やわらかい手('07)  サム・ガルバルスキ <「不健全な文化」を適度に包括する、「健全な社会」の大いなる有りよう>

 1  「感動譚」を成就させる推進力として駆動させた文化としての「風俗」



 難病と闘う孫を、その孫を愛する祖母が助ける。

 「あの子のためなら何でもするわ。後悔なんて少しもよ。家くらい何なの」

 冒頭シーンで、既に家を手放した祖母が、息子に吐露した言葉だ。

 祖母の名は、マギー。

 ロンドン郊外の町に住んでいる。

 この冒頭シーンで、予備情報を持たない観客は、本作が在り来たりの「感動譚」であるというイメージを想念するだろう。

 大抵、この類の「感動譚」の物語構成は、「無償の愛」という犠牲的精神をフル稼働させて、その「無償の愛」によって救われる「心優しき愛の受給者」と、「心優しき愛の供給者」という関係性の枠内で安直に処理されるケースが多いからだ。
そんな安直な設定だけでも感涙に咽ぶ「物語の需要者」が、この世にごまんと存在するが故に、いつしか「物語の供給者」も、マンネリ化した「感動譚」を過剰に垂れ流す不埒な戦略に鈍感になっていく。

 挙句の果てに、「物語の需要者」にも飽きがきて、この類の「感動譚」の連射も頭打ちになっていく運命を免れなくなるだろう。

 ところが、「感動譚」の定番の如き虚飾と欺瞞に満ち満ちた話を、この映画は、観る者が思わず赤面するような直球勝負で描かないのだ。

 あろうことか、この「感動譚」を成就させる推進力として駆動させたもの ―― それは、およそ「感動譚」とは無縁な文化としての「風俗」であったこと。

 そこが、この映画の最も面白いところでもあった。
 
 
(人生論的映画評論/やわらかい手('07)  サム・ガルバルスキ  <「不健全な文化」を適度に包括する、「健全な社会」の大いなる有りよう>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/10/07.html