1 「Kramer vs. Kramer」という原題の意味するもの ①
この映画から、私が感じ取った率直な感懐を書いていく。
それは、我が子の親権を巡って、人事訴訟を起こすに至った元夫婦が、相互の弁護士による攻撃的でハードな応酬によって出来した局面にインボルブされながらも、「息子の幸福にとって、どちらの親が養育することが相応しいのか」という、極めて現代的で根源的な問題に対して、一貫して真摯に向き合うことの大切さであり、想像を絶したであろう、「法廷闘争」下におけるリアルな状況の中で、件の元夫婦が人間的にも社会的にも、深く学習するに至った心理プロセスを丁寧に描き切ったことである。
事故の際に救急車を追い駆けて、その被害者から賠償請求訴訟を引き受ける弁護士(アンビュランス・チェイサー)の存在が揶揄されるほど、訴訟大国アメリカの、「とことん決着をつけざるを得ない文化」の過剰な臭気がその背景に垣間見られるが、何しろ、その民事一審訴訟件数は、欧州の6、7倍と言われ、弁護士数に至っては、日本の20倍との数字が独り歩きするくらいである。
本作の場合、家出した元妻が原告となって、7歳の息子の親権を争う物語だが、常識的に考えた場合、事情がどうであるにせよ、家出された元夫に勝ち目がないケースであるにも拘らず、既に我が子の養育で解雇されたばかりの主人公のテッドは、「息子を自分で養育したい」という元妻の要求を蹴って、人事訴訟での決着に打って出たことから「法廷闘争」が開かれていった。
「どんなことをしても、相手を叩き潰すことだ」
これは、勝ち目がないと括った彼の弁護士が、当人に言い聞かせた言葉。
まさに、かつての夫婦は、我が子の親権を巡って、裸形の自我を晒すに至るタフな「法廷闘争」を繰り広げたのである。
近年、日本でも本家のアメリカ輸入の、ADRという名の「裁判外紛争解決手続」(訴訟に任せない、当事者を中心にした紛争解決方法)が注目されているが、しかし本作で展開されたその「裁判内紛争解決手続」の実態は、本来、ADR等の方法によって話し合いで解決すべきプライバシーの問題を、民事法廷の場を通して、かつて共存した配偶者である相手を甚振り、不必要なまでに不快にさせる状況を作り出してしまった想像以上のシークエンスが、後半の映像のピークアウトとして記録されたのである。
このような夫婦の、このような関係性の密度の希薄さであったなら、一見、このような展開になるであろう流れ方に沿うかのようにして、恐らく、ごく普通の裸形の自我を晒すに至った、件の人事訴訟での「過剰な副産物」の事例を映像から拾ってみよう。
まず、原告の妻ジョアンナに対する、夫側の被告弁護士の厳しい追及が続いた。
彼女は既に原告弁護士の質問に対して、「彼の冷たい態度は、私の感情を無視したので、私は自殺寸前でした。この恐怖と不幸が、私に家を捨てさせたのです」と答えていたのである。
明らかにジョアンナに同情的な法廷の空気を裂くように、被告弁護士は、まずテッドを庇うようにして彼女を責めていく。
「結婚生活は8年でしたな。その間、ご主人はあなたに肉体的暴力を振るいましたか?」
「いいえ」
「息子に肉体的暴力を加えたことは?」
「いいえ」
「ご主人はアルコール中毒で?」
「いいえ」
「別れた理由はよく分りますな」
この後、ジョアンナの男友達について詳細に質問した後、被告弁護士は、夫であるテッドとの人間関係の失敗の責任問題の重要性について、彼女をを追い詰めていくのだ。
「両親と女友だち以外で、最も長く付き合ったのは?」
「私の子供です」
「一年に二度しか会わんのに?クレイマー夫人、前のご主人が一番長い付き合いじゃないんですか?」
「そうです」
「何年です?」
「子供が生まれる前が一年、その後は7年」
「すると、最も重要な人物との交流に失敗した訳だ」
「失敗はしていません」
「成功と言えますかな。離婚で終わった場合に」
「失敗は主人の方です」
このジョアンナの力ない言葉に、被告弁護士は畳みかけていった。
「人生で、最も重要な人物との関係が失敗しているというのに」と弁護士。
「成功はしていません」とジョアンナ。
「結婚ではなくて、あなただ。大切な人間関係に失敗したのは、あなた自身だ。そうでしょう!」
被告弁護士は怒鳴ってみせた。
想定外の状況に置かれたジョアンナは、嗚咽するばかりだった。
「認めますか?夫人」と裁判長。
「はい」と頷くジョアンナ。
これが、初日の「法廷闘争」の内実だった。
この映画から、私が感じ取った率直な感懐を書いていく。
それは、我が子の親権を巡って、人事訴訟を起こすに至った元夫婦が、相互の弁護士による攻撃的でハードな応酬によって出来した局面にインボルブされながらも、「息子の幸福にとって、どちらの親が養育することが相応しいのか」という、極めて現代的で根源的な問題に対して、一貫して真摯に向き合うことの大切さであり、想像を絶したであろう、「法廷闘争」下におけるリアルな状況の中で、件の元夫婦が人間的にも社会的にも、深く学習するに至った心理プロセスを丁寧に描き切ったことである。
事故の際に救急車を追い駆けて、その被害者から賠償請求訴訟を引き受ける弁護士(アンビュランス・チェイサー)の存在が揶揄されるほど、訴訟大国アメリカの、「とことん決着をつけざるを得ない文化」の過剰な臭気がその背景に垣間見られるが、何しろ、その民事一審訴訟件数は、欧州の6、7倍と言われ、弁護士数に至っては、日本の20倍との数字が独り歩きするくらいである。
本作の場合、家出した元妻が原告となって、7歳の息子の親権を争う物語だが、常識的に考えた場合、事情がどうであるにせよ、家出された元夫に勝ち目がないケースであるにも拘らず、既に我が子の養育で解雇されたばかりの主人公のテッドは、「息子を自分で養育したい」という元妻の要求を蹴って、人事訴訟での決着に打って出たことから「法廷闘争」が開かれていった。
「どんなことをしても、相手を叩き潰すことだ」
これは、勝ち目がないと括った彼の弁護士が、当人に言い聞かせた言葉。
まさに、かつての夫婦は、我が子の親権を巡って、裸形の自我を晒すに至るタフな「法廷闘争」を繰り広げたのである。
近年、日本でも本家のアメリカ輸入の、ADRという名の「裁判外紛争解決手続」(訴訟に任せない、当事者を中心にした紛争解決方法)が注目されているが、しかし本作で展開されたその「裁判内紛争解決手続」の実態は、本来、ADR等の方法によって話し合いで解決すべきプライバシーの問題を、民事法廷の場を通して、かつて共存した配偶者である相手を甚振り、不必要なまでに不快にさせる状況を作り出してしまった想像以上のシークエンスが、後半の映像のピークアウトとして記録されたのである。
このような夫婦の、このような関係性の密度の希薄さであったなら、一見、このような展開になるであろう流れ方に沿うかのようにして、恐らく、ごく普通の裸形の自我を晒すに至った、件の人事訴訟での「過剰な副産物」の事例を映像から拾ってみよう。
まず、原告の妻ジョアンナに対する、夫側の被告弁護士の厳しい追及が続いた。
彼女は既に原告弁護士の質問に対して、「彼の冷たい態度は、私の感情を無視したので、私は自殺寸前でした。この恐怖と不幸が、私に家を捨てさせたのです」と答えていたのである。
明らかにジョアンナに同情的な法廷の空気を裂くように、被告弁護士は、まずテッドを庇うようにして彼女を責めていく。
「結婚生活は8年でしたな。その間、ご主人はあなたに肉体的暴力を振るいましたか?」
「いいえ」
「息子に肉体的暴力を加えたことは?」
「いいえ」
「ご主人はアルコール中毒で?」
「いいえ」
「別れた理由はよく分りますな」
この後、ジョアンナの男友達について詳細に質問した後、被告弁護士は、夫であるテッドとの人間関係の失敗の責任問題の重要性について、彼女をを追い詰めていくのだ。
「両親と女友だち以外で、最も長く付き合ったのは?」
「私の子供です」
「一年に二度しか会わんのに?クレイマー夫人、前のご主人が一番長い付き合いじゃないんですか?」
「そうです」
「何年です?」
「子供が生まれる前が一年、その後は7年」
「すると、最も重要な人物との交流に失敗した訳だ」
「失敗はしていません」
「成功と言えますかな。離婚で終わった場合に」
「失敗は主人の方です」
このジョアンナの力ない言葉に、被告弁護士は畳みかけていった。
「人生で、最も重要な人物との関係が失敗しているというのに」と弁護士。
「成功はしていません」とジョアンナ。
「結婚ではなくて、あなただ。大切な人間関係に失敗したのは、あなた自身だ。そうでしょう!」
被告弁護士は怒鳴ってみせた。
想定外の状況に置かれたジョアンナは、嗚咽するばかりだった。
「認めますか?夫人」と裁判長。
「はい」と頷くジョアンナ。
これが、初日の「法廷闘争」の内実だった。
(人生論的映画評論/クレイマー、クレイマー('79) ロバート・ベントン <男女の役割分担が崩壊することで開かれた、新しい文化の様態>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/01/79.html