」ということだ。

「地下鉄や道路の正常な運行を妨害したり、“武器”を持って警察と衝突し、その過程で、あるいは結果的に香港市民と香港警察が“武力衝突”するような局面が繰り返されることは、香港市民が訴えてきた『五大訴求』を達成するのに不利に働くという『民意』を体現している」(ニューズウィーク日本版「香港情勢を現地報告、新スローガン「和理非」は打開の糸口となるか」)

要するに、国際金融センターとしての香港社会の地位を脅かすような行為は、大多数の香港市民を「敵」に回してしまうリスクを伴うから、それを防ぐために提示されたスローガンが「和理非」という3文字に凝縮されている。

因みに、「五大訴求」(「五大要求」)とは、(1)「逃亡犯条例」改正案撤回(2)警察の「暴力」を追及する独立調査委員会設置(3)暴動認定撤回(4)デモ参加者の法的責任免除(5)普通選挙導入。

この「五大訴求」の中で、「逃亡犯条例」改正案撤回には応じたが、キャリー・ラムは、これ以外は応じない態度を示していた。

香港デモの参加者が真っ先に拘泥するのは、「警察による暴行責任の追求」=警察の暴行をめぐる「独立調査委員会」の設立だったが、最近、「過激な抗議活動による社会不安の原因を探る」ために、識者らによる「独立検討委員会」を設立すると、キャリー・ラムは表明したものの、これには両者の思惑の埋めがたい乖離があり、依然、不透明な状態である。

―― 先の「和理非」というスローガンを掲げて、「2014雨傘運動」の抗議活動に参加した時は、まだ女子中学生だった。

その女子中学生を、「ニューズウィーク日本版」のように、「花ちゃん」と呼ぼう。

現在、「花ちゃん」が20歳になって、「2019年香港民主化デモ」に参加し、闘争の「前線」に立っている。

彼女は、「自分が次世代のために銃弾を受け止める」という覚悟を抱(いだ)き、責任を果たさねばならないと括ったのだ。

「花ちゃん」が、政府本部のバリケードの前にいたとき、年少の男子が1人で歩いてきた。

ニューズウィーク日本版」の記事によると、その男子は傘も持っていなかったので、「花ちゃん」は、自分の傍(そば)にいるようにと声を掛けた。

その瞬間だった。

バリケードの裏側にいた警察が、銃撃し始めたのだ。

香港警察の銃弾をまともに受けた少年が、顔を覆って痛いと叫んだ。

「本当に心が痛んだ」。

「花ちゃん」の述懐である。

この出来事に象徴されるように、今、多くの女性が前線に立っている。

デモ参加者の男女比率は、7対3か、6対4とも言われるが、女性が「前線」に立つのは危険なのだ。

警察による性暴力があるとの噂が広がっているからである。

そのため、デモ参加者の女性の多くは「前線」から身を引き、「消火隊」を引き受けている。

「前線」に立つ「花ちゃん」にとって、絶対、マスクは欠かせない。

香港民主運動に挺身(ていしん)する「花ちゃん」の相貌(そうぼう)から、マスクを外す時が来る日。

その時、香港の風景は、今まで誰も見たことがないランドスケープの情景を浮き立たせているだろう。

―― ここで、もう一人の女性の「仮面の告白」に目を転じてみる。

「北京の仕事を辞めて香港に戻り、『消火部隊』に入った」25歳の女性の告白である。

北京に行き、そこで就職した関係で、香港のニュースを正確に知ることは容易ではなかった。

そんな状況下で感じるのは、香港民主運動の打ち寄せる波浪の高まりだった。

異郷での独居生活に、居た堪(たま)れなくなった。

仕事を辞めて香港に戻ることを決意したのは、自然の理(ことわり)と言ってよかった。

香港に戻るや、どのように催涙弾を消すのか知りたかったので「消火隊」に入り、初めに使った消火ツールは、魚を蒸(む)す香港式のステンレス皿と水だけ。

消火器も持ってみたが、想像以上の重量感を感じ、手を引いた。

皿を催涙弾にかぶせ、それを足で踏んで、空気を遮断してから水をかける。

この「消火隊」の作業で、催涙ガスを食らったこともあった。

皮膚が痛み、帰宅後に体調を崩してしまった。

【痴漢撃退用の催涙ガススプレーが実用化されるほど、その即効性は有効な護身装備と言っていい。この催涙スプレーを顔面に噴射されると、皮膚や粘膜にヒリヒリとした痛みが走り、クシャミが止まらなくなると言われる。体験者の話によると、死ぬかと思うほど、立ち上がれないような苦痛を味わうと言う。顔中に針が突き刺さり、あまりの痛みに目が開かず、その激痛が数時間続き、言語を絶する耐え難さは、骨折のほうが遙かにマシであるとまで言うほどで、その威力はケタ外れと断言する。従って、香港デモの参加者にとって、マスクの着用は、単に「仮面」の役割(匿名性の確保)のみでなく、まさに、命を守る絶対的な防具なのである】

彼女は、ボランティアの救急隊員が目を撃たれたのと同じ日に、警察に囲まれ逮捕されそうになったと告白する。

走り続けて高速道路を越えたが、あと少しで逮捕されるところだった。

更に、彼女は言い切った。

真の普通選挙が実現できたら運動は終わると思うが、中国共産党がそう簡単に譲歩するわけがない。

その前にデモ隊200万人全員を監禁し、誰も立ち上がる勇気がなくなったら、運動は終わる。香港に希望を持っていないから、失望することもない。

離れることもできないから、立ち上がって「前線」に向かい、今できることをやるしかない。

―― 以上、壮絶な覚悟なしに、「前線」に立つことなど覚束(おぼつか)ないのだ。

多くのデモ参加者が、「絶望」という言葉を口々に発するが、このリアリズムこそ、まさに、「常時・最前線」=「常在戦場」で呼吸を繋ぐ若者たちの「現在性」そのものなのである。

「時代の風景:

時代の風景: 遺書を残し、「前線」に出ていく若者たち ―― 未知のゾーンに入った「2019年香港民主化デモ」より

湯を沸かすほどの熱い愛('16) 中野量太

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<「スーパーウーマン」の魔法にかかれば、すべてが変わる>


1  「極論の渦」となって、観る者に押し寄せてくる


登場人物のすべてが、相当程度の「訳ありの事情」を抱えていて、特化された彼らの「事情」が自己完結的に軟着させるエピソードを、「完成させた地図」を予約するかのように、読解容易なジグソーパズルに嵌め込んで、そこだけが特段に抜きん出た、「スーパーウーマンの死」=「最終到達点」という、「物語」の中枢に収斂させていく。

そのために多くの伏線を張り、その回収のトラップを駆使していく。

「驚かしの技巧」こそ、伏線回収のトラップの武器だった。

この姑息(こそく)な武器が、観る者が赤面するほどに、「不幸」の洪水の連鎖を惜しげもなく繰り出す、「基本・シリアスドラマ」の内実のリアリティの極端な欠如を希釈化する。

「スーパーウーマン」の魔法に仮託された、トリッキーな作り手のナルシズム全開の物語に、最後まで終わりが見えなかった。

殆ど全ての登場人物を、ヘビーなシチュエーションに押し込んで、「スーパーウーマン」の魔法の吸引力によって、次々に押し寄せていく「不幸」の洪水の連鎖を、カタストロフィーの水際(みずぎわ)で食い止めていくのだ。

かくて、彼らの「純化・再生」が約束されるのである。

本作を極端に要約すれば、私には、こんなアイロニカルな感懐しか持ち得なかった。

―― 私見を言えば、映画の質の生命線は「映像構築力」にあると考えている。

「主題提起力」・「構成力」・「映像表現力」などによって成る「映像構築力」は、それらの均衡ラインの微妙な攻防の中で、完成度の高い、良質な映画が生まれると考えているからである。

その意味で、最近、観た「幼子われらに生まれ」は、度肝を抜かれるほどに完成度の高い、良質な作品だった。

「幼子われらに生まれ」と比較することに、どれほどの意味があるか分らないが、両作品とも、「家族」をテーマにした映画なので敢えて書くが、その「映像構築力」において、あまりに落差が目立つのだ。

「スーパーウーマン」のみに支えられて、「主題提起力」を全面に押し出した本作の、その「構成力」・「映像表現力」の信じ難いほどの暴走ぶりに、殆どお手上げだった。

「血縁家族&血縁を超える家族愛」という基本理念をコアに、「地続きなる生と死」という死生観を絡ませて構成されたと思われる「物語」は、観る者の感動を存分に意識させた、エピソード繋ぎの「横滑り」の情態の組成に終始してしまって、全く「深堀り」されていないから、深度を増すことがない。

―― その典型例を、物語の流れに沿って書いていく。

「不幸」という記号の、その不文律の初発点。

それは、言うまでもなく、ヒロイン双葉が決定的に被弾した末期癌の告知である。

この設定それ自身に、記号化された「不幸」の外延(がいえん)が凝縮されている。

物語は、ヒロイン双葉の内面に潜り込み、そこに仮託された作り手の理念系が炸裂する。

因みに、「癌の王様」と呼ばれる膵癌(すいがん)のように進行が早く、予後不良な癌に罹患したクランケにとっては、苦痛を和らげるための「緩和ケア」は非常に重要な役割を持つ。

ところが、双葉にとって、「遂行すべき残された仕事」の履行こそが、「緩和ケア」そのものだった。

「少しの延命のために、自分の生きる意味を見失うのは、絶対に嫌だ」

負の記号を最も詰め込んだ夫の一浩に、毅然(きぜん)と言い放った双葉の意思表示である。

驚くような「説明台詞」に引いてしまうが、この作り手には、「映画作家」という自負がないのだろう。

斯(か)くして、「地続きなる生と死」を体現するレッドラインの際(きわ)で、「遂行すべき残された仕事」に挺身(ていしん)していく。

私立探偵に依頼し、1年前に失踪した夫の一浩を連れ戻し、レトロな雰囲気を有する薪焚き銭湯を再開すること。

これは簡単に成就する。

それにしても、オダギリジョー演じる、心理描写を捨てた、一浩という非主体的な男。

失踪し、失踪され、2人の子供だけ(安澄と鮎子)が残されたという、「訳ありの事情」のキングとも言っていい。

次に、本気で取り組んだのは、苛めで不登校寸前に陥っている安澄(あずみ)を精神的に自立させること。

これは、困難を極めた。

苛めグループに制服が盗まれて、学校に行き渋る安澄の布団を引き剥(は)がした双葉は、叱りつけるのだ。

「起きなさい、安澄。学校に行くの!」
「やだ、絶対やだ!」
「今日、諦めたら二度と行けなくなる!」
「じゃ、行かない!二度と行かない!」

この当然過ぎる反応に、体を張って学校に行かせようとする双葉。

「逃げちゃダメ!立ち向かわないと!今、自分の力で何とかしないと、この先!」
「何にも分ってない!」
「分ってる!」
「分ってないよ、お母ちゃん!」

沈黙のあと、安澄は嗚咽の中から、言葉を吐き出していく。

「私には、立ち向かう勇気なんてないの。私は最下層の人間だから…お母ちゃんとは全然違うから」

ここまで言われて、言葉を失う双葉が、沈黙の後、静かに語り出す。

「何にも変わらないよ。お母ちゃんと安澄は…」

これ以上、言葉が出てこなかった。

納得し得る絵柄として提示された、双葉の沈黙の重みの構図。

「地続きなる生と死」という死生観を抱懐(ほうかい)する双葉にとって、「遂行すべき残された仕事」の履行なしに、昇天の向こうにある「絶対観念」(〈死〉は絶対的に観念である)のゾーンで安堵できないということなのか。

然るに、母娘の激しいバトルの後に開いたシーンには、驚きを禁じ得なかった。

体育着で学校に現れ、苛めグループの嘲笑を受けたあと、体育着を盗まれた一件を生徒たちの前で問う担任の教諭の前で、体育着をすべて脱ぎ、下着姿になった安澄が、苛めグループを告発する描写である。

特化したスポットと化した教室を占有する、このシーンを見せられて、思わず絶句する。

「制服、返してください」

体育着を着ることを促す担任の言葉に、嗚咽含みで強く反発する安澄。

「嫌です。…今は、体育の授業じゃないから」

この抵抗の結果、安澄が休む保健室の入り口に、制服が放り投げられていた。

明らかに、女子苛めグループの行動である。

このシーンは、完全にアウト。

双葉の人格の内面に潜入して、物語を繋いでいく作り手は、16歳の「思春期中期」(高2)の女子の心理と、苛めの問題の深刻さが分っていないのではないか。

苛めの問題の難易度の高さを客観的に理解できないのか、正直、苛めのシークエンスの描写に頗(すこぶ)る、違和感を抱いてしまった。

「苛められたら、やり返せ」と言う大人が、今でも我が国に多く散見されるが、誰も助けてくれる級友がいないクラスで、やり返すことは殆ど困難である。

―― 以下、「いじめ防止対策推進法」(2013年6月28日公布)より。

「いじめとは、子どもが、ある子どもを心理的、物理的に攻撃することで、いじめられている子の心や体が傷ついたり、被害を受けて苦しんだりすることです」(第2条)

「学校と先生方教職員は、関係者と協力しながら、いじめの防止と早期発見に取り組んで、そしていじめが起きていることがわかったら、すぐに動く責任があります」(第8条)

「自分の子どもがいじめられたときには、親は子どもを保護します」(第9条)

論なく、重要な条文である。

私の定義によると、苛めとは、身体暴力という表現様態を一つの可能性として含んだ、意志的・継続的な「対自我暴力」のこと。

最悪の苛めは、相手の自我の「否定的自己像」に襲いかかり、「物語」の修復の条件を砕いてしまうことにある。

その心理的な甚振(いたぶ)りは、対象自我の時間の殺害をもって止(とど)めとする。

時間の殺害の中に苛めの犯罪性があると、私は考えている。

まさに、安澄への苛めは、「自分は苛められる弱い人間」という、彼女の「否定的自己像」に襲いかかり、その繊細な自我への継続的暴力性によって、「再生的立ち上げ」の時間を破壊し、「物語」の修復の条件を砕いてしまう風景を曝していた。

問題解決能力の欠片(かけら)を持ち得ない安澄に可能だったのは、「親は子どもを保護」(第9条)するという条文のように、一時(いっとき)、「乳母日傘」(おんばひがさ)に入り込んで、「対自我暴力」から身を守り、親を経由して、「すぐに動く責任」(第8条)を持つ学校関係者に救済を求める以外にない。

それもまた勇気のいる行動だが、敢えて社会問題化しない限り、苛めの被害者の自我を壊すことのない手立てを確保することは難しいだろう。

このような勇気のいる行動への振れ具合が、「自分は苛められる弱い人間」という「否定的自己像」を希釈化し、青年期の最も重要な発達課題としての、自我の確立運動に架橋していくことが可能になると、私は考える。

私たちは、「苛めの犯罪性」を認知すべきである。

このように考えれば、苛めの問題に対応する「スクールソーシャルワーカー」の増員が切実な状況下にあって、双葉の言葉を思い起こしながら、下着姿になる安澄の行為は、作り手の理念系の暴走であると言う外にない。

その後、「安澄の下着姿のレジスタンス」が学校中に噂が広まり、「変人」とラベリングされ、忌み嫌われ、「苛められて当然」という暗黙の了解が生じる危険性すらある。

大体、親の叱咤によって、自らの壁を破り、こうした大胆な行動に振れるくらいなら、安澄が恒常的な苛めを被弾する事態にはならなかったであろう。

但し、人間の奇怪な行動の多くがゼロであると言い切れないように、安澄の行動もまた、「殆ど困難」だが、ゼロではない。

そこに極論が生まれる。

これが、人間社会の現実である。

だから、この映画は「極論の渦」となる。

「極論の渦」となって、観る者に押し寄せてくるから厄介だった。

ともあれ、この一件で提示された伏線は、物語展開の中で全く回収されることがなかった。

既に、「制服、返してください」という雄々しき啖呵(たんか)それ自身が、安澄が負う「不幸」という記号の自己完結点だったという訳である。

本篇は、登場人物が抱える記号化された「不幸」が、「スーパーウーマン」の魔法によって、すべてフィードバックされ、その「スーパーウーマン」の懐(ふところ)に収斂されていく。

「スーパーウーマン」の昇天が自給した「湯を沸かすほどの熱い愛」によって、それぞれの〈生〉のスポットの生命の滾(たぎ)りの中で「純化・再生」していくのだ。

【後述するが、安澄が負った「不幸」という記号の重大な伏線は、物語の後半に回収されることになる】

 以下、人生論的映画評論・続「 湯を沸かすほどの熱い愛」('16)より

「隣人が殺人者に変わる」 ―― ルワンダで起こったこと

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1  「男女平等」の社会を具現した「アフリカのシンガポール


女性が政界に進出し、障害者への配慮も広がり、弱者に優しい社会になった。

とりわけ、議員の一定数を女性に割り当てる「クオータ制」の導入によって、議席の3割以上を女性とする制度を定めた結果、2019年9月の時点で、女性の国会議員比率が61%になり、女性の国会議員比率が世界で最も高い国となった。

まさしく、「男女平等」の社会を具現したのだ。

多くの人がスマホを持ち歩き、美しい指先でスマホを操作する。

タクシーに乗ると、運転手から携帯番号を求められ、走行距離や料金のレシートはスマホに届く。
女性たちは着飾り、とても華やかである。

大学・大学院を出たキャリアウーマンも健在で、経営者として成功している女性も少なくない。

このような改革を実践したのは、反体制派への弾圧を行う独裁的指導力によって、2000年に大統領に就任したポール・カガメ。

現職である。

本稿のタイトルで判然とするように、「男女平等」の社会を具現したというこの国の名は、カガメ大統領の長期政権の中で改革が進むルワンダ

―― 以上が、未だに「大虐殺」のイメージが強いルワンダの「今」の、社会的風景の一端である。

「確かに、都市部と農村部とでは格差があります。教育を受けた人、受けなかった人の間にも格差があります。でも、田舎に行けば男性も女性も等しく貧困だし、首都キガリでは男性も女性も働いている。そういう意味で、確かにルワンダジェンダーギャップのない国ではあるのです」

些(いささ)か皮肉含みで語るのは、ルワンダ在住のキャリアウーマン。

「男女平等」の社会を具現した「アフリカのシンガポール」。

「改革」のキャッチコピーとしては面映(おもは)ゆいかも知れないが、その方向性・指針として評価すれば、「改革」の内実は、「アフリカの奇跡」と紹介したWikipediaでも確認できる。

思うに、憲法改正によって2034年まで大統領職に在職可能な、ツチ系のポール・カガメ大統領の大胆な改革の中で重要なのは、出身部族を示す身分証明書の廃止である。

なぜなら、これによって、アフリカ中央部のブルンジルワンダに居住し、ルワンダ語を使用する3つの部族、即ち、「フツ」・「ツチ」・「トゥワ」(狩猟採集民)ではなく「ルワンダ人」としてのアイデンティティを掲げ、国民の融和を目指し、実践したこと。

独裁的政治手法だが、国内の年齢・性別・宗教・民族の多様性を掲げ、アフリカ初の選挙によって選出された女性大統領、ジョンソン・サーリーフによる民族融和政策と同様に、この政策の具現化は大きかった。

かくてカガメ大統領は、国民の信頼は厚く、2017年の選挙では98.8%の得票率で勝利している。

―― 以上は、「Yahoo!ニュース特集」に掲載された、「ルワンダ『女性活躍』の複雑な実情――“虐殺”から25年、様変わりした国の現実」(執筆者・ニシブマリエ)というタイトルの記事の要旨を、自らの見解を含めてまとめたもの。

これがルワンダの実情だが、しかし、私たちが知っている「ルワンダ大殺戮の悲劇」というイメージとの乖離を痛感させられ、言葉を失うほどである。

 時代の風景: 「隣人が殺人者に変わる」 ―― ルワンダで起こったこと より

覚悟の一撃 2 ―― 人生論・状況論

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価値は表層にあり ―― 表層を嗅ぎ分けるアンテナだけが益々シャープになって、ステージに溢れた熱気が、文明の不滅なる神話にほんの束の間、遊ばれている。表層に滲み出てくることなく、滲み出させる能力の欠けたるものは、そこにどれほどのスキルの結晶がみられても、今、それは何ものにもなり得ない。奥深く沈潜し、価値が価値であるところの深みを彷徨する時間を愉しむには、私たちは多忙過ぎる。動き過ぎる。移ろい過ぎる。ガードが弱過ぎる。沈黙の価値を知らな過ぎるのだ。

沈黙を失い、省察を失い、恥じらい含みの偽善を失い、内側を固めていくような継続的な感情も見えにくくなってきた。多くのものが白日の下に晒されるから、取るに足らない引き込み線までもが値踏みされ、僅かに放たれた差異に面白いように反応してしまう。終わりが見えない泡立ちの中では、その僅かな差異が、何かいつも決定的な落差を示しているようにみえる。陰翳の喪失と、微小な差異への拘り ―― この二つは無縁ではない。陰翳の喪失による、フラットでストレートな時代の造形が、薄明で出し入れしていた情念の多くを突き崩し、深々と解毒処理を施して、そこに誰の眼にも見えやすい読解ラインを無秩序に広げていくことで、安易な流れが形成されていく。そこに集合する感情には、個としての時間を開いていくことの辛さが含まれている分だけ差異に敏感になっていて、放たれた差異を埋めようとする意志が、ラインに乗って踠くようにして流れを捕捉しにかかる。流れの中の差異が取るに足らないものでも、拘泥の強さが、そこで「差異感性」をいつまでも安堵させないのである。

人々を、視覚の氾濫が囲繞する。シャワーのようなその情報の洪水に、無秩序で繋がりをもてないサウンドが雪崩れ込んできて、空気をいつも飽きさせなくしている。異種の空気で生命を繋ぐには立ち上げ切れないし、馴染んだ空気のその無秩序な変容に自我を流して、時代が運んでくれる向うに移ろっていくだけだ。一切を照らし出す時代の灯火の安寧に馴れ過ぎて、闇を壊したそのパワーの際限のなさに、人々は無自覚になり過ぎているのかも知れない。視覚の氾濫に終わりが見えないのだ。薄明を梳かして闇を剥いでいく時代の推進力は、いよいよ圧倒的である。

照らして、晒して、拡げて、転がして、塞いで、削ろうとする。その照り返しの継続的な強さが、却って闇を待望させずにはおかないだろう。都市の其処彼処で闇がゲリラ的に蝟集し、時代に削られた脆弱な自我が突進力だけを身にまとって、空気を裂き、陽光に散る。陽光が強いから翳そうとし、裂け目を開いて窪地を作り、そこに潜ろうとする。陽光の下では、益々、熱射が放たれて、宴が続き、眼光だけが駆け抜ける。そこでは、刺激的なる一撃は、次の一撃までの繋ぎの役割しか持たず、この連鎖の速度が少しずつ増強されて、視覚の氾濫は微妙な差異の彩りの氾濫ともなって、いつまでも終わりの見えないゲームを捨てられないようである。動くことを止められないからだ。

捨てられず、後退できず、終えられないゲームに突き動かされて、落ち着きのない人々は愉楽を上手に消費できず、愉楽の隙間から別のアイテムに誘われて、過剰なショッピングを重ねていく。今、自分が手にしているもの以上の価値ある何かが、どこかにある。それを手に入れなければ済まない生理が、そこにある。バスを降ろされたくない不安の澱みが、単にそれを埋めるためだけの補填に走るのだ。

快楽は常に、より高いレベルの快楽によって相対化されるから、どうしても、このゲームはエンドレスになり、欲望のチェーン化は自我を却ってストレスフルにしてしまう。未踏の、豊饒な満足感に充ちた快楽との出会いは、それを知らなかったら、それなりに相対的安定の秩序を保持したであろう日常性に、不必要な裂け目を作るばかりか、それがまるで、魅力の乏しいフラットな時間に過ぎないことを、わざわざ自我に認知させ、自らの手で日常性を食い千切っていく秩序破壊の律動は、しばしば激甚であり、革命的ですらあるだろう。

幸福を手に入れるにも覚悟がいる。幸福が壊れたとき、幸福の大きさが不幸の大きさを決める。不幸の大きさに耐え難かったら、勢いにまかせて幸福のサイズを徒に広げないことだ。自我が処理し得る幸福のサイズというものがある。同時に、不幸のサイズというものもある。等身大の幸福を、継続的に確保できる者が最も強い。不幸の突発的なヒットによって崩されかかった物語の修復が、最も速やかに推移する確率が高いからである。どうしても壊されたくない幸福に拘泥する者は、その幸福に絡みつくリスクを、確実に処理し得るサイズの幸福をこそ選ぶはずだからである。幸福の選択に博打はいらないのだ。

過剰に演技する者がナルシズムを手放さないでいられる為には、更に過剰な演技を強迫する以外にない。演技する程に過剰なナルシズムだけが罰を受ける。自らを強迫して止まないナルシストは、常に起爆管を抱えた特攻戦士のようである。実際の敵は洋上になく、沸々と泡立って鎮まることがない内側にこそ潜んでいる。病者と天使を同時に装うナルシズムの異様な尖りは、声高なる進軍の果てに、死体を累々と積み上げていく。英雄への免疫が顕著に低下した時代の中でこそ、異様な尖りが月光に輝いてしまうのだ。ちまちまと、殆ど目立つことのないナルシズムだけが圧倒的に健全なのである。他人にからかわれて、忽ちの内に忘れられてしまうようなナルシズムの滋養をこそ大切にしたい。

人は皆、愛し合わなければならないという説教ほど胡散臭く、虫酸が走るものもない。現実にはありえないことだからだ。現実にありえないことを理念化してしまうから、そこに無理が生じる。無理な理想を追求するのは自由だが、それを倫理や宗教のフィールドで、いかにも起こり得る現象のような空気を過剰に作ってしまうと、しばしば、現実が理念に引き摺られて、そこに極端な物語が胚胎することがあるから厄介なのだ。「愛の不毛の現代状況」とか、「都市の砂漠」とか、「暗黒の近代」、「社会の荒廃と、その閉塞状況」等々という、一点拡大の不確かな時代像によって、平気で十字軍に与することができてしまう短絡性こそ、多くの「愛の戦士」の喰えない厚顔さである。

人が憎しみ合うことが、なぜ悪いのか。単に同盟を結ばないことによって貫徹し得る憎悪こそ、人間の高度な知恵の結晶ではないか。「憎いけど殴らない」という学習もまた、そんなスキルの一つである。「憎悪の美学」の立ち上げもまた、充分に可能なのだ。

比べることは、比べられることである。比べられることによって、人は目的的に動き、より高いレベルを目指していく。これらは人の生活領域のいずれかで、大なり小なり見られるものである。比べ、比べられることなくして、人の進化は具現しなかった。共同体という心地よい観念は、比べ、比べられという観念が相対的に停滞していた時代の産物である。皆が均しく貧しかった人類史の心地よい閉塞が破られたとき、自分だけが幸福になるチャンスを与えられた者たちの大きなうねりが、後に続く者への強力なモチーフにリレーされ、産業社会の爆発的な創造を現出した。誰が悪いのでもない。眼の前に手に入りそうな快楽が近接してきたとき、人はもう動かずにはいられなくなる。昨日までの快楽と比べ、隣の者の快楽と比べ、先行者との快楽と比べ、人は近代の輝きの中で、じっとしていられなくなった。比べられるものの質量が大きくなればなる程、人はへとへとになっていく。それでも止められないのだ。戻れないのだ。恐らく、それが人間だからである。その行き着く果てに何が待っているか、「インパクト・バイアス」の感情予測に攪乱されることなく、しばしば、人は不必要なまでに甘めの予測を立てるが、決して真剣には考えない。それもまた人間だからだ。

「察知されないエゴイズム」 ―― これがあるために、一生、食いっぱぐれないかも知れない。人に上手に取り入る能力が、モラルを傷つけない詐欺師を演じ切れてしまうからだ。
「察知されない鈍感さ」 ―― これがあるために、不適切な仕草で最後まで走り抜けてしまうのかも知れない。そこに関わる自尊心も、過剰に保証されてしまうからだ。
「晒された、寡黙なる陰鬱さ」 ―― これがあるために、当人の周囲には不必要な保護の空洞が作られてしまうのかも知れない。自らの内側を、ゆっくりと、深々と掘り下げていく営為が価値である時代が崩れて久しいからだ。

初めからそれがなく、今もなく、未来もそれがないと予想されるなら、人は各々の小宇宙で等身大の幸福を享受するだろう。初めにそれがなかったのに、今はそれがあり、未来もあり続けるなら、人はやがて、それなしではいられなくなるだろう。初めからそれがあり、今も未来もそれが当然あり続けるなら、人はそれとの共存を疑うことをしないだろう。二十世紀の後半、先進国と言われる国々が到達したこの人類史の革命を、人々は未だ学習し切っていない。「初めからそれがあった者たち」と、「人生の途中からそれがあった者たち」との価値観の落差の大きさを、経験的に確かめることはとても難しいのだ。

作り出され、動き、取りにかかる。取ったら、それを食べ尽くし、捨てていく。捨てていく頃には、作り出されるものが生まれていて、また動いた後、それを取りにかかる。作り出されるものは「欲望」で、動かすものが「身体」、若しくは「知的営為」で、取りにかかるものを「生活」と呼ぶ。食べるという消費を経て、最後には廃棄が待っているのだ。私たちが所属する社会では、これらが螺旋的に循環するから、その基本的な流れは、肥大化することによってしか正常な枠組みを決して作れない。この枠組みの中枢に私たちの普通の意識が息づいていて、ここからのドロップアウトは社会それ自身からの脱落になる。そのとき、その意識は、循環型の自給経済に向かわない限り、枠組みからの様々な排除を覚悟する他にはない。労働に向かう身体は枠組みを守る意識に引っ張られて、そこに社会的関係が構築され、各々に上手に繋がっていく。「欲望の資本主義」という王道の底知れぬ求心力は、人類史上の到達が示した最も具体的な表現様態であった。

私たちは、何もしないことが、とてつもなく不利益になると実感させるような社会を、とうとう開いてしまった。想像したことが達成されないと我慢し難いと実感させるような時代を、とうとう開いてしまった。私たちの近代の性急な速度に、誰も首輪を架けられないでいる。

自分が何者でもないことに耐え難い時代の幕が、とうに開いてしまっている。自分以外の何者でもないことを引き受けることと、自分以上の何者かであることを幻想することの間に、埋めようがないほどの深い溝が広がってしまっていて、人はもう、何者でもなさすぎる自分を蹴飛ばし続けるしか空気を食べられなくなってしまったか。それでも、空気を食べて生きていくには、日々に自分を喰い繋いでいくしかないのだろうか。自分は何者でもないが、何者でもない自分についての意識の主体ではある。この主体が今、ここに在り、それ以外にはありえない秩序に向かって常に動いている。この快感を、なお手放さない人だけが小天地を実感し、ゲームを愉しめる。

最も倫理的な釈迦ですら、妻子を捨てたし、「アヒンサー」を貫いたガンジーですら、不良少年を殴ったし、清貧に生きた良寛ですら、村人の援助なしには生きられなかった。博愛主義のシュバイツアーは黒人差別の言辞を遺し、強靭な信仰に生きたイエスですら、「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と叫んで、殉教への迷いを訴えた。かくも、倫理的な生き方を貫徹した「偉人」ですら、倫理的に生きることの難しさを示している。然るに、この不徹底さこそ、人間の救いである。敵を灰にするまで解体する人間の徹底した合理主義は、それを隠蔽し切れぬ脆さの前で朽ち果てた。脆さの自覚の中でこそ、信念や信仰が立ち寄るのだ。脆さの自覚が、束の間の輝きを放つのである。

一体、この国に強固なモラルで生きた時代があったか。規範の厳しさの多くは垂直下降の産物以外ではなかったし、私権の氾濫が現出するまでは、「世間」という名の「視線の心理学」が空気を決めていた。今はマスメディアがモラルや意見をリードし、衰弱化しつつある「世間」という空気を補強するのだ。共同体の解体が気配りのイデオロギーを崩してしまえば、あとはもう、何でもありの文化アナキズムが、当然の如く生まれるだろう。確信的に共同体を壊してきた私たちの中に、未だ覚悟の足りないヒューマニストもどきが、数多、呼吸を繋いでいる。

ルールの設定は、敗者を救うためにあると同時に、勝者をも救うのだ。戦いの場でのテン・カウントは勝敗の決着をつけると共に、スポーツの夜明けを告げる鐘でもあった。これは、プロ野球経営評論家・坂井保之の名言である。死体と出会うまで闘いつづける愚を回避できたことが、どれだけ多くの勝者を救ってきたことか。スポーツの誕生は、光の近代を娯楽の中で検証して見せたともいえる。それにも拘らず、遺伝子治療によって筋肉を増強するという、近年の「遺伝子ドーピング」の問題に象徴されるように、未知の領域が次々に開かれていく現代科学の状況に対して、何とか追いつき、並走するだけのスポーツルールの、この寒々しさ。ルールに関わるあらゆる営為に対応するに相応しい、新たなルールを設けていくことが、結局、自らを救済することになる真理を学習し切るのに、私たちはもう少し無残な血を流さねばならないよのか。加えて、「ヘイゼルの悲劇」の例を出すまでもなく、スポーツを観る側にも最低限のルールの確立が切に求められる常識が、なお未形成なのだ。私たちが、人間学的に存在し得ない「最高のルール」なるものと出会うまで、数多の最低のルールを通過する辛さから、とうてい解放されない現実が、そこにある。

選択肢が多い社会。それが自由社会の強みである。同時に弱みでもある。情報の過剰な氾濫を防ぎ切れないからだ。当然、その中には、不快な情報をも不必要なまでに含まれている。移動も多いから出会いも多い。不快な出会いの機会も増していくだろう。家族共同体の温もりの中で安定していた自己像が、流動激しい社会の中で大きく揺れ動く。評価も定まらず、リアリズムの洗礼を受けて、一気に不快情報が自我にプールされるのだ。自由と豊かさの代償は、ミスマッチな不快情報との遭遇機会の増大化であると言っていい。だからこそ、情報処理の合理的なスキルが求められるのだ。不快情報を上手に中和する自我の処理能力レベルこそが、人々の幸福の質を決めるのである。近代を快走する決め手は、「不快の中和化」の高度な技巧の達成にある。

 

心の風景「心の風景: 覚悟の一撃 2 ―― 人生論・状況論」より

山河ノスタルジア('15)   ジャ・ジャンクー

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<どうしても、そこだけは変わらない、「私の時間」が累加した「情感濃度」を、観る者に深く鏤刻する>

1  「幼馴染」を失い、痛惜の念に震えていた


1999年、中華圏で最も重要な祝祭日で、旧暦の旧正月に行われる中国春節

雲崗石窟」(うんこうせっくつ)で有名な山西省(大同市)に位置する汾陽(フェンヤン)の街。

色彩豊かで、煌(きら)びやかなスポットで踊る、若者たちの青春が弾(はじ)けていた。

小学校教師のタオは、そんなお祭りムードの時間に溶け込み、二人の幼馴染(おさななじみ)と団欒(だんらん)していた。

炭鉱労働者リャンズーと、実業家ジンシェンである。

「俺には怖いものがない」

ジンシェンの自信過剰の言葉は、タオにのみ放たれる。

そのタオに、真っ赤な新車を見せびらかせ、「香港に行きたい」というリャンズーに対し、「俺はアメリカに連れて行く」と豪語した。

春節の花火が天に向かって打ち上がっていく風景の中、新車を走らせて、3人のドライブが時を駆けていく。

自ら慣れない運転をして、燥(はしゃ)ぐタオだが、この関係の居心地の悪さだけが、観る者に印象づけられる。

三角関係の居心地の悪さに、ジンシェンは、もう、耐えられなかった。

実業家という「ステータス」を全面に押し出し、リャンズーに冷たく言い放つジンシェン。

「俺はタオが好きだ。諦めてくれ。もう、俺たちの友情は終わった。俺の炭鉱から出ていけ」
「心配するな。お前に頼るなら、死んだ方がマシだ」

誇りを傷つけられ、そう言い切って、炭鉱を去るリャンズー。

そのリャンズーは、今、電気店を営む実家にタオが立ち寄って、寛(くつろ)いでいた。

傲慢なジンシェンが感情を害し、怒りを噴き上げたのは、あってはならない、この風景を見せつけられたからである。

リャンズーにも、タオへの想いが諦念(ていねん)できない。

既に、ジンシェンとの結婚を決めていたタオに、リャンズーが問う。

「心を決めたのか」とリャンズー。
「私たちは友だちよ。分って」とタオ。

自らの感情を抑制できずに、嫌味を放つジンシェンを殴ってしまうリャンズー。

ジンシェンに対する積もる怒りが、憤怒として噴き上がってしまったのだ。

窮屈(きゅうくつ)な三角関係に縛られ、心労が絶えないタオには、将来性のないリャンズーとの結婚は考えられなかった。

深く傷ついたリャンズーは、そのまま街を去っていく。

あろうことか、タオは自分の結婚式に招待するために、そのリャンズーを訪ねていくのだ。

どこまでも、タオにとって、リャンズーは「幼馴染」であって、配偶者となり得る対象人格ではなかった。

それでも、リャンズーの想いを理解できているが故に、タオは懊悩(おうのう)を深めてしまうのである。

リャンズーに結婚の招待状を渡すという行為の目的は、無論、リャンズーを苦しめることではない。

自分を諦めて欲しいというメッセージでもない。

ただ、夫になるジンシェンを殴って、街を去ったリャンズーとの関係をフリーズさせたくなかったのだ。

結婚に至らなくとも、「友情」を壊したくない。

その思いが、タオを動かした。

要するに、タオは子供だったのである。

だから、この一件で、リャンズーは自宅の鍵を捨てて、完全にタオと決別する。

タオの表情に、一人の大切な「幼馴染」を失ったという悲しみの涙が滲(にじ)んでいた。

痛惜(つうせき)の念に震えているのだ。

まもなく、ジンシェンと結ばれたタオに子供が生まれた。

名前はチャン・ダオラー。

「米ドル」に因んで、名付けた赤子の名である。

「パパが米ドルを稼いでやるぞ」

相も変らぬジンシェンの「Go West」の野心が、画面一杯に踊っていた。

 

 以下、人生論的映画評論・続「 山河ノスタルジア('15)   ジャ・ジャンクー」より

幼子われらに生まれ('17)   三島有紀子

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<一切を吹っ切った男が、「血縁」という「絶対基準」の境域破壊を具現化する>


1  、「ステップファミリー」の難しさを描く物語が開かれる


完璧な映画の、完璧な主題提起力・構成力・構築力。

近年、私が観た邦画の中で、ベスト1の映画。

交叉することがない、思春期の初発点にいる2人の少女が抱える、艱難(かんなん)なテーマに関わるプロットのリアリティがダイレクトに伝わってきて、強烈に胸に響き、嗚咽を抑えられなかった。

それにしても、演技を超えた表現力を発露した浅野忠信の凄み。

圧倒された。

比肩すべき何者もいない、正真正銘の映画俳優である。

―― 以下、物語のアウトライン。

「沙織。沙織に妹か弟かできたら、どうする?」
「ないって、お母さん、子供あたし一人で充分って、いつも言ってるし」
「もしもだよ。もしもお父さんとお母さんが、もう一人欲しいって言い出したら…」
「お母さん、40だよ」
「まだ産めるよ。産めって言ったら反対する?」
「反対なんかしないよ。いいんじゃない」
「でもだよ、お母さんには、その…沙織も赤ちゃんも自分の子供だけど、お父さんからすれば、何ていうか、その、沙織がさ、あの…」
「私が、余りになっちゃうんだ…」
「そうかも知れないよ」
「でも、お父さんは私を余りなんかに絶対しない!」

遊園地の観覧車の中での父と娘との深刻な会話から、「ステップファミリー」(子連れ再婚家族)の難しさを描く物語が開かれる。

父の名は、田中信(まこと・以下、信)。

大手企業に勤めるサラリーマンである。

小学6年生の沙織(さおり)は、今、父の前妻・友佳と共に暮らしていた。

だから、父と子は、このような形でしか会えないのだ。

ここで、父が言う「もう一人」とは、再婚した奈苗(ななえ)との間に産まれる子供を意味するが、沙織は、「妹か弟」が40歳になる友佳との間の子供であり、その子を大事にすると考えていたので、「余り」という言葉に結ばれたのである。

一方、奈苗には、前夫・沢田との間に儲けた二人の娘、12歳の薫、幼稚園児の恵理子がいる。
義父の信を実父であると信じ、疑いを持つことなく懐(なつ)いている恵理子と異なり、児童期後期で、思春期の初発点にいる長女・薫は、実母と継父(母の夫で血の繋がりのない父=義父)との間に産まれる新生児に対し、「妹か弟」という観念を持ち得ず、露骨に反発し、実母と義父の両親に対し、反抗的な態度に振れるばかりだった。

信との子を産むと決めている奈苗と、その新生児の誕生に複雑な思いを捨てられない信。

信にとって、冒頭の会話の相手である、沙織との定期的面会に快く思っていない奈苗への配慮もあり、3か月毎の面会後の帰宅の際には、必ずケーキを買っていく。

それが、「情緒の共同体」としての「家族」に対する信の、精一杯の愛情の、それ以外にない物理的変換の行為だった。

しかし、悪循環が止まらない。

「家族第一」の生活を送ってきたことで、かつては「出世候補」の筆頭でありながら、会社との付き合いを断り続けてきた係長の信が、新木場への「片道切符」の出向を迫られることになる。

その仕事とは、倉庫のピッキング(検品、仕分け、梱包)という単純な仕事。

馴れない仕事で、ピッキングの成績も上がらなかった。

そんな憂(う)さを、「一人カラオケ」で発散する信。

「この先どうなるか分らないよ。それでも(子供が)欲しい?」
「欲しい、あなたの子供」

楽天的な妻と、工場出向での苦労を語る信との、夜の夫婦の会話だった。

言ってみれば、信の出向は、我が国に根強い一種の「パタハラ」(パタニティ・ハラスメント=男性の育児参加への企業サイドからのペナルティ)と言えるかも知れない。

―― 以上が、7人(注)の主要登場人物によって成る梗概(こうがい)だが、ここから、批評含みで言及していく。

(注)以下、Wikipediaより。
田中信:浅野忠信
田中奈苗:田中麗奈
田中薫(奈苗の連れ子):南沙良
沙織(信と友佳の実娘):鎌田らい樹
田中恵理子(奈苗の連れ子):新井美羽
沢田(奈苗の元夫、薫・恵理子の実父):宮藤官九郎
友佳(信の元妻、沙織の実母):寺島しのぶ
他に、末期癌患者の教授・江崎(友佳の再婚相手)

人生論的映画評論・続「

人生論的映画評論・続: 幼子われらに生まれ('17)   三島有紀子」('17)より 

スリー・ビルボード('17)   マーティン・マクドナー

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<「グリーフワーク」という「全身・心の仕事」を軟着させていく>

1  攻撃的言辞を止められない女と、破壊的暴力に振れる男 ―― 〈状況〉が人間を動かし、支配する


ミズーリ州エビング。架空の田舎町である。

7カ月前に、10代の少女がレイプ後に、焼殺されるという凄惨な事件が発生した。

その名はアンジェラ・ヘイズ。

そのアンジェラの母・ミルドレッドが、広告代理店の経営者・レッドに依頼する。

「なぜ?ウィロビー署長」・「犯人逮捕はまだ?」・「レイプされて死亡」

人通りの少ない道路沿いの、3枚の巨大な看板広告に、これらの文言のみが大きく掲示されていた。

そこは、アンジェラが殺された道路だった。

この看板を見て、いきり立ったのはディクソン巡査。

レッドの店にやって来て、「看板を外せ!」と怒鳴り、殴りかかろうとしてウィロビー署長に止められる。

一方、ミルドレッドは地元テレビ局にも取り上げられ、「この広告が刺激になればと…警察のやることは分りません」などと、インタビューに答えるのだ。

そのテレビを観て、「ウィロビー署長に責任がある」と名指しで批判されたウィロビーは、「どうやら戦争になりそうだ」と、妻のアンに一言放つ。

「戦争」と言い放ったウィロビー署長は、ミルドレッドを訪問する。

「最大限の努力はしています。でも、DNAが前歴者と一致しなかった。全国どこにも該当者がいない」
「8歳以上の男の住民の血液を採取できない?」
全く噛み合わない二人の会話。

明らかに、ミルドレッドが「被害者利得」としての無茶な権利を主張するだけ。

膵臓がん」を告白するウィロビーに対し、「死んだあとじゃ意味ないでしょ」と言い放つミルドレッドの攻撃的な性格が露呈される。

「ホワイトバックラッシュ」(アファーマティブ・アクション=積極的是正措置に対する白人の反動)の激しい片田舎で、「小男」という「差別語」を平気で吐露するミルドレッドもまた、インディアン部族を含む人種・言語が混在するアメリカ中西部の内陸州の一角で、偏見に満ちた会話を捨てていく。

思えば、黒人青年が白人警察官によって射殺された事件(「マイケル・ブラウン射殺事件」)で暴動を惹起した、架空の田舎町を内包するミズーリ州は、事件の当事者の白人が不起訴になったことで衝撃を与えたように、黒人差別など人種差別に終わりが見えないアメリカの負の歴史を凝縮した殺気が漲(みなぎ)るエリアでもある。

閑話休題

母の一件で学校で苛(いじ)めに遭い、母親の行動に反発するミルドレッドの息子・ロビーに依頼され、神父も説得に乗り出すが、本人に全く聞く耳なく、悪意含みの言辞を放ち、拒絶するミルドレッド。

あまりに異様なミルドレッドの行為に、当然、拒否反応を示す田舎町の住人たち。

ミルドレッドの診療に際し、反感を抱(いだ)き、故意にミスした歯科医に対して、件(くだん)の歯科医の親指にドリルで穴を開けるという傷害事件を起こす始末。

アンジェラの事件を見直そうとするウィロビー署長が吐血し、救急車で運ばれていったのは、そんな折だった。

退院後、死期が近いと悟ったウィロビーは、妻と2人の娘を随伴させ、1日を充分に愉悦し、自死するに至る。

この一件によって、ミルドレッドに対する住民たちの風当たりが一層、強くなっていく。

中でも、ウィロビーに心酔していたディクソンの憤怒が収まらず、その情動が、ミルドレッドに広告板を設置させたレッドへの破壊的暴力に振れていく。

その現場を目撃した親署長の怒りを買い、即刻、解雇される憂(う)き目に遭うディクソン。
自業自得だった。

スリー・ビルボード」が激しい火炎の屑(くず)と化して、焼却してしまったのは、このくすんだ風景の只中だった。

事態の悪化は止まらない。

スリー・ビルボード」の放火がエビング警察の犯行と確信したミルドレッドが、警察署に放火したのは、彼女の行動傾向の必然的現象だったと言える。

無人のはずの署内に、ディクソンがいたのだ。

その結果、ハリウッド好みのアクションムービーが開かれる。

ディクソンは大火傷を負い、「小男」と馬鹿にされていたジェームズがディクソンを救助すると同時に、放火犯として誰からも疑われるミルドレッドも救済する。

ミルドレッドに好意も持つジェームズの機転で、一緒にいたと偽証し、ミルドレッドの逮捕は免れるのだ。

死せしウィロビーから、ミルドレッドのもとに手紙が届く。

そこには、「スリー・ビルボード」を維持するための広告板の費用を、自分が捻出(ねんしゅつ)したという文言があった。

【この辺りに、ウィロビーが町の住民たちから尊敬されている背景が顕在化するが、同時に、街中の誰もが知っているほどに、自分が膵臓癌の末期症状であることを告白する行為を含めて、
「尊敬される警察署長」を演じ続けてきた男の偽善性をも見透かされるだろう。「誰にも感情移入させない映画」の仕掛けでもあると思われる】

日ならず、「スリー・ビルボード」を燃やした犯人が分った。

元夫で、元警官、そして今、19歳の恋人と共存するチャーリーが、酔った勢いで燃やしてしまったと告白したのだ。

ショックを受けたミルドレッドは、「形だけのデート」でジェームズを傷つけた後ろめたさがあり、チャーリーを咎(とが)めることなくワインを贈り、その場を去っていく。

「怒りは怒りを来(きた)す」

チャーリーの19歳の恋人が吐露した引用セリフだが、本篇のメッセージであることを強く印象づける。

その後の展開は、「刑事になるのに必要なのは、“愛”だ」という、ディクソンに送ったウィロビーのダイイングメッセージの問題提起と重なるように、しかし、その難しさを内包しつつ、物語の稜線を広げていく。

アンジェラ事件の犯人が判明したのだ。

唐突だった。

少なくとも、ディクソンは、そう信じた。

その犯人に喧嘩を売ってまで採取したDNAの鑑定結果は、「正真正銘の無罪」。

物語は、ここから意想外の展開を開いていく。

〈状況〉が人間を動かし、支配する。

この映画の根柢にある思想である。

攻撃的言辞を止められない女と、破壊的暴力に振れる男。

言うまでもなく、ミルドレッドとディクソンのこと。

最後まで、物語を引っ張り続けた二人の交叉が、一気にラストシークエンスに流れていく。

その辺りについては、本作の肝なので、批評文として後述する。

以下、人生論的映画評論・続「人生論的映画評論・続: スリー・ビルボード('17)   マーティン・マクドナー」('17)より