憎悪の共同体

 人は自分が嫌っている者に対して、他の者も一緒に嫌ってくれることを切望して止まない厄介な側面を、多かれ少なかれ持っている。(写真はアウシュヴィッツ強制収容所

 自分がある人間を嫌うには、当然の如く、嫌うに足る充分な根拠があると確信し、その確信を他者と共有することで、特定他者に対する意識の包囲網を形成せずにはいられないようだ。この意識の包囲網を、私は「憎悪の共同体」と呼ぶ。

 人々の憎悪が集合することは、個人の確信を一段と強化させるから、仮想敵に対する攻撃のリアリティを増幅させていく。そこに集合した憎悪は何倍ものエネルギーとなって、大挙して仮想敵に襲いかかる。そこに快楽が生まれる。この快楽が共同体を支え切るのだ。だから、この負性の展開に終わりが来ないのである。

 自分が嫌う相手を自分と一緒に嫌い、自分と一緒に襲ってくれる者を人は仲間と呼び、味方とも呼び、しばしば同志と呼びさえもする。この仲間たちと共有する一体感は、感情が上気している分だけ格別である。それは快楽以外の何ものでもないのだ。

 同志とは、敵の仮構によってのみ成立する相対的概念である。

 敵を作ることによって同志が生まれ、その同志の連帯の強化は、強大なる敵の実在感によって果たされる。この実在感は、我々が憎悪し、警戒し、身構えるという期待された反応を示すことで、敵の意識の中で集中的に高まっていく。敵のこうした反応なくして、「憎悪の共同体」の勇ましい立ち上げは困難なのである。共同体の同盟性の推進力は、仮想敵の反応こそを、そこに作り出してしまうのだ。

 そして、我々の圧倒的攻勢がじわじわと敵を炙(あぶ)り出していくとき、そこに誰の眼にも明らかな優劣関係が形成されるだろう。

 敵は我々の憎悪の根拠になった文脈を認知し、それを懺悔し、しばしば許しを請う。極端に言えば、そこまでの儀式を要請し、それを確認しないと、「憎悪の共同体」は自己完結を果たせないのだ。優劣関係の成立という指標によってのみ、攻撃者たちの共同体的、個別的自我は負の循環を終えることになる。
 
 これを私は、「負の自己完結」と呼んでいる。

 ところが、関係に顕著な優劣性が生じるや、そこに新たな展開が開かれる。陰湿な虐めや虐待が日常化するのである。これは際限ない過剰な展開の日常化であり、「負の自己未完結」の世界の始まりである。

 人間には、ここまで腐ることができる能力がある。

 だから決して、「負の自己完結」の行程を開かないことである。憎悪を簡単に集合させないことである。憎悪に駆られることは仕方ない。憎悪の感情を無理に抑圧しようとすることの方が、却って自我を歪めることにもなるからだ。

 しかし憎悪という個人的感情を、他者の類似した感情と繋いでいこうとは決して考えてはならない。感情を束ねていくことが最も危険なことなのだ。憎悪を組織した集団が、一番厄介なのである。

 もし貴方が、憎悪の共同体を形に変えようとするならば、まず匿名特権を捨て去ることである。そして単独者としての自己責任によって、その過熱した展開を抑え切り、抜けていくことである。もしそこに継続性が生まれたら、覚悟を決めて自爆の未来に向かっていくがいい。それくらいの覚悟なくして、憎悪を形に変えたりしないことだ。
 
 
(「心の風景/憎悪の共同体」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_1863.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)