1 アーリー・スモール・サクセスを遥かに超えた、ビギナーズラックという最適消費点
人並みの希望を持ち、人並みの悲哀を味わって、日々に呼吸を繋ぐごく普通の人々が、その日常性の枠内で、心地良い刺激をごく普通に求めるとき、まさにそのニーズを保証するに足る典型的な表現技巧がそこにあった。
その表現技巧が保証するのは、心地良き刺激を求める普通の人々の、ごく平均的な感性を印象深く揺さぶる「感動」であると言っていい。
この映画は、そのようなごく普通の人々が、どのようなとき、どのような場面で、どのような振れ方によって、感動のマキシマムを分娩するかということを、ほぼ完璧に計算して作り上げられた作品である。
それは、ごく普通の人々がごく普通に求める、その類の感動を簡単に安売りしないという含みの内に展開された物語の面白さが、そこに様々な伏線によって巧妙に構築された娯楽映画の要素によって、恐らく最大級のトリビュートの余情深く、観る者の心を鷲掴みにした成功作と言っていい。
人の心が閉鎖系になることで却って裸形の感情が露わになる、刑務所という非日常の極致のようなステージの設定という限定的なスポットを特化して、そこで展開される物語の枠内に、感動の安売りを意識させないような低ハードルのイメージのラインを潜入させることで、観る者に値踏みされた以上の感動を分娩する、典型的な映画の真骨頂がそこにある。
だからそれは、ビギナーズラックの決定力を持ち得た作品となった。
実は、その中身は相当に粗雑なものであったにも拘らず、アーリー・スモール・サクセス(最初の小さな成功)を遥かに超えたビギナーズラックという最適消費点によって、この映画は「最高の感動」を保証したのである。
2 「ショーシャンクでの償い」の向こうに
この作品で、作り手がアピールしている文言は唯一つ。
一に「希望」、二に「希望」、三にも四にも「希望」である。
これほど「希望」という観念を押し付けながら、観る者に押し付けがましさを感じさせない物語展開の巧妙な技巧が、本作を最後まで引っ張り切ったのである。
因みに、この映画の原題は、「The Shawshank Redemption」。
その意味は、「ショーシャンクでの償い」。
それを象徴するシーンが、後半に用意されていた。
トムの一件(注1)で懲罰房に入れられたアンディ・デュフレーン(以下、「アンディ」)が、件の房から出て来たとき、塀の中で得た親友の“調達係”、レッドに語った話がそれである。
そこには、自らの冤罪を晴らす最後のチャンスを失って、脱獄を決意させた主人公のアンディの懊悩と覚悟が滲み出ていた。
「妻は私が陰気な男で、文句ばかり言っていると嘆いていた。美人だった。愛してた。でも、表現できなくて・・・私が彼女を死に追い遣ったも同然だと思う。こんな私が彼女を死なせた・・・私は撃っていない。充分過ぎるほどの償いをした」
実はそこに、レッドが仮釈放されたときのシグナルが含意されていたが、それとは別に、このシーンは、明らかに夫婦生活を破綻に陥れた自分の倫理的な責任を、20年近くに及ぶ刑務所生活によって償い切ったと語る重要な場面であった。
「選択肢は二つだ。必死に生きるか、必死に死ぬか」
これは、そのとき放った、アンディの極め付けの名文句。
本作は、このフレーズをアピールしたいための映画でもあった。
この言葉の意味は、〈生〉を〈死〉によって相対化し切るということだ。
つまり、死ぬ覚悟なしに、この非日常の地獄からの自力突破は不可能であるということ。
それ以外ではないだろう。
人並みの希望を持ち、人並みの悲哀を味わって、日々に呼吸を繋ぐごく普通の人々が、その日常性の枠内で、心地良い刺激をごく普通に求めるとき、まさにそのニーズを保証するに足る典型的な表現技巧がそこにあった。
その表現技巧が保証するのは、心地良き刺激を求める普通の人々の、ごく平均的な感性を印象深く揺さぶる「感動」であると言っていい。
この映画は、そのようなごく普通の人々が、どのようなとき、どのような場面で、どのような振れ方によって、感動のマキシマムを分娩するかということを、ほぼ完璧に計算して作り上げられた作品である。
それは、ごく普通の人々がごく普通に求める、その類の感動を簡単に安売りしないという含みの内に展開された物語の面白さが、そこに様々な伏線によって巧妙に構築された娯楽映画の要素によって、恐らく最大級のトリビュートの余情深く、観る者の心を鷲掴みにした成功作と言っていい。
人の心が閉鎖系になることで却って裸形の感情が露わになる、刑務所という非日常の極致のようなステージの設定という限定的なスポットを特化して、そこで展開される物語の枠内に、感動の安売りを意識させないような低ハードルのイメージのラインを潜入させることで、観る者に値踏みされた以上の感動を分娩する、典型的な映画の真骨頂がそこにある。
だからそれは、ビギナーズラックの決定力を持ち得た作品となった。
実は、その中身は相当に粗雑なものであったにも拘らず、アーリー・スモール・サクセス(最初の小さな成功)を遥かに超えたビギナーズラックという最適消費点によって、この映画は「最高の感動」を保証したのである。
2 「ショーシャンクでの償い」の向こうに
この作品で、作り手がアピールしている文言は唯一つ。
一に「希望」、二に「希望」、三にも四にも「希望」である。
これほど「希望」という観念を押し付けながら、観る者に押し付けがましさを感じさせない物語展開の巧妙な技巧が、本作を最後まで引っ張り切ったのである。
因みに、この映画の原題は、「The Shawshank Redemption」。
その意味は、「ショーシャンクでの償い」。
それを象徴するシーンが、後半に用意されていた。
トムの一件(注1)で懲罰房に入れられたアンディ・デュフレーン(以下、「アンディ」)が、件の房から出て来たとき、塀の中で得た親友の“調達係”、レッドに語った話がそれである。
そこには、自らの冤罪を晴らす最後のチャンスを失って、脱獄を決意させた主人公のアンディの懊悩と覚悟が滲み出ていた。
「妻は私が陰気な男で、文句ばかり言っていると嘆いていた。美人だった。愛してた。でも、表現できなくて・・・私が彼女を死に追い遣ったも同然だと思う。こんな私が彼女を死なせた・・・私は撃っていない。充分過ぎるほどの償いをした」
実はそこに、レッドが仮釈放されたときのシグナルが含意されていたが、それとは別に、このシーンは、明らかに夫婦生活を破綻に陥れた自分の倫理的な責任を、20年近くに及ぶ刑務所生活によって償い切ったと語る重要な場面であった。
「選択肢は二つだ。必死に生きるか、必死に死ぬか」
これは、そのとき放った、アンディの極め付けの名文句。
本作は、このフレーズをアピールしたいための映画でもあった。
この言葉の意味は、〈生〉を〈死〉によって相対化し切るということだ。
つまり、死ぬ覚悟なしに、この非日常の地獄からの自力突破は不可能であるということ。
それ以外ではないだろう。
(人生論的映画評論/ショーシャンクの空に('94) フランク・ダラボン <「希望」という名の人生の求心力、遠心力>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/04/94.html