全身リアリストの悶絶

 「“機銃を浴びせて手当てする”―― 欺瞞だ。見れば見るほど、欺瞞に胸がムカついた」

 これは、「地獄の黙示録」の主人公、ウィラード大尉が放った言葉。最悪なる戦場に向かう哨戒艇の中で、彼はその否定的な感情を吐き出したのである。

 「地獄の黙示録」は欺瞞を撃ち抜く映画であることによって、ニューシネマの極北を示した。映画の登場人物たちも、欺瞞という言葉を、粗い感情を込めて何度放っただろう。

 私自身もまた、この9年間余の間、欺瞞という言葉に最も馴染み、ウィラード大尉のように、それを粗い感情を込めて何度放っただろうか。

 2000年5月、私の身体は交通事故によって半壊した。

 爾来、私の身体は、極端な筋力劣化、激しい痺れと中枢性疼痛の地獄の世界に搦(から)め捕られていった。自力で便を排出できない現実と向き合うことによって、私はそれ以外に選択肢のない冷酷なリアリズムを引き受けていくしかなかったのだ。

 「頑張れば良くなります」などという、一切の励まし、美辞麗句、奇麗事は全く通用しない世界に押し込まれ、そこで「くすんだ天井」を仰ぎながら、その日一日、生きていくに足る分だけの呼吸を繋いでいった。

 それから9年余。

 現在の私は9年前の私と、恐らく、決定的に隔たった場所にいる。

 様々な作業を淡々と、時には噴き上がっていくような感情によって、何とか遂行することで開けた稜線から眺望できる風景の色彩には、眩い季節の原色感の深い濃度こそ脱色されているが、それでも天井のくすみが幾分か削られた心地良さを感受することも可能である。

 しかしそんな時間の緩慢とも思える変容に比較すれば、私の身体の劣化はあまりに性急過ぎた。

 もう私を囲繞(いにょう)する三次元空間の外部世界と繋がり得る、ミニマムな匍匐(ほふく)ですらも刻むことはない。間断なく続く激しい痺れも中枢性疼痛も、そこだけは呆れるほどに、些かの変容をも勝ち取る術もなく、さすがに、己(おの)が身体を駆動させるエリアの狭隘さに滅入ることは少なくなったが、それでも、複数の者との共生を困難にさせるだろう隘路の如き室内を、30分も要して匍匐する生活の到来を予測することなど不可能だった。

 現在の私は、「全身リアリスト」と化して、その日一日だけを生きている。「今」という瞬間だけを生きている。

 そんな私の劣化著しい視聴覚に、テレビからの不快な情報が垂れ流すように連射されてきて、最近は殆どスイッチオンすることはなくなった。当然過ぎることだった。テレビからの情報は信じ難いほどの欺瞞性に満ちていて、呆れるほどにジャンクなる情報の洪水なのだ。

 ―― 以下、その例を思いつくままに書いてみる。

 某テレビ番組でのこと。

 普段から日米軍事同盟不要論を説いていたニュースキャスターが、北朝鮮問題についてトークバトルしていた時のこと。その北朝鮮から攻められたらどうすんだと相手に発問されて、思わず口に出した言葉。

 「そのために米軍がいるんでしょ」

 こんな話は可愛いものだ。

 ソマリアの海賊対策のため、日本の護衛艦を派遣する政策に反対しながら、その護衛艦に守られて帰って来た民間国際交流団体の行動をネット情報で知ったときには、さすがに吹き出してしまったものだ。

 船旅の旅客船を持つ件(くだん)の環境団体が、約3カ月半に及ぶ地球一周を計画したものだが、あろうことか、ソマリア沖・アデン湾を航行する海自の護衛艦に守られていたという事実は、「船旅の企画・実施会社が護衛任務を調整する国土交通省海賊対策連絡調整室と安全対策を協議」(産経新聞)した結果、「主張とは別に参加者の安全が第一」(事務局の弁明コメント)と言ってのける、その度し難き厚顔無恥さを晒すに足る、呆れるほどの欺瞞性を充分に検証するものだった。(写真は、米国海軍艦艇から撮影したソマリア沖の海賊)

 デッキでフルーツパーティーを催す行動をする船旅が、海自派遣反対という声高な主張とは裏腹に、海自の護衛艦に守られることなしに船旅を自己完結できない現実に対して、全く矛盾を感じないその無頓着さ、鈍感さは、欺瞞に満ちたこの国の文化人やメディアの現在性を象徴する、殆どコメントの余地のないエピソードだったと言えるだろう。

 どれほどの声高な反対者であろうと、日本国民である限り、彼らの生命の安全を守るのは、国民国家としての当然の使命であることが理解できているからこそと言うべきか、この事実を知ったときの私の感情ラインは、掴まり立ちを始めたばかりの赤子への視線に似ていたかも知れない。それにしても、何という能天気な「活動家」連中であることか。

 ついでに書けば、このNGO団体を立ち上げた大学生が、後に左派政党の政治家になって、汚職を弾劾する急先鋒としてメディアの寵児と持て囃(はや)された挙句、本人が「秘書給与流用事件」(架空の政策秘書の給与を国から受けていた)の容疑者となり、まもなく逮捕・起訴され、懲役2年・執行猶予5年の有罪刑を受けるという紛れもない事実は、欺瞞の極致であると言う外にない。

 「汚職のデパート」と舌鋒鋭く批判していた御本人が、実は「汚職のデパート」の当人だったと言うわけだ。

 もう一つだけ書く。

 この国の欺瞞の極北は、放送メディアに尽きるだろう。

 常に「派遣」や「下請け」の問題を批判しながら、自分たち正社員の特権を確保している、まさにそのテレビ局内でこそ、最も下請け虐めが激しい現実が晒している醜悪さは、人間が集団の中で守られてしまうと、ここまで腐り果てることができるという最悪のモデルを見るようで、「反面教師」としての役割すらも持ち得ず、思わず引けてしまうほどだ。

 以下、記事の一端を添えておく。

 「制作会社の待遇改善を図るための『放送コンテンツの製作取引適正化に関するガイドライン』をまとめた。2009年3月中にも実施する。 ガイドラインでは、制作会社と契約書も交わさずに発注金額を引き下げる例がみられることから、金額を載せた契約書の交付を義務づけた。また、番組を安く買い叩くことや、制作会社が持っている著作権の譲渡を強いることも禁止した」(「J-castニュース 2009年2月23日」より)

 「不況の影響が深刻なテレビ業界だが、それでも国内トップクラスといわれる彼らの高給は今のところ維持されているようだ。各局の平均年収を見てみると、TBSの社員は 1550万円とテレビ業界トップ、次点はフジテレビの1534万円、そして日本テレビの1405万円、テレビ朝日 1322万円、テレビ東京 1226万円と続く。国税庁の『民間給与実態統計調査』などの統計では2007年のサラリーマンの平均年収は440万円程度だから、大手テレビ会社の社員には一般の会社員の3倍近くの給料が支給されていることになる」(「MONEY zine編集部 2009年2月8日」より) 

 既得権化された放送の免許特権を背景にして、居丈高に格差社会を憂う放送を垂れ流す、この国の放送メディアの度し難き欺瞞性。

 ついでに書けば ―― かくも欺瞞に満ちた、この国のメディアの情報を自分の意見の基準にする、この圧倒的なメディア・リテラシーの不足は今に始まったことではないが、イギリスにおけるシチズンシップ教育とはいかなくとも、せめて都立桜修館中等教育学校(目黒区)のように、「課題を解決する力を育成する総合的な学習の時間」(同校HPより)の中で、論理的思考力を育てるカリキュラムの形成くらいは必要であろう。

 メディアの欺瞞性と全く歩調を合わせられなくなった私は、お蔭でテレビの視聴時間が削られることで、自分なりのテーマ思考の継続性が確保されている。自分にとって、これだけでも喜ばしき現象ではあった。

 この国の欺瞞性について例証すれば限りないが、政治のフィールドにまで視界を広げれば、恐らく数多あって、言及する気にすらならないだろう。

 そんな私が、「読んではならないものを、読んでしまったときの不快感」を、一体、どのように表現すべきなのか。

 以下、今度は敢えて個人名を挙げて、そのHPを引用しよう。

 「民主党の目指す社会は、私流に言えば友愛社会です。すなわち、個人の自立・尊厳を前提に互いに支えあう社会です。今日、日本が直面している最大の課題である少子高齢化問題も、友愛精神に基づく下記の政策で解決し、国民が安心して、心豊かに暮せる社会を実現してまいります(略)世界の平和を自ら築いていくことが、これからの日本の安全を守るための基本です。その上で、国連をはじめとした国際社会に積極的に貢献し、グローバル化した世界の諸問題の解決に取り組む尊厳ある日本を目指します。国家として自立し、価値の異なる社会とも共生していける友愛外交を推進する」(鳩山由紀夫HP)

 「友愛社会」とか「友愛精神」、「友愛外交」などという抽象的で意味不明な言葉を、一国の総理大臣ともなると予想されるエリート政治家が安直に使うことの怖さについて、恐らく、能天気で苦労知らずの御仁には、全く感受し得ないに違いない。

 人生の底か、底に近い辺りまでも見たことがない人間が簡単に使う言葉の典型例が、ここに渦巻いていて、これから「人生の本物の野蛮な実態」、「人間の驚くほどの脆弱さ」について、その初歩から学習するのは相当にタフな自我でなければ難しいだろうと想像されて、ある意味で、様々な人間の様々な醜悪さ、愚昧さを勉強し得るデータとして、私も心して観察していこうと思う。

 人生の底か、底に近い辺りまでも見たことがない人間が、同様に、人生の底を見てきていない高級官僚を使う能力があるとは到底思えないのだ。

 「逃避拒絶」としての「覚悟」と、「恐怖支配力」としての「胆力」の欠如した、口先だけの能天気な、人間音痴の阿呆な政治家の例は、「メール事件」を惹起した挙句、議員辞職して、哀れにも自死に追い遣られた一件を想起するだけで充分だろう。

 その「メール事件」の際に、その真贋性を判断できない若い政治家たちの、信じ難き愚昧さを散々見せつけられてきたから(注1)、もう驚くこともないが、それにしても、「本物の権力闘争」とも無縁で、「人間」と「人生」に呆れるほど精通していないこの国の政治家連中の、その大甘なメンタリティを見ていると、やはりこの国の将来は、「肝の座った日本女子」の奇跡的到来に期待するしかないのだろうか、と思う今日この頃である。


(「心の風景/全身リアリストの悶絶」より)http://www.freezilx2g.com/2009/07/blog-post_18.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)